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日本三文オペラ - 武田 麟太郎 ( たけだ りんたろう )

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 白い雲。ぽつかり広告軽気球が二つ三つ空中に浮いてゐる。――東京の高層な石造建築角度のうちに見られて、これらが陽の工合でキラキラ銀鼠色に光つてゐる有様は、近代的な都市風景だと人は云つてゐる。よろしい。我々はその「天勝大奇術又は「何々カフェー日開店」とならべられた四角い赤や青の広告文字をたどつて下りて行かう。歩いてゐる人々には見えないが、その下には一本の綱が垂れさがつてゐて、風に大様に揺れてゐる。これが我々を導いてくれるだらう。すると、我々は思ひがけない――もちろん、広告軽気球がどこから昇つてゐるかなぞと考へて見たりする暇は誰にもないが――それでも、ハイカラな球とは似つかない、汚い雨ざらしの物干台に到着する。
 浅草公園の裏口、田原町交番の前を西へ折れて少しばかり行くと、廃寺になつたまま、空地として取残された場所がある。数多くの墓石は倒れて土に埋まつてゐ、その間に青い雑草がのぞいてゐるのが、古い卒塔婆(そとば)を利用して作つた垣の隙間から見られる。さらに眼を転じると、この荒れた墓地に向つてひどく傾斜した三階建の家屋に気がつくだらう。――軽気球の繋がれてゐるのは、この三階の物干台で、朝と夕方には、縞銘仙(しまめいせん)の筒つぽの着物を着たここの主人が蒼白(あをじろ)い顔を現して操作を行ふ。即ち、彼は、萎(しぼ)んだ軽気球水素ガスを吹込まれると満足げに脹(ふく)れあがつて、大きな影を落しながら、ゆるゆると昇つて行くのを眺めたり、大綱を巻いて引くと屋根一ぱいにひつかかりさうになつて下りて来るのを、たぐり寄せたりするのである。
 云ふまでもなく、これがこの四十すぎの男の本職ではない。東京空中宣伝会社から、こちらの地域代理人として幾ばくかの手当は受取り、それも彼の重要収入になつてゐるのだらうが、表向の商売は別にあるし、その他多くの副業も営んでゐるのである。――
 墓地から我々の見た彼の三階建の家は裏側に当つてゐるので、表の方へ廻つて彼の店を見るならば、彼が日に二合づつの牛乳呑むに拘らず、乾操した皮膚をして、兎のやうに赤い眼の玉をキヨロキヨロさせ、身体中から垢の臭を発散させてゐる理由も、何だか了解できるやうな気がするだらう。それ程、彼の店は陰気で埃つぽく不衛生である。動いたことのない古物が――鍋釜(なべかま)、麦稈(むぎわら)帽子、靴、琴、鏡、ボンボン時計火鉢玩具ソロバン、弓、油絵雑誌その他が古ぼけて、黄色く脂じみて、黴(かび)に腐つてゐる。唯、これらの雑然とした道具道具との狭い間を生き生きと動いてゐるのは、主人の子供たちだけである。――細君はやはり赤茶けた栄養の悪い髪の毛を束ね、雀斑(そばかす)だらけの疲労した表情をしてゐるが、恐しく多産で年子に困つてゐる。かつて、あるテキヤに口説(くど)かれたことがあつたが、そして、もう少しのところで誘惑されて了ふところであつたが、彼女は思ひとどまつて次のやうに言訳をした程である。――自分関係するとテキメンに子供産む性質だから、後になつてこのことが露顕するかもしれない、その時には足腰の立たぬ位ぶん撲(なぐ)られて追ひ出され、食べ物にも困り、しかし、あなたは浮気な色事師だから世話なんぞ見てはくれまい、そんな結果を思ふとどうしてもできない、と断つたのであつた。
 ――主人は他に周旋業、日歩貸(ひぶがし)等もやつてゐる。この後者のために、新聞朝刊三行案内欄に「手軽金融 あづま商会」の広告を出してゐるが、これは貸出の回収不能なんかで手間取るよりもと、簡単に「調査料」詐取の方法を採つてゐる。即ち申込者から、普通一円、市外二円の割で、信用担保(たんぽ)等の調査料を取立てるのであつて、その調査結果は、御融通できないと云ふことになるのである。それは貸さない口実を見つけ出すための調査料のやうな観を呈してゐる。――たとへば、担保の有無、保証人信用工合、細君が入籍してあるか、子供があるかなぞの中にその口実は幾らでもころがつてゐたし、条件が揃つてゐても、現住所にどれ程ゐますかとの問ひに、哀れな申込者が六ヶ月と答へれば、商会では一年以上同一場所に居住してゐる人でないと貸出さないと云ひ、よしんば一年以上であつても、いや二ヶ年以下の御家庭は困るのですと――何とでも理由はつけて、調査料を捲きあげ得られるのである。
 以上の二つの副業が、この主人の全体としては陰欝な表情のうちで、眼だけを生き生きとしたものにしてゐる。赤い瞳であるが、これを上眼使ひにしよつちゆう動かす時に、白眼がチラチラと冷く光るのである。調査に出かける場合にはどんな遠いところでも自転車に乗つて行き、脂じみた朴歯(ほおば)の下駄で鈍重に動作し、ぽつりぽつりともの云つて口数も少い。ところが、家に帰つて来ると、実にキビキビとして、一階から三階の間を馳(か)け廻り部屋々々の様子をうかがつて、逢ふ人ごとに如才なく弁舌を振ふのである。――これは、彼のもう一つの副業がしからしめてゐるのであつて、すでに想像できるやうに、彼の三階建の家屋アパートとして経営されてゐるのである。
 三階は、細君がお神楽(かぐら)三階は縁起が悪いと反対したのを押切つて、あとから建て増されたものだ。このことは主人の金の貯つて来たのを語ると共に、我々が墓地側から望む時、この家が傾いてゐるやうに見え、また、土の焜炉(こんろ)や瀬戸引の洗面器、時には枯れた鉢植の置かれてある部屋々々の窓が規則正しく配列されてなくて、大小三つある物干台と一しよに雑然と乱暴に積み重ねたやうな印象を与へられる原因をなしてゐる。
 アパートと云つても――いや、そんな何となく小綺麗で、設備のよくととのつた西洋くさい貸部屋意味する言葉を使つてはいけないだらう。何故かと云へば、卒塔婆(そとば)の破(や)れ垣(がき)の横を通つてその入口に達すると「あづまアバート」と書いた木札がかかつてゐて、ちやんと、アパートではないとことわつてゐる。
 そこで、このアパート普通下宿屋|乃至(ないし)木賃宿とそんなにちがつたものでないと云つても、あやしむことなく理解されるだらう。それでも、下の入口の下駄箱の側にはスリッパが――アパートの主人はこれをスレッパと呼んでゐる――乱雑にぬぎすてられてあるし、廊下の両側の部屋には、褐色のワニス塗りのドアがついてゐ、中からも外からも鍵がかけられるやうになつてゐて、幾分西洋くさいアパートに近づかうとはしてゐる。けれども一旦部屋にはひると、部屋の境目がどう云ふわけか、襖(ふすま)やガラス障子でくぎられてゐるので――もちろん、これらは釘で打ちつけられてあけ閉(た)てできぬやうにはしてあるが、お互ひの生活は半ば丸出しと云つてよいのである。畳も壁も、それから乾からびてしよつちゆう割れる音のしてゐる柱も、人間の色んな液汁が染みこんでゐて汚く悪臭発散してゐる。表通に自動車警笛をならして走るたびに部屋振動するのは云ふまでもなく、べとべとしてゐて足裏に埃のいやにくつつく廊下階段を誰かが歩いただけで、部屋全体が響けるのである。
 油虫の多い炊事場は、二階階段の上(あが)り端(はな)に、便所と隣りあつてあるが、流しもとは狭くて水道栓は一つ、ガス焜炉は二つしかないので、支度時には混雑して、立つて空くのを待つてゐなければならない。
 こんな不潔で不便でも、貸賃が安く、交通に都合がよいので、大抵の部屋はふさがつてゐるやうだ。六畳が十円で、ガス、水道電燈料が一円五十銭――合計十一五十銭の前家賃になつてゐる。多くは浅草公園に職を持つてゐるのであるが、彼らの借室人としての性質はどんなものであるか。
 彼らはその家賃部屋設備からして高いと考へてゐる。できれば値下すべきであり、殊に最近不景気で以前と同じ金を取るのはひどいと考へる。そして、そのことは一人一人交渉するよりも、全体としてアパートの主人に談合すべきであると考へる。――ある夜、多くの者たちは十二時すぎまで仕事があるので、一時頃から三時前までもかかつて、協議して一円の値下を要求することに決めた。そして翌日は晦日(みそか)になつてゐるのだが、誰も払はずに、交渉引受けた小肥りの映画説明者の返答を待つことになつた。


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