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文学の中の科学的要素 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

  • ■ 『日本の文学 中野重治』 近代文学日本文学文学評論 ■
  • 清水義範★日本文学全集第1集/世界文学全集第Ⅰ・Ⅱ期/+おまけ
  • *柄谷行人 日本近代文学の起源 講談社文芸文庫版 文学史 即決
  • 貴重文献「九州文学」・第16・第17号・地方文学 レア・絶版
  • 昭和2年発行 日本文学29 佐藤春夫 里見 改造社 文学
  • q/脇田勇 ある英文学徒の遍歴 英文学者/大学教授の回想記 即決
  • 島尾敏雄 死の棘 日本文学大賞・読売文学賞
  • 片岡良一著作集 第八巻『大正文学研究・昭和文学序説』 中央公論
  • 日本児童文学別冊・過度期の児童文学・昭和55年7月10日発行
  • アメリカ文学思潮史―社会と文学 (増補版)
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 同一の事象に対する科学的の見方と芸術的の見方との分れる点はどこにあるだろう。  科学芸術もその資料とするものは同一である。それを取扱う人間も同じ人間である。どちらも畢竟は人間の「創作」したものである。人間の感官の窓を通して入り込んで来る物を悟性理性によって分析し綜合して織り出された文化の華である。それであるのに科学芸術とは一見交渉な二つの天地を劃しているように思われる。このような区別はどこから来たものであろうか。
 吾人が事象に対した時に、吾人の感官が刺戟されても、無念無想の渾沌(こんとん)たる状態においては自分もなければ世界もない。そのような状態分裂して、能知者と所知者が出来る事によって、始めて認識が成立し始める。そこから色々観念が生れ、観念は更に分裂してより多く共通な要素に分析されてそこに秩序が出来、「言葉」が出来、「方則」が出来る
 科学科学以外の学と異なる根本はどこにあるかと云えば、所知者をして所知者を記述させ説明させる事である。能知者から解放された所知者相互関係を取扱うものと考えてもよい。勿論能知者なくして所知者の成立し得ない事は明らかであるが。かくのごとくして成立した所知者は能知者の存在に無関係独立実在であると仮定する。そうしてそのような所知者の世界には時と空間に関する整合が存在し、普遍にして必然因果関係存在するという事を前提として、そういう型にはまるようにこの世界処理して行く。そういう試みがある程度まで成効した結果今日科学である。
 従来哲学一部分であった科学が、近世の始め文芸復興期以来に長足の進歩をなした所以(ゆえん)もまた科学の対象が能知者から解放された事に起因すると云ってもよい。科学価値道徳問題から離れて自由な天地を得たために始めて手足を延ばしたのである。しかしかくのごとくして出来科学の別天地はもともと便宜上から所知者を切り離して出来たものであるから、問題が能知者との関係にわたる場合には科学の範囲を脱して、科学ばかりではもう始末の付かぬ事明らかである。この点に対する誤解から種々な謬見(びゅうけん)が生れる事は識者の日常目撃するところである。科学のどこを掘り返しても「不可不」は出て来ないし、その縄張りの中を隈なく捜しても「神」は居ない。そうして科学の中にこれがないという事は、それがどこにもないという証拠には少しもならない。もしそういう人があれば、それは室中を捜して魚が居ないというようなものである。
 芸術とは何であるか。これについては科学場合のように簡単定義を与える事は困難である。しかし前述の考えを対照させて次のごとく考える事も出来るだろう。
 芸術の成立するのは、云わば個々の能知者が所知者の中に入り込む時に始まる。あるいはまた所知者が能知者を反映する事によって可能である。しかしまだそれだけでは美的芸術水平線に達する事は出来ない。能知者と所知者の結合を包括する全体が更に大きな普遍的で絶対的な能知を反映する事によって芸術たる価値が定まると考える事が出来るだろう。
 以上のごとき単純な側面観によって科学芸術との任務や領域遺憾なく説明しようというのではない。こういう考えから出発して、文芸の中に潜在する科学的要素を捜してみたいと思うのである。
 いかなる文芸といえどもその取扱う資料常識具え人間界のものである限り、あらゆる知識中の科学的な分子排出する事の出来ないのは明らかな事である。第一文学言語がなくては成立しない。ところが言語というものそれ自身はそれぞれ一つの小さな学である。一つの言葉出来る前には人間感覚知覚経験記憶聯想によって結合され、悟性によって幾多の分析抽象を行った末に一つの観念なり概念なりが出来なければならない。それで云わば一つ一つの言葉の中には既にもう論理経験科学卵子が含まれていることは云うまでもない。しかし現今用いらるるような意味での科学はまだそれだけでは含まれていないと云ってもよい。
 そういう根本的な問題はしばらく措(お)いて、具体的に各種の文学の中に含まれている普通意味での科学的要素の分布を考えてみよう。
 あらゆる文学の中でも最も著しく個々の能知者たる作者が所知者たる対象の中に没入して現われて来るのは詩歌ことに抒情的なそれである。そこには能知者がいっぱいに滲透して所知者の間のあらゆる科学的背理や矛盾は、それによって統一され融和される。そういう点から見て最も多くの芸術としての文学の特徴を発揮しているものはこの種の詩歌でなければならない。それだから作物価値には内容科学的不合理は大した影響を及ぼさない。しからばその価値は何によって規定さるるかと云えば、それは作者の能知が前に云った普遍絶対の原型に近似する程度にあると云われる。換言すればその詩を味わう読者各自の能知に内在する、その原型の模型にどれだけ照応するかの程度によって各評価者の価値判断が極(きま)るのであろう。
 以上のごとき立場から見てこれと反対な位置にあるものは、色々事実事件の平坦な叙述的描写を主調とした作物、例えば物語写生文のごときものであろう。そこでは少なくも作者黒幕の後ろに隠れて、舞台の上では事実をして事実を語らしめ、物をして物を描かしめているように見える。しかし実際にはそこに作者主観が幕の後ろで活躍している事は云うまでもない事である。これらの場合における能知者と所知者の関係を立ち入って考えて行けば、歴史科学として成立し得るかというような大問題や、写生の意義如何という広い問題に逢着する。そのような大問題はここに論ずる限りでない。


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