断崖の錯覚 - 黒木 舜平 ( くろき しゅんぺい )
(太宰治)
一
その頃の私は、大作家になりたくて、大作家になるためには、たとえどのようなつらい修業でも、またどのような大きい犠牲でも、それを忍びおおせなくてはならぬと決心していた。大作家になるには、筆の修業よりも、人間としての修業をまずして置かなくてはかなうまい、と私は考えた。恋愛はもとより、ひとの細君を盗むことや、一夜で百円もの遊びをすることや、牢屋へはいることや、それから株を買って千円もうけたり、一万円損したりすることや、人を殺すことや、すべてどんな経験でもひととおりはして置かねばいい作家になれぬものと信じていた。けれども生れつき臆病ではにかみやの私は、そのような経験をなにひとつ持たなかった。しようと決心はしていても、私にはとても出来ぬのだった。十銭のコーヒーを飲みつつ、喫茶店の少女をちらちら盗み見するのにさえ、私は決死の努力を払った。なにか、陰惨な世界を見たくて、隅田川(すみだがわ)を渡り、或る魔窟へ出掛けて行ったときなど、私は、その魔窟の二三丁てまえの小路で、もはや立ちすくんで了(しま)った。その世界から発散する臭気に窒息しかけたのである。私は、そのようなむだな試みを幾度となく繰り返し、その都度、失敗した。私は絶望した。私は大作家になる素質を持っていないのだと思った。ああ、しかし、そんな内気な臆病者こそ、恐ろしい犯罪者になれるのだった。
二
私が二十歳になったとしの正月、東京から汽車で三時間ほどして行ける或る海岸の温泉地へ遊びに出かけた。私の家は、日本橋呉服問屋であって、いまとちがって、その頃はまだ、よほどの財産があったし、私はまたひとり息子でもあり、一高の文科へもかなりの成績ではいったのだし、金についてのわがままも、おなじ年ごろの学生よりは、ずっと自由がきいていた。私は、大作家になる望みを失い、一日いっぱい溜息(ためいき)ばかり吐いていたし、このままでいてはついには気が狂って了うかも知れぬと思い、せっかくの冬休みをどうにか有効に送りたい心もあって、その温泉行を決意したのであった。私はそのころ、年若く見られるのを恥かしがっていたものだから、一高の制服などを着て旅に出るのはいやであった。家が呉服商であるから、着物に対する眼もこえていて、柄の好みなども一流であった。黒無地の紬(つむぎ)の重ねを着てハンチングを被(かぶ)り、ステッキを持って旅に出かけたのである。身なりだけは、それでひとかどの作家であった。
私が出かけた温泉地は、むかし、尾崎紅葉の遊んだ土地で、ここの海岸が金色夜叉(こんじきやしゃ)という傑作の背景になった。私は、百花楼というその土地でいちばん上等の旅館に泊ることにきめた。むかし、尾崎紅葉もここへ泊ったそうで、彼の金色夜叉の原稿が、立派な額縁のなかにいれられて、帳場の長押(なげし)のうえにかかっていた。
私の案内された部屋は、旅館のうちでも、いい方の部屋らしく、床には、大観(たいかん)の雀の軸がかけられていた。私の服装がものを言ったらしいのである。女中が部屋の南の障子(しょうじ)をあけて、私に気色を説明して呉(く)れた。
「あれが初島でございます。むこうにかすんで見えるのが房総の山々でございます。あれが伊豆山。あれが魚見崎。あれが真鶴崎。」
「あれはなんです。あのけむりの立っている島は。」私は海のまぶしい反射に顔をしかめながら、できるだけ大人びた口調で尋ねた。
「大島。」そう簡単に答えた。
「そうですか。景色のいいところですね。ここなら、おちついて小説が書けそうです。」言って了ってからはっと思った。恥かしさに顔を真赤にした。言い直そうかと思った。
「おや、そうですか。」若い女中は、大きい眼を光らせて私の顔を覗(のぞ)きこんだ。運わるく文学少女らしいのである。「お宮と貫一さんも、私たちの宿へお泊りになられたんですって。」
私は、しかし、笑うどころではなかった。うっかり吐いた嘘のために、気の遠くなるほど思いなやんでいたのである。言葉を訂正することなど、死んでも恥かしくてできないのだった。私は夢中で呟(つぶや)いた。
「今月末が〆切(しめきり)なのです。
二
私が二十歳になったとしの正月、東京から汽車で三時間ほどして行ける或る海岸の温泉地へ遊びに出かけた。私の家は、日本橋呉服問屋であって、いまとちがって、その頃はまだ、よほどの財産があったし、私はまたひとり息子でもあり、一高の文科へもかなりの成績ではいったのだし、金についてのわがままも、おなじ年ごろの学生よりは、ずっと自由がきいていた。私は、大作家になる望みを失い、一日いっぱい溜息(ためいき)ばかり吐いていたし、このままでいてはついには気が狂って了うかも知れぬと思い、せっかくの冬休みをどうにか有効に送りたい心もあって、その温泉行を決意したのであった。私はそのころ、年若く見られるのを恥かしがっていたものだから、一高の制服などを着て旅に出るのはいやであった。家が呉服商であるから、着物に対する眼もこえていて、柄の好みなども一流であった。黒無地の紬(つむぎ)の重ねを着てハンチングを被(かぶ)り、ステッキを持って旅に出かけたのである。身なりだけは、それでひとかどの作家であった。
私が出かけた温泉地は、むかし、尾崎紅葉の遊んだ土地で、ここの海岸が金色夜叉(こんじきやしゃ)という傑作の背景になった。私は、百花楼というその土地でいちばん上等の旅館に泊ることにきめた。むかし、尾崎紅葉もここへ泊ったそうで、彼の金色夜叉の原稿が、立派な額縁のなかにいれられて、帳場の長押(なげし)のうえにかかっていた。
私の案内された部屋は、旅館のうちでも、いい方の部屋らしく、床には、大観(たいかん)の雀の軸がかけられていた。私の服装がものを言ったらしいのである。女中が部屋の南の障子(しょうじ)をあけて、私に気色を説明して呉(く)れた。
「あれが初島でございます。むこうにかすんで見えるのが房総の山々でございます。あれが伊豆山。あれが魚見崎。あれが真鶴崎。」
「あれはなんです。あのけむりの立っている島は。」私は海のまぶしい反射に顔をしかめながら、できるだけ大人びた口調で尋ねた。
「大島。」そう簡単に答えた。
「そうですか。景色のいいところですね。ここなら、おちついて小説が書けそうです。」言って了ってからはっと思った。恥かしさに顔を真赤にした。言い直そうかと思った。
「おや、そうですか。」若い女中は、大きい眼を光らせて私の顔を覗(のぞ)きこんだ。運わるく文学少女らしいのである。「お宮と貫一さんも、私たちの宿へお泊りになられたんですって。」
私は、しかし、笑うどころではなかった。うっかり吐いた嘘のために、気の遠くなるほど思いなやんでいたのである。言葉を訂正することなど、死んでも恥かしくてできないのだった。私は夢中で呟(つぶや)いた。
「今月末が〆切(しめきり)なのです。
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