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文学と生活 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

  • ■ 『日本の文学 中野重治』 近代文学日本文学文学評論 ■
  • 清水義範★日本文学全集第1集/世界文学全集第Ⅰ・Ⅱ期/+おまけ
  • *柄谷行人 日本近代文学の起源 講談社文芸文庫版 文学史 即決
  • 貴重文献「九州文学」・第16・第17号・地方文学 レア・絶版
  • 昭和2年発行 日本文学29 佐藤春夫 里見 改造社 文学
  • q/脇田勇 ある英文学徒の遍歴 英文学者/大学教授の回想記 即決
  • 島尾敏雄 死の棘 日本文学大賞・読売文学賞
  • 片岡良一著作集 第八巻『大正文学研究・昭和文学序説』 中央公論
  • 日本児童文学別冊・過度期の児童文学・昭和55年7月10日発行
  • アメリカ文学思潮史―社会と文学 (増補版)
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 この講座でわたしの受けもちは「」である。この課題は、考えれば考えるほど複雑で規模が大きい。どこからまとめていいかわからないような心持さえする。すべての文学生活から生れ、生活のうちにかえってそこに生きついてゆく。生活文学のこの関係万葉集時代から今日までつづいている。だから歴史的にみてくると、文学生活はとりもなおさず階級社会とその文学史のようなものになりかねない。ところでその社会文学との関係については第二巻で蔵原惟人が「文学世界観」を書いているし、第四巻では近藤忠義が「日本古典」を書いている。また同じ第四巻にはいろいろの角度から日本文学プロレタリア文学歴史がとりあげられることになっている。広い意味でいえば、これらの題目はみんな文学生活関係を語るものである。
 では、わたしはどういうことから話しだすのが便利な方法だろう。この文学講座第一巻に中野重治が「これから小説をかく人へ」という文章を書いている。これはわかり易く、そしてふれなければならない大事な話もおとしていない。第一巻を読んだ人がつまり第四巻を読むのだろうし、またその逆でもあるわけだろうから、わたしは中野重治がふれているいくつかの点をもう少しつっこんで話してみることにしようと思う。
 中野重治小説を書こうとするほどの人ならばその人は人生を愛して、人のためにも骨おしみをしない者でなければならないこと――できることは必ずすすんで実行する勇気をもった人であるべきことをいっている。そして小説書くほどの人は、人類が尊い努力と犠牲によって歴史をおしすすめてきた真理に対して私心なくその価値を認めて、人々とともにその人間の知慧の成果を分けもつことを心からよろこべる人であるはず、とも云っている。文学生活との関係については、これらが本当にかなめなところだと思う。
 戦争中日本のわたしたちが軍国主義一点ばりの権力によって、どんな日々を送りどんな死にかたをさせられ、きょうの生活にいたっているかということをふかく思えば、この四年間、日本人民が「人間として生きる権利」をとり戻すために各方面に骨を折ってきた意義は実に大きい。けれども一九四九年には吉田内閣議会で絶対多数の勢をかりて、旧い支配階級の勢力をもりかえし、人民がこの社会をもう少しは人間らしく、平和で安心して、住みよいところにしたいと思って試みるあれやこれやの努力抑圧するために数々の法律規則をつくった。日本民主化非常にジグザグなコースをとって根気づよく、人民の力によって行われなければならない内外の事情におかれている。文学もこの事実からきりはなして語られることではない。
 文学人間生活に対する理解共感とにたつ愛と努力社会な行為だということはあきらかだとして、人間愛するということ人生をまじめに受けとって歴史とともに自分もひとも成長させてゆくということは具体的にはどういうことをさすのだろう。ひたすら生活に風波をおこさないようにして、世間のしきたりをそのまま受けついで、その枠のなかで、月、雪、花のながめをたのしんだりして生きてゆくことだろうか。たとえば「細雪」の世界のように。それとも、今日いわゆる中間小説というものを書いておびただしい収入を得ている作家のある人たちが生きているように、そのふんだんな経済力で、妻をはじめ一家のなかをにぎやかに満足させて、非難をおさえておきさえすれば自分の男としてまた社会人としての異性関係などは、雄鶏一羽に雌鶏四五羽という風な生活をしても、生活文学とは愛されているといえるのだろうか。

 トルストイやドストイェフスキーの小説には貧しい不幸な人々に対する同情と、とみ栄えて権力を争って、冷酷な利己心に一生をつらぬかれている貴族たちに対する批判が強くあらわれている。これらの作家たちは、婦人社会的な立場に対しても、ただのがんろう物ではない人間としての心を見出そうとしている。ドストイェフスキーの異常小説の中には、いくたりかの強い特色のある女性性格描き出されている。「罪と罰」のソーニアのように。トルストイの「復活」のカチューシャ経歴とそれを通じて語られている彼女人間としての抗議は、文学愛するすべての人に知られている。モーパッサンの「女の一生」も。
 これらの古典の中にはわたしたちの心をひきつける人生の姿がまざまざと描かれているが、わたしたち自身が自分で文をつくり出してゆく時は、原稿紙のわきにどれほど傑作をつみあげておいても何の役にもたたない。それどころかわたしたちは不思議なことを発見している。人生を深くとらえて描き出し、読む人の心をひきつける作品というものは、奇妙な力をもっていて、読者がまじめに、その作品世界に入ってゆけばゆくほど、ますますひろく、ますます深く、日頃は何となくすぎてきた自分の生いたちや親たちの人生、いまの自分生活とその中にあるいくつかの問題などについて、はっきり眼をさまさせられてくるものである。これは、おそらく小説を書こうという気持をもっているすべての人が、しっかりした作品を読んでゆく間に経験している心持であろうと思う。いい作品はその作品世界がわたしたちの生活をひろくゆたかにするばかりではなく、わたしたち自身の生活を見直させ、自分として是非これはかいて見たいと思うテーマを発見させさえもする。
 小説のおもしろさ、がここにあり、文学が、人生教師であると云われることの意味も、ここにある。よい小説にひきこまれるおもしろさは、ただつぎにくりひろげられる情景の変化につれられてゆく気持ばかりではない。事件の発展につれて登場しているいくたりかの男女は、それぞれに人間としての心のかぎりをつくして行動し、事件そのものに捲き込まれていながらも、同時に事件そのものを判断する関係におかれている。その過程読むものの心にまた独特の反響をよびさましてゆく、そのおもしろさである。言葉をかえていえば、わたしたちはその作品世界にひきこまれることで、自分だけの日常には経験されていない人生の複雑な諸関係の間を通過しながら、自分だけの生活では自覚されていなかった社会関係、そこから生じる人間感情葛藤と進展と批判をみいだすのである。わたしたちはそういう意味で、しっかりした文学作品をよむときには作品世界の展開につれて、同時的に自分生活風景とその地理とを知らず知らずのうちに対比し、同時的にみなおし、評価してゆくという精神の労作を経験する。生活文学の深い根がここにある。漫才軽音楽カストリ小説の、時にとってはおもしろいかもしれないけれども、感覚の中をただ通りすぎてゆく間だけの気紛らしとは全く質のちがう文学存在意義がある。

 モーパッサンの「女の一生」は、こんにちも多くの人によまれている。特に日本では「女の一生」の主人公ジャンヌ運命は、まだまだ多くの婦人運命につながったところがある。今日女の一生」を読む日本の若い婦人たちは、あわれなジャンヌ同情し、憲法文字の上だけ変っても、現実にのこる婦人社会的な無力さについて痛感するであろうが、そこまでは誰でも同じだとして、それから先に、現代日本の若い婦人のうちにあるいくつかのタイプがそれぞれのちがいをもって社会反応を表してくるだろう。
 即ち一つのタイプはモーパッサンがこの小説を書いた時代一八八三年)と一九五〇年の世界――その中でのフランス、その中での日本の歴史非常変化して来ていて、社会現実はちがっていることには大して注目しないで、ごく大まかに、やっぱり女の人生ってどこの国でも同じなのねえと嘆息し、ぼんやりと、わたしはこんな一生は欲しくない、もっとたのしい女の人生だってあっていいわけだわとジャンヌの末路をおそろしく感じる。
 こういう受けとり方をする人の生活そのものを突っこんでみると、その人にとっては人生そのものが大体小説のよみかたに似た風に感じとられ、運ばれていることを語っているともいえる。女の悲惨な運命に対してそれをいやがり拒絶したい気持はもとよりあるけれども、それならばといって積極的にこの社会での、婦人立場をより希望のある楽しい人間らしいものにしてゆくために、自分としてはどの点をどうしてみようという主動的な決断行為がなくて、結婚についても、不幸になりたくないという漠然とした最低線を感じているような人である場合が多い。組合の中でいえば、それは資本家はひどいけれど、わたしたちの技術だってまだ男なみでないんですもの、というように、現象だけをとらえて、社会関係本質まではっきりとつかまない人々であるかも知れない。


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