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旧聞日本橋 17 牢屋の原 - 長谷川 時雨 ( はせがわ しぐれ )

  • ▲CD13【久宝留理子】COLORS♪早くしてよ.いっそ牢屋で眠りたい
  • 珍品資料彩色肉筆 時代本物「江戸期牢屋 詳細図」名札小札張
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牢屋の原  金持ちになれる真理となれない真理――転がりこんで来た金玉(かねだま)を、これは正当な所得ではございませんとかえして貧乏する。いまどきそんなことはないかもしれないが、私のうちがそれだった。
 御維新のあとのごたごたが納まっても、なかなか細(こま)かしいことは何時(いつ)までも残っていたのであろう。転(ころ)がりこんで来た金玉を押返してしまった人たちが、ある日こんなことをいっていた。
「たいした土地になった。」
「だからとっておおきになればいいのに。」
 それは小伝馬町に面した大牢(たいろう)の一角を、無償で父にくれようといった当時のことを母が詰(なじ)ったのだ。
 丁度首|斬(き)り場のあたりだったというところの柳の木が、厠(はばかり)の小窓から見える古帳面屋(ふるちょうめんや)の友達のうちから帰って来て、あたしが話したつづきからだった。
「西島屋のならびをずっとくれるといったのだが、おら不快(いや)だからな。」
お父さんは欲がないから、断ってしまったのだとお言いなのだよ。今じゃたいした土地なのにねえ。」
 母は、土一金一升のまんなかで、しかもめぬきの土地の角地面地主さんになれなかった怨(うら)みを時たまこぼす。
「あすこはな、不浄場といってたが、悪い奴ばかりはいないのだ。今と違ってどんなに無実の罪で死んだものがあるかしれやしない。おれは斬罪(ざんざい)になる者の号泣(なきごえ)を聞いているからいやだ。逃(のが)れよう、逃れようという気が、首を斬られてからも、ヒョイと前へ出るのだ。しでえことをしたもんで、後から縄をひっぱっている。前からは、髷(まげ)をひっぱって、引っぱる。いやでも首を伸す時に、ちょいとやるんだ。まあ、あんな場処はほしくねえな。」
 父が流行(はやり)の長い刀をぶっこんでいた時分、明渡(あけわた)された江戸城の守備についていた時、苑内|紅葉山(もみじやま)に配置してある鹿の置物を狙(ねら)い撃(うち)にしたものもあるとかいうほどだから、乱暴者に違いなかったであろうに、その人がそういうのだ。その後打首が廃され、絞首になる時その器具を造るのを調べさせられて用いた夜、どうしても寝具合がわるく、三晩もうなったので、役人なんざまっぴらごめんだと、噛(かじ)りつきたがるはずの椅子を投(ほう)りだしてしまった。そんな折の関係土地ッ子なので、あの広大土地無償(ただ)でくれようというのだったろう。無償とはいわないで、長谷川この土地はお前の名にしておけといわれたのだったそうだ。その当時の政府要路に深い縁のない父でさえそうだったから、その他の懐が、ふくれほうだいだったのは言うまでもなかろう。岩崎は丸の内一帯の大地主だ、丸の内といえば諸大名の官宅のあった土地だ。
 その時、祖母も言った。
浜町三河様の邸(やしき)あとも、くれるといったのだそうだよ。」
 その時の断りかたがまたふるっている。折角ですが老母がいやがりますから――あすこは糞船(くそぶね)の一ぱい寄るところで――と。三河様の邸跡は大樹が森々(しんしん)として、細川邸とつづき塀越しに大川の水がすぐ目の前にあり、月見有名土地で、中洲は繁華になった。
 大橋と、両国橋の間の中洲には、懲役人が赤い着物を着て、小船にのって土運びをしていた。女橋と男橋がかかって、土地開きをしたころの夏の人気は、人形町通りから、埋たての中洲へと集っていた。ただもうめちゃくちゃに賑かだった。おでんやは鍋(なべ)の廻りに真黒に人が立ち、氷やは腰をかける席がないほどの繁昌(はんじょう)だ。氷やといっても今のように小体(こてい)な店ではない。なかなか広い店で、巾の広い牀几(しょうぎ)が沢山並んでいた。涼しげな、大きな滝を忍ばせる硝子(ガラス)の簾(すだれ)――聯(れん)がさがって提灯(ちょうちん)や、花|瓦斯(ガス)の光りが映(うつ)りゆらめき、いせいのよいビラが張りわたされ、ねじ鉢巻のあにいが二、三人手を揃えてガリガリ氷を掻(か)きとばしていた。小女が赤いたすきで忙(せわ)しそうに客の間を走っていた。
 いま、デパート食堂へゆくと、ふと思出すのは、様子はかわっているが、あたしの子供の時分の、えびすやとか、ほていやとかいった呉服屋や、そのわきにあった、おしるこや萩(はぎ)の餅(もち)の店のことで、店さきの高いところから、長い暖簾(のれん)がかけてあって、紺地に大きく彩色したえびすだのほていだのがついていた。その頃|流行(はやり)たてだったであろう噴水があって大きな金魚がいた。だが、食(たべ)ものは簡単だ。お餅か、お団子位だ。浅草金竜山にしてもあんと、きなこと、ごまのついた餅、芝の太々餅(だいだいもち)もおなじくであり、大橋ぎわのおだんご、谷中|芋坂(いもざか)のおだんご、そのほか数えたらいくらでもあるが――
 中洲は納涼にもってこいだから、川開きの時分の賑いは別段だった。夏祭り両国花火は夏の年中行事市民にはなっていたのだろう、あんぽんたん昼寝からむりに覚されて、行水の盥(たらい)のなかへ入れられ、お船へのせて花火を見せるからと、だましだましいやがるのに着物をきせられた。
 あたしの家で船を仕立るのか――たぶん、前出の金兵衛おじさんの船が来ていたのだったろうと思う。まだ日の高いうちから、金兵衛さんが紺の透通(すきとお)った着物を着て、白扇(はくせん)であおいで風通しのいい座敷に座っていると、顔見知りの老船頭だの、大工棟梁(とうりょう)のところの伊三(いさ)という甥(おい)だのがかわるがわるに、一升|樽(だる)だのその他のものを運んだ。ものわかりのいいその人たちが、庭の、敷石のところに立って、座敷の人と応対(うけこたえ)していたのが、ばかにクッキリと今の私の目にも浮かぶ。
 船のつけてあるところは、三河様よりこっちよりの細川邸の清正公様(せいしょうこうさま)のそとのところだった。夕潮が猪牙船(ちょき)の横っぱらをザブンザブンとゆすっていた。


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