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新しきシベリアを横切る - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )

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 十月二十五日。(一九三〇年)  いよいよモスクワ出立、出立、出発!  朝郵便局お百度を踏んだ。あまり度々書留小包の窓口へ、見まがうかたなき日本の顔を差し出すので、黄色いボヤボヤの髪をした女局員が少しおこった声で、
 ――もうあなたを朝っから二十遍も見るじゃありませんか!
と云った。
 ――ご免なさい。だが私はこの我らのモスクワに三年いたんですよ。そして、今夜帰るんですよ、日本へ。私はまた明日来るわけにいかないんだし、私のほかにこれを送り出してくれるものはいないんだから、辛棒して下さい。
 ――そうですか。
 女局員はほとんど日に一遍彼女の前に現れていた丸い小さい日本女の顔を見なおした。
 ――日本へこれが届くでしょうか? みんな。
 それは分らない。
 広いところへかかっている大きい大きい暦の25という黒い文字や、一分ずつ動く電気時計。床を歩く群集のたてる擦るようなスースーという音。日本女はそれ等をやきつくように心に感覚しつつ郵便局の重い扉をあけたりしめたりした。
 Yが帰ってから、アイサツに廻り、荷物のあまりをまとめ、疲れて、つかれて、しまいには早く汽車が出てゆっくり横になるだけが待ち遠しかった。午後六時十五分。

 十月二十六日。
 三ルーブリ十カペイキ。正餐(アベード)二人前。
 ひどくやすくなっている。一九二七年の十二月頃、行きのシベリア鉄道食堂ではやっぱり三皿の正餐(アベード)(スープ・肉か魚・甘いもの)が一人前二ルーブリ半した。今度は三十カペイキの鉱水ナルザンが一瓶あって、この価だ。おまけに、スープに肉が入っている! 正餐(アベード)をやすくしてみんなが食べられるようにし、夕食(ウージン)は一品ずつの注文で高くしたのはソヴェトらしく合理的だ。
 Yはヴャトカへ着いたら名物煙草いれを買うんだと、がんばっている。
 車室は暖い。疲れが出て、日本へ向って走っているのではなく、どこか内国旅行しているような呑気な気になってころがりつつ。
 ――気をつけなさい。ヴャトカは日本人の旧跡だから。自分がトンマですりに会って、シベリア鉄道沿線泥棒名所があるなんて逆宣伝して貰っちゃ困るわよ。
 ――大丈夫さ! 心得ている。
 暗くなってヴャトカへ着いた。ここはヴャトカ・ウェトルジェスキー経済区の中心だ。列車プラットフォームへ止るや否や、Y、日本紳士をヘキエキさして「キム」に関係があるかもしれぬという名誉猜疑心を誘発させたところの鞣外套をひっかけてとび出してしまった。
 後から、駅の待合室へ行って見たが、そんな名物売店なし。又電燈ぼんやり照らされている野天のプラットフォームへ出て、通りかかった国家保安部の制服をきた男に、
 ――あなたそれどこでお買いになりました? 私|売店(キオスク)をさがしてるんですが――
 その男は襟ホックをはずしたまんま、手に二つ巻煙草入れをもってぶらついていたのだ。
 ――こっちです。あの門(ヴァロータ)の中ですが――一緒に行ったげましょう。
 プラットフォームをすっかりはずれて、妙な門を入って、どろんこをとび越えたところに、黒山の人だかりがある。のぼせて商売をしている女売子のキラキラした眼が、小舎の暗い屋根、群集の真黒い頭の波の間に輝やいている。樺の木箱、蝋石細工、指環、頸飾、インク・スタンド
 成程これは余分なルーブルポケットに入れている人間にとっては油断ならぬ空間的、時間環境だ。少くともここに押しよせた連中二十分の停車時間の間に、たった一人ののぼせた売子から箱かインク・スタンドか、或はYのようにモスクワから狙いをつけて来ている巻煙草いれかを、我ものにし、しかも大抵間違いなく釣銭までとろうと決心して、ゆずることなく押し合い、かたまっているのだ。同じ空地、もう一つ売店があり、そっちでパンを売っている。そこも一杯の人だ。
 三点鐘が鳴ってから、Y、車室へかえって来た。

 十月二十七日。
 朝窓をあけたら、黄色い初冬の草の上にまだらな淡雪があった。
 杉林の中の小さいステーション。わきの丘の上に青と赤、ペンキの色あざやかな農業機械が幾台も並んでいる。古い土地がいかに新しい土地となりつつあるか。


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