支那歴史的思想の起源 - 内藤 湖南 ( ないとう こなん )
近頃は私は田舍にばかり引つ込んで居りまして皆さんにお目に掛る機會が少いのでありますが、今度何か支那學會の大會でお話をしろといふことでございますので、段々老衰を致しまして、新しく何物かを調べてお話をするといふやうな大儀なことは叶ひませんから、何ぞ何も新しく調べんでもよいものが思ひ出せたらお引受けしませうと言つて居りました。その後、何かそんなものは無いかと思つて家(うち)の中を搜しました所が、今から十數年前、支那史學史を大學で講義して居つたことがありますので、その時に多分講義をしなかつた分だらうと思ひます、後(あと)からその筆記を訂正します時に、ちよつと紙二、三枚にそれだけ補ふ心算で書いて居つたものが見付かりました。もう大抵大學に居られる方もお若い方ばかりで年代が變つて居りますから、たとへ私がその時分にこの講義をして居りましても、それをもう御承知の方は無いことと思ひます。そんな古いものでありますから、一向新研究でも何でもありません。それで若しそれが講義せずにあつた分でありますれば、尚この際にちよつと其のお話をして置く方が私にとつても都合がよいと思ひますので、其の部分だけはつまり私の手許に講義の筆記も何もなく、只ちよつと要綱のやうな一つ書きが殘つて居るだけでありますから、横着なやうでありますが、ここで筆記して下さるといふ話でありますから尚都合がよいので、講義のし殘しをここで補充をする譯であります。若しひよつとして、さういふ風に要綱だけでも書いてありますから、何處かでお話をしてあるかも知れません、そのお話を聽いて居られる方がありましたらどうぞ勘辨願ひます。尤もお聽きになつても多分お忘れになつて居る頃と思ひます。
それで「支那歴史的思想の起源」といふ、何だか如何にも近頃の演題としては、ひどく氣の利かない題目であります。近頃はかういふ風な幼稚な題目は流行りませんで、皆凝りに凝つた題目ばかり流行つて居つて、題目を見ると、何の内容があるのか分らんやうなのが流行りますけれども、至つて分り易い題目であります。
實は私の支那史學史といふものは、抑※それを始めましたのは大正三年頃でありますから、今から十九年廿年前であります。それを訂正して二度繰返しました。それで二度目の時でありましても十數年前で、多分大正八・九年頃から二年か三年續けてやつて居ります。その後訂正は一通りはしてあります。大正十二年、私大病をした後に有馬に暫く居りました。その時に筆記の訂正だけは致しましたけれども、之を出版する程の訂正をするのは、もう少し暇がかかりますので、其の儘に打つちやらかして今日迄發表をしないのであります。
さういふ譯で隨分研究とすれば、もう黴の生えて居る研究であります。その時に大體この支那の歴史の起源といふやうなものに就いて色々研究をして見ました。或はその中の研究で、私が先にやつたことを後に王國維氏がやつたのが、今日では王國維氏の創説のやうになつて居る部分なんぞありますが、ともかく一通り歴史の起源といふやうなことに就て、その時考へて見たのであります。その時講義しました歴史の起源は、多くは史料の起源、記録の起源といふやうなものに就てやりましたので、餘り歴史的思想の方の起源はやつて居らなかつたやうに思ひまして、それでその部分が缺けて居ると思ひまして、後(あと)でその要領だけを補つてその筆記の中へ挾んで居つたと思ひます。大分老衰の加減で記憶が惡くなつておりますから、間違つて居るかも知れません。
實は起源と申しましても、起源といふ方がよいのか、或はその歴史的思想が段々發達して居る徑路に及んで居るのでありますから、歴史的思想の發達と云ふ方がよいかも知れません。ともかくさういふ方のことに就て、色々の材料に就て考へました。
第一は比較的正確な記録の中に見えてゐる歴史的思想であります。支那の古記録、例へば經書といふやうなものでも、絶對に正確といふことを申しますのは餘程困難であります。先づ比較的正確と言ふより外致し方ありません。それでつまり尚書などが最も比較的正確な記録であると思ひますが、その尚書の中に、又最も比較的正確な部分があると思ひます。それはどういふことかと申しますと、周の初め、周公を中心として書いたものが最も比較的正確であらうと思ふのであります。今日の尚書の中の、確かだと言はれる今文尚書の中で、殊に周公に關することが比較的正確であると思ひます。その理由まで申すとなか/\長くなりますから、今日はお預りして置きます。でその周公に關係したことと申しますといふと、例へば大誥・康誥・酒誥・召誥・洛誥、之を五誥と申しますが、その五誥であるとか、或はそれに續いてあります所の無逸・君※・多士・多方・立政、さういふ諸篇は皆周公に關係したものであります。それが先づ大體に於て尚書の中でも比較的正確なものだと思ひます。しかし之に就て更に細かに考へて見ますと、その中でも純粹な記録で保存されたものといふものはなかなか無いのでありまして、一部分は記録、一部分は傳誦で傳はつて居つたやうな形であります。その中でも、記録として遺つた部分の多からうと思ひますのは今の五誥の種類でありまして、それに比べますと無逸とか君※とかいふやうなものは多少物語として遺つたかのやうに考へられる部分が多いのであります。尤もそれにしても、即ちそれが多少物語になつて遺つて居つたとしても、その物語は、或る新らしい時代に簡册に書かれたものでなくして、相當古い時代に書かれたものでないかと考へられます。それらの周公に關係しましたものの中で、最後に出て居りますのは立政篇でありますが、その中に使つてある文字、――妙なことから私考へ付いて居りますのですが、その中に助字の「矣」の字を使つて居ります。助字の「矣」の字を使つて居る篇は、周公に關係した諸篇の中で立政一つである。さうしてそれが詩經などの例に依りますと、「矣」の字が段々多く使はれて來て居りますのは、大體西周の末頃から東周の初め頃に出來ました詩に多いやうに考へられますので(1)、この立政などは少くとも周公に關する説話が、東周の初め迄の間に書かれたものではないかと思ひます。さうしてそれが周公に關係した諸篇の最後に出て居りますから、それ以外のものは大體それ以前に書かれたかと、まあ想像するのでありますが、まだそれを極めてはつきりと申上げる程研究はして居りませんです。
ともかくさういふ次第でありまして、先づその中で五誥といふやうなものは、傳來して居る支那の記録としては最も確かなものではないかと考へられます。もう一つこの中で召誥・洛誥が餘程古からうといふ證據としては、洛誥篇の組立てが餘程妙に出來て居りまして、一篇の最後に年月を書いて居ります。洛誥篇の最後に「惟周公誕保文武受命惟七年」と書いてありますが、その前に「在十有二月」と書いてあります。で、この召誥・洛誥といふ二篇は、これはその内容の意味は連續してゐる記事でありまして、これは殆ど同時に出來たといふことは内容からして疑ひのないものでありますが、その洛誥の末尾にかういふ紀年の書き方がしてあります。この紀年の書き方は、之を銅器の銘と比較して見ますと、銅器の銘の中でやはり最も古い書き方の所にこれがあるのであります。大盂鼎・小盂鼎といふ銅器がありまして、これは今日に遺つて居る銅器の中で、最も製作も立派なもので、さうしてその銘の内容も餘程淳古なものとなつて居るのでありますが、その銅器の紀年のし方は、大盂鼎の方にはやはり最後に年を書いて居りまして、さうして「隹(惟)王廿又三祀」とあります。それから小盂鼎の方は「隹王廿又五祀」とあります、これが最後にあります。その外私は當時之を調べました頃に※古録金文などに當つて見たのでありますが、※古録金文に出て居ります銅器では※尊、これがやはり最後に歳月が出て居ります。これが餘程變な書き方をして居りまして、「隹王十祀有五※日」、かういふ紀年の書き方をして居ります。それからもう一つは庚申父丁角としてありますが、これは多分今住友家に來て居るのでないかと考へます。或は宰※角とも申します。これには「在六月隹王廿祀」とあります。
それで「支那歴史的思想の起源」といふ、何だか如何にも近頃の演題としては、ひどく氣の利かない題目であります。近頃はかういふ風な幼稚な題目は流行りませんで、皆凝りに凝つた題目ばかり流行つて居つて、題目を見ると、何の内容があるのか分らんやうなのが流行りますけれども、至つて分り易い題目であります。
實は私の支那史學史といふものは、抑※それを始めましたのは大正三年頃でありますから、今から十九年廿年前であります。それを訂正して二度繰返しました。それで二度目の時でありましても十數年前で、多分大正八・九年頃から二年か三年續けてやつて居ります。その後訂正は一通りはしてあります。大正十二年、私大病をした後に有馬に暫く居りました。その時に筆記の訂正だけは致しましたけれども、之を出版する程の訂正をするのは、もう少し暇がかかりますので、其の儘に打つちやらかして今日迄發表をしないのであります。
さういふ譯で隨分研究とすれば、もう黴の生えて居る研究であります。その時に大體この支那の歴史の起源といふやうなものに就いて色々研究をして見ました。或はその中の研究で、私が先にやつたことを後に王國維氏がやつたのが、今日では王國維氏の創説のやうになつて居る部分なんぞありますが、ともかく一通り歴史の起源といふやうなことに就て、その時考へて見たのであります。その時講義しました歴史の起源は、多くは史料の起源、記録の起源といふやうなものに就てやりましたので、餘り歴史的思想の方の起源はやつて居らなかつたやうに思ひまして、それでその部分が缺けて居ると思ひまして、後(あと)でその要領だけを補つてその筆記の中へ挾んで居つたと思ひます。大分老衰の加減で記憶が惡くなつておりますから、間違つて居るかも知れません。
實は起源と申しましても、起源といふ方がよいのか、或はその歴史的思想が段々發達して居る徑路に及んで居るのでありますから、歴史的思想の發達と云ふ方がよいかも知れません。ともかくさういふ方のことに就て、色々の材料に就て考へました。
第一は比較的正確な記録の中に見えてゐる歴史的思想であります。支那の古記録、例へば經書といふやうなものでも、絶對に正確といふことを申しますのは餘程困難であります。先づ比較的正確と言ふより外致し方ありません。それでつまり尚書などが最も比較的正確な記録であると思ひますが、その尚書の中に、又最も比較的正確な部分があると思ひます。それはどういふことかと申しますと、周の初め、周公を中心として書いたものが最も比較的正確であらうと思ふのであります。今日の尚書の中の、確かだと言はれる今文尚書の中で、殊に周公に關することが比較的正確であると思ひます。その理由まで申すとなか/\長くなりますから、今日はお預りして置きます。でその周公に關係したことと申しますといふと、例へば大誥・康誥・酒誥・召誥・洛誥、之を五誥と申しますが、その五誥であるとか、或はそれに續いてあります所の無逸・君※・多士・多方・立政、さういふ諸篇は皆周公に關係したものであります。それが先づ大體に於て尚書の中でも比較的正確なものだと思ひます。しかし之に就て更に細かに考へて見ますと、その中でも純粹な記録で保存されたものといふものはなかなか無いのでありまして、一部分は記録、一部分は傳誦で傳はつて居つたやうな形であります。その中でも、記録として遺つた部分の多からうと思ひますのは今の五誥の種類でありまして、それに比べますと無逸とか君※とかいふやうなものは多少物語として遺つたかのやうに考へられる部分が多いのであります。尤もそれにしても、即ちそれが多少物語になつて遺つて居つたとしても、その物語は、或る新らしい時代に簡册に書かれたものでなくして、相當古い時代に書かれたものでないかと考へられます。それらの周公に關係しましたものの中で、最後に出て居りますのは立政篇でありますが、その中に使つてある文字、――妙なことから私考へ付いて居りますのですが、その中に助字の「矣」の字を使つて居ります。助字の「矣」の字を使つて居る篇は、周公に關係した諸篇の中で立政一つである。さうしてそれが詩經などの例に依りますと、「矣」の字が段々多く使はれて來て居りますのは、大體西周の末頃から東周の初め頃に出來ました詩に多いやうに考へられますので(1)、この立政などは少くとも周公に關する説話が、東周の初め迄の間に書かれたものではないかと思ひます。さうしてそれが周公に關係した諸篇の最後に出て居りますから、それ以外のものは大體それ以前に書かれたかと、まあ想像するのでありますが、まだそれを極めてはつきりと申上げる程研究はして居りませんです。
ともかくさういふ次第でありまして、先づその中で五誥といふやうなものは、傳來して居る支那の記録としては最も確かなものではないかと考へられます。もう一つこの中で召誥・洛誥が餘程古からうといふ證據としては、洛誥篇の組立てが餘程妙に出來て居りまして、一篇の最後に年月を書いて居ります。洛誥篇の最後に「惟周公誕保文武受命惟七年」と書いてありますが、その前に「在十有二月」と書いてあります。で、この召誥・洛誥といふ二篇は、これはその内容の意味は連續してゐる記事でありまして、これは殆ど同時に出來たといふことは内容からして疑ひのないものでありますが、その洛誥の末尾にかういふ紀年の書き方がしてあります。この紀年の書き方は、之を銅器の銘と比較して見ますと、銅器の銘の中でやはり最も古い書き方の所にこれがあるのであります。大盂鼎・小盂鼎といふ銅器がありまして、これは今日に遺つて居る銅器の中で、最も製作も立派なもので、さうしてその銘の内容も餘程淳古なものとなつて居るのでありますが、その銅器の紀年のし方は、大盂鼎の方にはやはり最後に年を書いて居りまして、さうして「隹(惟)王廿又三祀」とあります。それから小盂鼎の方は「隹王廿又五祀」とあります、これが最後にあります。その外私は當時之を調べました頃に※古録金文などに當つて見たのでありますが、※古録金文に出て居ります銅器では※尊、これがやはり最後に歳月が出て居ります。これが餘程變な書き方をして居りまして、「隹王十祀有五※日」、かういふ紀年の書き方をして居ります。それからもう一つは庚申父丁角としてありますが、これは多分今住友家に來て居るのでないかと考へます。或は宰※角とも申します。これには「在六月隹王廿祀」とあります。
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