日本文化の独立 - 内藤 湖南 ( ないとう こなん )
日本文化の獨立
私はお話致します前に、お斷はり致して置きたいのは、一體私は日本歴史の專攻者でありませんので、今までお話になつた三人の方のやうに、皆日本のことを專門に研究して居られるのとは一寸別だといふことであります。それでありますからして、今日のお話は前にお話しになつた三人のお方の方が本統のお話で、私のは餘興だと思つて頂き度い(笑聲起る)。自然餘興でありますから、お話の中にいろ/\間違もありませうし、又私は今日遲く參りまして、吉澤博士のお話は承はりましたが前の粟野君のお話も中村君のお話も承りませんので、或は重複することを申上げたり、前のお話と違つた意味のことを申上げたりするかも知れませぬ。尤も前のお話を承はらぬ方が私に取つては都合がいゝのであります、前に專門の方のなさつたのを承はつて居つたら私は全くお話が出來ないやうになつたかも知れませぬ。さういふわけで前の方と違つた事をお話致すやうなことがありましたならば、それは前のお方の方が專門家であり、私の方は素人でありますから、前の方が正しくて私のが間違であると判斷して頂けば確かであります、それだけをお斷り致しておきます。
それから題が少し突飛な題であります。全體今日の講演會の主意は南朝と大覺寺との關係を申上げるといふにあるやうでありますので、私の演題は一寸かけ離れて居ります。元來私は南朝と大覺寺といふやうな題に就て專門に研究も何も致して居りませぬのです。それでは今日のやうな講演會には出ない方がいゝと云ふ事になるのですが、それには少々譯がありますのです、といふのは學問上には關係はありませんが、此大覺寺が斯ういふことをお企てなさるに就て、詰らない掛り合ひからお骨折りをしなければならぬやうなことになつてゐるのです。それは友人の黒板博士が大覺寺の遠忌に就ていろ/\骨を折て居られるのでありますが、其張本人の黒板君が此の講演會に出席が出來ないといふので、私が名代を申付けられたといふやうなわけになつてゐるのであります。併し私は黒板君のやうに國史の專門家でありませぬから、迚も器用なお話は出來ませぬ、それでやはり私相應の話を致すより外ありませぬのです。
併し私も日本の文化といふものは、自分の專門の東洋の歴史を研究する上から常に考へて居ります。日本の文化といふものは一體最初はどういふ状態から發達して來て、さうして日本の文化が日本の文化らしいものを作り上げたのはいつ頃からかといふやうなことを考へたこともあります。さうして時々發表も致して居りますが、それに南朝、大覺寺といふものが關係を持つてゐるやうに思ひますので、私の考へてゐる方に都合のいゝ所をお話しようと思ひます。それで突飛ではありますけれども、斯ういふものを持ち出したわけであります、どうか其點をお含みおきを願ひます。
所で日本文化の由來をお話致しますると、詰らなく長くなりますから、それは凡て省きまして、ともかく日本の文化の形づくられるのに取つて一つの大きな時代、特別な時代、それは丁度この後宇多天皇の頃から南北朝までの間にかけての時代でありますが、この時代はよほど大切な時代であると思ひます。勿論その前からして日本の思想にはすでに色々内部に變化が起つて居つたのであつて、必ずしも此時に始まつたわけではありませぬが、この後宇多天皇から南北朝までの間に變化を起して來た日本の文化といふものは、言はゞ王朝文化の最後の保持者である所の皇室とか公家とかいふやうな一團に文化の變化が及んで來たといふ風に私は考へるのであります。
御承知の通り、日本ではすでに藤原時代、鎌倉時代の丁度變り目頃からして社會の状態も大變變化して參りまして、今迄勢力がなかつた武家といふものがだん/\頭をあげて來て居ります。それから思想の上にも變化を致したと見えまして、その頃は宗教の方に變化が出來て新しい宗教が日本に出來た。それは全部日本人の考へによつて生じたといふわけではなく、幾らか支那で出來る新らしい宗教を輸入したといふこともありませうけれども、兎に角それが日本の思想の上に著しい關係を持つて來て居るといふ事は間違ないことであります。さういふ思想、それから社會状態がだん/\下の方から上の方へ/\と及んで行つて、最後は皇室並に公家の中にさういふ思想、さういふ社會状態に一致するやうなお方を出すやうになつて來たやうに考へます。それが即ち丁度大覺寺統の龜山、後宇多以下南朝系の天皇の方々の時で、さういふ風な考を持つた人が多かつたやうであります。さういふ人達の間には明らかに革新の機運が漲つて居りましたが、それは一面においては日本内部の社會革新機運となりまして、今迄すべて支那の文化を墨守して居つた日本の文化が、そこに一つの獨立の機運を持ち上げて來たやうに考へられます。さうしてそれは單に自然に社會状態からしてさういふ風になつて來たといふばかりでなく、やはり其時代の有力なる君主、有力なる公家達が居られたために、其機運を促進したのであらうと思ひます。そのことが私に最も興味を惹くことであつて、これが日本全體の文化、思想の獨立に取つて、よほど重大なことであると考へます、そのことを大體お話して見たいのであります。
先程、粟野君が後宇多天皇の御事蹟を委しくお話せられたやうですが、私はそれを承らぬで殘念に思つて居ります。私は粟野君のやうな專門家でありませぬから、材料としては簡單なことで申上げるより外致方ありませぬ。どなたでも國史の研究に志ある人は北畠親房の神皇正統記を御覽になつて居ると思ひますが、正統記で後宇多天皇のことを拜見しますると大變ほめ奉つて居ります。昔から日本で名君と言はれた天皇方は延喜、天暦、寛弘、延久即ち醍醐天皇、村上天皇、一條天皇、後三條天皇といふやうなお方であつて、同時に此のお方々はいづれも宏才博覽に諸道をもしらせられたといふことを言つて居るが、後三條以後には後宇多天皇ほどの御才は聞えさせ給はずと申して居ります、そして後宇多天皇の學問並に佛教の造詣の深く入らせられた事に就て委しく述べて居ります。親房の議論によると、寛平の宇多法皇の御誡にも天皇の學問はひどく深くする必要はない、群書治要といふ本があるがそれで澤山だといふことが言はれてある。これは唐の初めに出來た本で、支那にはなくなつて日本に殘つて居り、却て支那で珍らしがられてゐる本でありますが、其内容は經史諸子等、支那の本の拔き書きで、天子に重要なと思はれる事のみが書かれてある、その群書治要で澤山である、それ程深くせぬでもいゝといふことを宇多法皇が仰せられたが、宇多法皇は勿論その後の天皇で名君と言はれた方は皆宏才博覽な方である、醍醐、村上、一條、後三條でも皆宏才博覽で文學などもよく出來てゐられるが、後宇多天皇も亦非常に宏才博覽で入らせられたといふことを言つて居ります。この親房の正統記に書いてあることは、後宇多天皇の御遺告即ち今日あちらに陳列してある所の天皇御自身の御遺言の中に書かれてあることゝ非常によく一致して居ります。であれを拜見致しますと、後宇多天皇の御學問といふものは、單に天皇として知らせ給ふべきことを一と通り知らせ給ふばかりでなく、むしろそれには御滿足なさらないで、天子でおはせられながら、佛教の學問ならば高僧と同樣、普通の諸道の學問ならば諸道の學者同樣に、深く知らせ給ふべき御決心を以て研究せられたといふことが分ります、是はよほど注意すべきことだと思ひます。
さういふ風に非常に學問に御熱心な方で入らせられたのですが、斯ういふ風に天子が學問に御熱心であるといふことは、これは其時代の何かの方面に必ず影響を與へずにはおきませぬ。その影響をだんだんに考へて見ますると、一面においてはお子さんで入らせられる後醍醐天皇が、たとひ一時にもせよ兎に角日本の政治上の革新を立派になし遂げられたといふことに感化を及ぼして居るのであります。神皇正統記によると、後醍醐天皇の條に、後醍醐天皇も非常に宏才博覽でいらせられ、佛教の方の學問に就ては最初は父天皇たる後宇多天皇にお教を受け、さうして其上更に專門の高僧から許可まで受け給うたといふことが書いてあります。
其他にも影響は色々及んで居りますが、それはあとで申上げるとして、とにかくさういふ感化を各方面に與へてゐるのであります。それから一面には後宇多天皇のやうな御學問に御熱心なお方は、今言つた通り單に天子として學問せらるゝのみならず、殆ど御自分が學者同樣な覺悟で學問せられてゐるのでありますから、其學問の御造詣は自然に當時の普通の人々の考へるやうな程度に滿足せられずして、更に學問の根本に遡らうといふ意氣込があらせられたやうに考へられます。それで御遺告を見ましても、後宇多天皇は殊に密教に精通して居られた方ですが、其密教でも御自分におかれても弘法大師以來相傳の嚴重な方法によつて密教を研究され、又密教の正統を相續する僧侶には同樣に嚴重な規則に從はせるやう御遺言遊ばされたので、實に密教のピユリタニズムとも申し奉るべき固い掟を示されました。又御遺告のみならず、今日も陳列してありますが、弘法大師の傳記も御自筆で書かれて居ります、斯ういふことは即ち教法の先祖である所の弘法大師を慕つて居られたので、純粹なる高祖の教規通りの古に復さうといふ御考から出來たのであつて、末世の僧侶の程度に滿足せられず、密教の根本を究め、先祖のしたことを復興しようといふ御考からであるといふことが分ります。是がすでに革新の機運を促す所のものであります。
昔の社會上の事情といふものは今日と違ひまして、何でも新しい事を開拓しようとするには、是は支那でも日本でも同樣で、改革論者の多くは復古といふことを考へるのが通例であります。復古といふことが即ちいつでも革新論であります。後宇多天皇が教法上の復古といふことを考へられたのは即ち一つの革新であつて、是が當時の現状に滿足せられない天皇の革新思想を持たれた證據になるのであります。さうして是は後醍醐天皇の御學問、御考への上にも大變な關係を持つたであらうと考へます。近く明治維新といふものを御覽になつても分りますが、維新以前から日本に漲つてゐた思想は即ち王政復古といふことであります、そしてその王政復古がいよ/\爲し遂げられたところが、今度は開國進取といふことに變つて來たのであります、いや變つて行つたのではありませぬで、近頃の言葉でいふとやはり王政復古の延長であります。つまり後宇多天皇のお考へになつた學問上の復古思想といふものは、もう一つ進んで行くと、後醍醐天皇のやうに更に進んだ思想になるといふことは是はきまりきつた事であらうと思ひます。後醍醐天皇のことを申上げずに斯ういふ風にばかり申しても分りにくいでせうが、それはあとでだん/\に申上げるとして、この後宇多天皇の復古思想といふのがよほど大事であることを御承知願ひたいのであります。
それから次の時代になりまするといふと、後宇多天皇のお子さんの後醍醐天皇が出られますが、不思議にも亦さういふ機運が大覺寺統にも、又持明院統にもあつたものと見えまして、どちらにもさういふ思想を持つた方が出て居ります。即ち北朝――持明院の方においても、花園天皇といふやうな方が出られて、後醍醐天皇と同じやうに革新的思想を持たれた樣に考へられるのであります。
それから題が少し突飛な題であります。全體今日の講演會の主意は南朝と大覺寺との關係を申上げるといふにあるやうでありますので、私の演題は一寸かけ離れて居ります。元來私は南朝と大覺寺といふやうな題に就て專門に研究も何も致して居りませぬのです。それでは今日のやうな講演會には出ない方がいゝと云ふ事になるのですが、それには少々譯がありますのです、といふのは學問上には關係はありませんが、此大覺寺が斯ういふことをお企てなさるに就て、詰らない掛り合ひからお骨折りをしなければならぬやうなことになつてゐるのです。それは友人の黒板博士が大覺寺の遠忌に就ていろ/\骨を折て居られるのでありますが、其張本人の黒板君が此の講演會に出席が出來ないといふので、私が名代を申付けられたといふやうなわけになつてゐるのであります。併し私は黒板君のやうに國史の專門家でありませぬから、迚も器用なお話は出來ませぬ、それでやはり私相應の話を致すより外ありませぬのです。
併し私も日本の文化といふものは、自分の專門の東洋の歴史を研究する上から常に考へて居ります。日本の文化といふものは一體最初はどういふ状態から發達して來て、さうして日本の文化が日本の文化らしいものを作り上げたのはいつ頃からかといふやうなことを考へたこともあります。さうして時々發表も致して居りますが、それに南朝、大覺寺といふものが關係を持つてゐるやうに思ひますので、私の考へてゐる方に都合のいゝ所をお話しようと思ひます。それで突飛ではありますけれども、斯ういふものを持ち出したわけであります、どうか其點をお含みおきを願ひます。
所で日本文化の由來をお話致しますると、詰らなく長くなりますから、それは凡て省きまして、ともかく日本の文化の形づくられるのに取つて一つの大きな時代、特別な時代、それは丁度この後宇多天皇の頃から南北朝までの間にかけての時代でありますが、この時代はよほど大切な時代であると思ひます。勿論その前からして日本の思想にはすでに色々内部に變化が起つて居つたのであつて、必ずしも此時に始まつたわけではありませぬが、この後宇多天皇から南北朝までの間に變化を起して來た日本の文化といふものは、言はゞ王朝文化の最後の保持者である所の皇室とか公家とかいふやうな一團に文化の變化が及んで來たといふ風に私は考へるのであります。
御承知の通り、日本ではすでに藤原時代、鎌倉時代の丁度變り目頃からして社會の状態も大變變化して參りまして、今迄勢力がなかつた武家といふものがだん/\頭をあげて來て居ります。それから思想の上にも變化を致したと見えまして、その頃は宗教の方に變化が出來て新しい宗教が日本に出來た。それは全部日本人の考へによつて生じたといふわけではなく、幾らか支那で出來る新らしい宗教を輸入したといふこともありませうけれども、兎に角それが日本の思想の上に著しい關係を持つて來て居るといふ事は間違ないことであります。さういふ思想、それから社會状態がだん/\下の方から上の方へ/\と及んで行つて、最後は皇室並に公家の中にさういふ思想、さういふ社會状態に一致するやうなお方を出すやうになつて來たやうに考へます。それが即ち丁度大覺寺統の龜山、後宇多以下南朝系の天皇の方々の時で、さういふ風な考を持つた人が多かつたやうであります。さういふ人達の間には明らかに革新の機運が漲つて居りましたが、それは一面においては日本内部の社會革新機運となりまして、今迄すべて支那の文化を墨守して居つた日本の文化が、そこに一つの獨立の機運を持ち上げて來たやうに考へられます。さうしてそれは單に自然に社會状態からしてさういふ風になつて來たといふばかりでなく、やはり其時代の有力なる君主、有力なる公家達が居られたために、其機運を促進したのであらうと思ひます。そのことが私に最も興味を惹くことであつて、これが日本全體の文化、思想の獨立に取つて、よほど重大なことであると考へます、そのことを大體お話して見たいのであります。
先程、粟野君が後宇多天皇の御事蹟を委しくお話せられたやうですが、私はそれを承らぬで殘念に思つて居ります。私は粟野君のやうな專門家でありませぬから、材料としては簡單なことで申上げるより外致方ありませぬ。どなたでも國史の研究に志ある人は北畠親房の神皇正統記を御覽になつて居ると思ひますが、正統記で後宇多天皇のことを拜見しますると大變ほめ奉つて居ります。昔から日本で名君と言はれた天皇方は延喜、天暦、寛弘、延久即ち醍醐天皇、村上天皇、一條天皇、後三條天皇といふやうなお方であつて、同時に此のお方々はいづれも宏才博覽に諸道をもしらせられたといふことを言つて居るが、後三條以後には後宇多天皇ほどの御才は聞えさせ給はずと申して居ります、そして後宇多天皇の學問並に佛教の造詣の深く入らせられた事に就て委しく述べて居ります。親房の議論によると、寛平の宇多法皇の御誡にも天皇の學問はひどく深くする必要はない、群書治要といふ本があるがそれで澤山だといふことが言はれてある。これは唐の初めに出來た本で、支那にはなくなつて日本に殘つて居り、却て支那で珍らしがられてゐる本でありますが、其内容は經史諸子等、支那の本の拔き書きで、天子に重要なと思はれる事のみが書かれてある、その群書治要で澤山である、それ程深くせぬでもいゝといふことを宇多法皇が仰せられたが、宇多法皇は勿論その後の天皇で名君と言はれた方は皆宏才博覽な方である、醍醐、村上、一條、後三條でも皆宏才博覽で文學などもよく出來てゐられるが、後宇多天皇も亦非常に宏才博覽で入らせられたといふことを言つて居ります。この親房の正統記に書いてあることは、後宇多天皇の御遺告即ち今日あちらに陳列してある所の天皇御自身の御遺言の中に書かれてあることゝ非常によく一致して居ります。であれを拜見致しますと、後宇多天皇の御學問といふものは、單に天皇として知らせ給ふべきことを一と通り知らせ給ふばかりでなく、むしろそれには御滿足なさらないで、天子でおはせられながら、佛教の學問ならば高僧と同樣、普通の諸道の學問ならば諸道の學者同樣に、深く知らせ給ふべき御決心を以て研究せられたといふことが分ります、是はよほど注意すべきことだと思ひます。
さういふ風に非常に學問に御熱心な方で入らせられたのですが、斯ういふ風に天子が學問に御熱心であるといふことは、これは其時代の何かの方面に必ず影響を與へずにはおきませぬ。その影響をだんだんに考へて見ますると、一面においてはお子さんで入らせられる後醍醐天皇が、たとひ一時にもせよ兎に角日本の政治上の革新を立派になし遂げられたといふことに感化を及ぼして居るのであります。神皇正統記によると、後醍醐天皇の條に、後醍醐天皇も非常に宏才博覽でいらせられ、佛教の方の學問に就ては最初は父天皇たる後宇多天皇にお教を受け、さうして其上更に專門の高僧から許可まで受け給うたといふことが書いてあります。
其他にも影響は色々及んで居りますが、それはあとで申上げるとして、とにかくさういふ感化を各方面に與へてゐるのであります。それから一面には後宇多天皇のやうな御學問に御熱心なお方は、今言つた通り單に天子として學問せらるゝのみならず、殆ど御自分が學者同樣な覺悟で學問せられてゐるのでありますから、其學問の御造詣は自然に當時の普通の人々の考へるやうな程度に滿足せられずして、更に學問の根本に遡らうといふ意氣込があらせられたやうに考へられます。それで御遺告を見ましても、後宇多天皇は殊に密教に精通して居られた方ですが、其密教でも御自分におかれても弘法大師以來相傳の嚴重な方法によつて密教を研究され、又密教の正統を相續する僧侶には同樣に嚴重な規則に從はせるやう御遺言遊ばされたので、實に密教のピユリタニズムとも申し奉るべき固い掟を示されました。又御遺告のみならず、今日も陳列してありますが、弘法大師の傳記も御自筆で書かれて居ります、斯ういふことは即ち教法の先祖である所の弘法大師を慕つて居られたので、純粹なる高祖の教規通りの古に復さうといふ御考から出來たのであつて、末世の僧侶の程度に滿足せられず、密教の根本を究め、先祖のしたことを復興しようといふ御考からであるといふことが分ります。是がすでに革新の機運を促す所のものであります。
昔の社會上の事情といふものは今日と違ひまして、何でも新しい事を開拓しようとするには、是は支那でも日本でも同樣で、改革論者の多くは復古といふことを考へるのが通例であります。復古といふことが即ちいつでも革新論であります。後宇多天皇が教法上の復古といふことを考へられたのは即ち一つの革新であつて、是が當時の現状に滿足せられない天皇の革新思想を持たれた證據になるのであります。さうして是は後醍醐天皇の御學問、御考への上にも大變な關係を持つたであらうと考へます。近く明治維新といふものを御覽になつても分りますが、維新以前から日本に漲つてゐた思想は即ち王政復古といふことであります、そしてその王政復古がいよ/\爲し遂げられたところが、今度は開國進取といふことに變つて來たのであります、いや變つて行つたのではありませぬで、近頃の言葉でいふとやはり王政復古の延長であります。つまり後宇多天皇のお考へになつた學問上の復古思想といふものは、もう一つ進んで行くと、後醍醐天皇のやうに更に進んだ思想になるといふことは是はきまりきつた事であらうと思ひます。後醍醐天皇のことを申上げずに斯ういふ風にばかり申しても分りにくいでせうが、それはあとでだん/\に申上げるとして、この後宇多天皇の復古思想といふのがよほど大事であることを御承知願ひたいのであります。
それから次の時代になりまするといふと、後宇多天皇のお子さんの後醍醐天皇が出られますが、不思議にも亦さういふ機運が大覺寺統にも、又持明院統にもあつたものと見えまして、どちらにもさういふ思想を持つた方が出て居ります。即ち北朝――持明院の方においても、花園天皇といふやうな方が出られて、後醍醐天皇と同じやうに革新的思想を持たれた樣に考へられるのであります。
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