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日本脱出記 - 大杉 栄 ( おおすぎ さかえ )

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    一  去年の十一月二十日だった。少し仕事疲れたので、夕飯を食うとすぐ寝床にはいっていると、Mが下から手紙の束を持って来た。いつものように、地方の同志らしい未知の人からの、幾通かの手紙の中に、珍らしく横文字で書いた四角封筒が一つまじっていた。見ると、かねてから新聞でその名や書いたものは知っている、フランスの同志コロメルからだ。何を言って来たのだろうと思って、ちょっとその封筒をすかして見たが、薄い一枚の紙を四つ折にしたぐらいの手触りのものだ。もう長い間の習慣になっているように、それがどこかで開封されているかどうか、まず調べて見たが、それらしい形跡は別になかった。ただ附箋が三、四枚はってあったが、それは鎌倉に宛てて書いてあったので、そこから逗子廻り、さらにまた東京に廻って来たしるしに過ぎなかった。そんなにあちこちと廻って来ながら、よく開封されなかったものだと思いながら、とにかく開けて見た。ほんのただ十行ばかり、タイプで打ってある。
 それを読むと、急に僕の心は踊りあがった。一月の末から二月の初めにかけて、ベルリン国際無政府主義大会を開くことになったが、ぜひやって来ないか、という、その準備委員コロメルの招待状なのだ。
 大会の開かれることは僕はまだちっとも知らなかった。が、ちょうどいい機会だ、行こう、と僕は心の中できめた。そして枕もとの小さな丸テーブルの上から、その日の昼来たまままだ封も切ってなかった、イギリス無政府主義新聞フリーダム』を取って見た。はたしてそれには大会のことが載っていた。

 招待状にもちょっと書いてあったように、九月の半ばに、スイスのセン・ティミエで、最初の国際無政府主義大会と言ってもいい、いわゆるセン・ティミエ大会五十年紀念会があった。フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ロシア、および支那の、百五十名ばかりの同志が集まった。そしてそのセン・ティミエ大会に与かった一人のマラテスタも、ローマからひそかに国境を脱け出て、そこに出席した。先年彼はこのスイスから追放されているので、そこにはいれば、見つかり次第捕まる恐れがあったのだ。
 紀念会は一種の国際大会のようなものになった。そしてそこで、無政府主義組織のことや、無政府主義サンジカリズム関係のことなぞが問題となって、いろいろ議論のあった末に、フランス代表者コロメル等の発議で、新たに国際無政府主義同盟組織しようということになって、急に国際大会を開くことにきまったのであった。
 この国際同盟のことは、もうずいぶん古い頃から始終問題になっていて、現に十五、六年前のアムステルダム大会でそれがいったん組織されたのであった。この同盟には、僕等日本無政府主義者も、幸徳を代表にして加わった。そして幸徳は毎月その機関誌通信を送っていた。しかし、元来無政府主義者には、個人的または小団体的の運動を重んじて、一国的とか国際的とかの組織を軽んずる傾向があり、国際大会を開くにしても、その選定した土地政府がそれを許さなかったり、また、各国の同志がそれに参加しようと思っても、政府迫害経済上の不如意なぞのいろんな邪魔があったりして、わずか一、二年の間にこの同盟も立消えになってしまった。最近満足に開かれた大会は、前に言ったアムステルダム大会一つくらいのもので、ずいぶん久しぶりに開かれた一昨年の暮れベルリン大会なぞも、長い間の運動経験を持った名のある同志はほとんど一人も見ることができなかったほどの、よほど不完全なものであったらしい。
 しかし時はもう迫って来た。ことに、ロシアの革命が与えた教訓は、各国の無政府主義者非常な刺激となって、今までのような怠慢を許さなくなった。

フリーダム』のこの記事を読んでいる間に、Kがその勤めさきから帰って来た。
「おい、こんな手紙が来たんだがね。」
 と言って、僕はコロメルからの手紙内容大会の性質とをざっと話した。
「それやぜひ行くんですね。」
 Kも大ぶ興奮しながら言った。
「僕もそうは思っているんだがね。問題はまず何よりも金なんだ。」
「どのくらい要るんです。」
「さあ、ちょっと見当はつかないがね。最低のところで千円あれば、とにかく向うへ行って、まだ二、三カ月の滞在費は残ろうと思うんだ。」
「そのくらいなら何とかなるでしょう。あとはまたあとのことにして。」
「僕もそうきめているんだ。で、あした一日金策に廻って見て、その上ではっきりきめようと思うんだ。」
旅行券は?」
「そんなものは要らないよ。もう、とうの昔に、うまく胡麻化して行く方法ちゃんと研究してあるんだから。ただその方法を講ずるのにちょっとひまがかかるから、あしたじゅうにきめないと、大会に間に合いそうもないんだ。」
 Kはこの二つの条件を聞いて、すっかり安心したらしかった。そして下へ降りて行った。
 しかし僕にはまだ、そうやすやすと安心はできなかった。実はその借金の当てがほとんどなかったのだ。借りれる本屋からは、もう借りれるだけ、というよりもそれ以上に借りている。


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