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断橋奇聞 - 田中 貢太郎 ( たなか こうたろう )

  • 昭和9年 日本怪談全集 第4巻 田中貢太郎 改造社
  • #日本怪談全集 Ⅱ 田中貢太郎 桃源社
  • $日本怪談全集Ⅰ 田中貢太郎著 桃源社
  • $日本逸話全集 田中貢太郎著 桃源社
  • # 日本怪談実話 全 田中貢太郎著 桃源社 初版
  • 田中貢太郎 日本怪談全集 全2巻 桃源社 昭和45年発行
  • $情鬼・朱唇 田中貢太郎著 桃源社
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 杭州西湖へ往って宝叔塔(ほうしゅくとう)の在る宝石山の麓、日本領事館の下の方から湖の中に通じた一条の長※を通って孤山に遊んだ者は、その長※の中にある二つの石橋を渡って往く。石橋の一つは断橋で、一つは錦帯橋(きんたいきょう)であるが、この物語関係のあるのは、その第一橋で、そこには聖祖帝の筆になった有名な断橋残雪の碑がある。


 元の至正年間のこと、姑蘇(こそ)、即ち今の蘇州に文世高(ぶんせいこう)という秀才があったが、元朝では儒者を軽んじて重用しないので、気概のある者は山林に隠れるか、詞曲に遊ぶかして、官海に入ることを好まないふうがあった。世高もその風習に感化せられて、功名の念がすくなく、詩酒の情が濃(こまや)かであった。
 その時世高は二十歳を過ぎたばかりであったが、佳麗な西湖風景を慕うて、杭州へ来て銭塘門(せんとうもん)の外になった昭慶寺の前へ家を借りて住み、朝夕湖畔を逍遥していた。ある日往くともなしに足に信(まか)せて断橋へ往ったところで、左側に竹林があってその内から高い門が見えていた。近くへ往って見るとその門には喬木世家(きょうぼくせいか)という※(がく)をかけてあった。
 世高は物好きにどんな庭園であるか、それを見てやろうと思って入って往った。槐(えんじゅ)と竹とが青々した陰を作った処に池があって、紅白の蓮の花がいちめんに咲いており、その花の匂いがほんのり四辺(あたり)に漂うているように思われた。世高はその庭の景致(けいち)がひどく気に入ったので、池の縁に立って佳い気もちになっていた。
「おや、綺麗な方だわ」
 若い女のすこしはすっぱに聞える無邪気な声が不意に聞えてきた。世高の眼はすぐ声のしたと思われる方へ往った。池の左、そこにある台※(だいしゃ)の東隣となった緑陰の中に小さな楼(にかい)が見えて、白い小さな女の顔があった。それは綺麗な眼のさめるような少女であった。
 世高は女のほうをじっと見た。そうした少女から己れの容姿を見とめられて、多感な少年がどうして平気でいられよう。彼は吸い寄せられるようにその方へ往きかけたが、ふと考えたことがあったので引返して門の外へ出た。それはその少女素性を訊くがためであった。
 花粉(おしろい)や花簪児(かんざし)を売っている化粧品店がそのちかくにあった。そこには一人老婆がいて店頭(みせさき)に腰をかけていた。世高はそこへ入って往った。
「すみませんが、すこし休ましてくれませんか」
 老婆は気軽く承知した。
「さあさあ、どうぞ、だが、あげるような佳いお茶がありませんよ」
 世高は老婆信実(まこと)のある詞(ことば)が嬉しかった。彼は老婆挨拶して腰をかけながら言った。
お婆さんは、何姓ですか」
「今は施(し)姓ですが、母方のほうは李姓ですよ、所天(ていしゅ)が没(な)くなってから十年になりますが、男の子がないものだから、今にこうしております。私の所天の排行(はいこう)が十に当るから、人が私を施十娘(しじゅうじょう)というのですよ、あなたは」
「私は姑蘇の者で、文というのです、この西湖の山水を見にきて遊んでいるのですよ」
「では、あなたは風流の方ですね」
 世高は老婆がただの愚な田舎者でないことを知って、ものを訊くにもつごうがいいと思った。
お婆さん、この隣に大きな門の家がありますね、あれはどうした家ですか」
「ありゃあ、劉万戸(りゅうまんこ)という武官の家ですよ、あんな大家だが、男のお子がなくて、お嬢さん一人あるっきりですよ、秀英さんとおっしゃってね、十八になります、まだお嫁いりなさらないのですよ」
「十八にもなって嫁にゆかないとは、どういうわけでしょう、そんな家で」
「そりゃあね、お嬢さんが御標格(ごきりょう)が佳いうえに、発明で、詩文も上手におできになるから、相公(だんな)がひどく可愛がって、高官に昇った方を養子にしようとしていらっしゃるものだから、それに当る人がのうて、まだそのままになっておりますが、だんだんお歳がいくので、お可哀そうですよ」
お婆さんは、そのお嬢さんを知っているのですか」
「お隣ではあるし、平生(いつも)出入して、花粉(おしろい)などを買っていただくから、お嬢さんはよく知っておりますよ」
「そうですか」
 世高はふとあまりせっかちに事をはこんではいけないと思いだした。で、女にはさして興味を感じていないようなふうをして、それから老婆に別れて帰ってきた。

 世高は帰りながら女に接近するには、あの老婆に仲介を頼むより他に途がないと思った。それには女の手一つでやつやつしくくらしているから、すこし金をやれば骨をおってくれるだろう、仲介者さえあれば、女の方でも自分を知ってくれているから、僥倖が得られないものでもないと思った。彼はそう思いだす一方で、女が自分に向って発した詞を浮べていた。
(おや、綺麗な方だわ)
 世高は昭慶寺の前の家へ帰ったが、女のことで頭がいっぱいになっていて、書籍(ほん)を見る気にもなれなかった。そして、夜になって榻(ねだい)の上に横になっても、女の白い顔がすぐ前にあるようで睡られなかった。
 そのうちに、世高の体は自然とうごきだして、家の外へ出て城隍廟(じょうこうびょう)へ往った。城隍廟へ往ったところで、世高ははじめて気が注(つ)いた。気が注くとともにかの女と天縁があるかないかを知りたいと思いだした。彼は廟の中へ入って往って、香を焼(た)き、赤い蝋燭をあげて祷った。
 みるみる城隍神の像が生きた人のようになって、傍の判官に言いつけて婚姻簿(こんいんぼ)を持ってこさした。判官が言いつけどおり帳簿(ちょうめん)を持ってくると、城隍神はそれを見てから朱筆を取り、何か紙片に文字を書いて世高にくれた。世高は何を書いてあるだろうと思って、それに眼をやった。それには爾(なんじ)婚姻を問う、只|香勾(こうこう)を看よ、破鏡重ねて円(まどか)なり、悽惶好仇(せいこうこうきゅう)と書いてあった。
 世高がそれを読み終ったところで、判官の喝する声がした。世高はびっくりして眼を覚した。世高ははじめて自分が夢を見ていたということを悟ったが、それにしてもはっきり覚えている四句の讖文(しんぶん)は不思議であると思った。世高はそれから讖文の破鏡重ねて円なり、悽惶好仇という二句の意味を考えてみた。それは合うことが有って離れ、離れることが有って合うから、時のくるのを待たなくてはならないというように考えられた。
 しかし世高は、そんな児戯に類する讖文を信ずることはできなかった。彼は夜の明けるのを待ちかねるようにして起き、そこそこに飯をすまして、断橋の施十娘の店へ往った。
 店では老婆品物を並べていたが、終ってひょいと顔をあげたひょうしに、店頭へ来た世高を見つけた。
「相公(だんな)、お早いじゃありませんか、何か御用でもできたのですか」
お婆さんに頼みたいことがあってね」
 世高は店の内へ入った。


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