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文芸的な、余りに文芸的な - 芥川 竜之介 ( あくたがわ りゅうのすけ )

  • 丹羽文雄集 日本文学全集文芸野間文芸賞
  • 『折口信夫文芸論集』★安藤礼二編 講談社文芸文庫 2010刊 美品
  • 【本】男たちへ 塩野七生 著 文芸春秋
  • ★野間宏『暗い絵|顔の中の赤い月』講談社文芸★即決!
  • ■ 青葉の翳り―阿川弘之自選短篇集 /講談社文芸文庫■
  • 【講談社文芸文庫】高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』
  • 父の帽子/森茉莉/講談社文芸文庫
  • @ベイビーメール 山田悠介 文芸社 ツ44
  • ◎那覇文芸あやもどろ 特集:山之口獏論集
  • ■初版■ 中上健次 ■  化粧  ■講談社文芸文庫■
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芥川龍之介      一 「話」らしい話のない小説  僕は「話」らしい話のない小説最上のものとは思つてゐない。従つて「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言はない。第一僕の小説も大抵は「話」を持つてゐる。デツサンのない画は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は「話」の上に立つものである。(僕の「話」と云ふ意味は単に「物語」と云ふ意味ではない。)若(も)し厳密に云ふとすれば、全然「話」のない所には如何(いか)なる小説成り立たないであらう。従つて僕は「話」のある小説にも勿論尊敬を表するものである。「ダフニとクロオと」の物語以来、あらゆる小説或は叙事詩が「話」の上に立つてゐる以上、誰か「話」のある小説に敬意を表せずにゐられるであらうか? 「マダム・ボヴアリイ」も「話」を持つてゐる。「戦争と平和」も「話」を持つてゐる。「赤と黒と」も「話」を持つてゐる。……
 しかし或小説価値を定めるものは決して「話」の長短ではない。況(いはん)や話の奇抜であるか奇抜でないかと云ふことは評価の埒外(らちぐわい)にある筈(はず)である。(谷崎潤一郎は人も知る通り奇抜な「話」の上に立つた多数の小説作者である。その又奇抜な「話」の上に立つた同氏の小説の何篇かは恐らくは百代の後にも残るであらう。しかしそれは必しも「話」の奇抜であるかどうかに生命を託してゐるのではない。)更に進んで考へれば、「話」らしい話の有無(うむ)さへもかう云ふ問題には没交渉である。僕は前にも言つたやうに「話」のない小説を、――或は「話」らしい話のない小説最上のものとは思つてゐない。しかしかう云ふ小説存在し得ると思ふのである。
「話」らしい話のない小説は勿論|唯(ただ)身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙(はる)かに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説最上のものとは思つてゐない。が、若し純粋な」と云ふ点から見れば、――通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋小説である。もう一度画を例に引けば、デツサンのない画は成り立たない。(カンデインスキイの「即興」などと題する数枚の画は例外である。)しかしデツサンよりも色彩生命を託した画は成り立つてゐる。幸ひにも日本へ渡つて来た何枚かのセザンヌの画は明らかにこの事実証明するのであらう。僕はかう云ふ画に近い小説に興味を持つてゐるのである。
 ではかう云ふ小説はあるかどうか? 独逸(ドイツ)の初期自然主義作家たちはかう云ふ小説に手をつけてゐる。しかし更に近代ではかう云ふ小説作家としては何びともジユウル・ルナアルに若(し)かない。(僕の見聞する限りでは)たとへばルナアルの「フイリツプ一家の家風」は(岸田国士氏の日本訳「葡萄(ぶだう)畑の葡萄作り」の中にある)一見未完成かと疑はれる位である。が、実は「善く見る目」と「感じ易い心」とだけに仕上げることの出来る小説である。もう一度セザンヌを例に引けば、セザンヌは我々後代のものへ沢山の未完成の画を残した。丁度ミケル・アンヂエロが未完成彫刻を残したやうに。――しかし未完成と呼ばれてゐるセザンヌの画さへ未完成かどうか多少の疑ひなきを得ない。現にロダンはミケル・アンヂエロの未完成彫刻に完成の名を与へてゐる!……しかしルナアル小説はミケル・アンヂエロの彫刻は勿論、セザンヌの画の何枚かのやうに未完成の疑ひのあるものではない。僕は不幸にも寡聞(くわぶん)の為に仏蘭西(フランス)人はルナアルをどう評価してゐるかを知らずにゐる。けれども、わがルナアル仕事の独創的なものだつたことを十分には認めてゐないらしい。
 ではかう云ふ小説紅毛人(こうまうじん)以外には書かなかつたか? 僕は僕等日本人の為に志賀直哉氏の諸短篇を、――「焚火(たきび)」以下の諸短篇を数へ上げたいと思つてゐる。
 僕はかう云ふ小説は「通俗的興味はない」と言つた。僕の通俗的興味と云ふ意味事件そのものに対する興味である。僕はけふ往来に立ち、車夫と運転手との喧嘩(けんくわ)を眺めてゐた。のみならず或興味を感じた。この興味は何であらう? 僕はどう考へて見ても、芝居喧嘩を見る時の興味と違ふとは考へられない。若(も)し違つてゐるとすれば、芝居喧嘩は僕の上へ危険を齎(もたら)さないにも関(かかは)らず、往来の喧嘩はいつ何時(なんどき)危険を齎らすかもわからないことである。僕はかう云ふ興味を与へる文芸否定するものではない。しかしかう云ふ興味よりも高い興味のあることを信じてゐる。若しこの興味とは何かと言へば、――僕は特に谷崎潤一郎氏にはかう答へたいと思つてゐる。――「麒麟(きりん)」の冒頭の数頁は直(ただ)ちにこの興味を与へる好個(かうこ)の一例となるであらう。


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