旧聞日本橋 17 牢屋の原 - 長谷川 時雨 ( はせがわ しぐれ )
牢屋の原
金持ちになれる真理となれない真理――転がりこんで来た金玉(かねだま)を、これは正当な所得ではございませんとかえして貧乏する。いまどきそんなことはないかもしれないが、私のうちがそれだった。
御維新のあとのごたごたが納まっても、なかなか細(こま)かしいことは何時(いつ)までも残っていたのであろう。転(ころ)がりこんで来た金玉を押返してしまった人たちが、ある日こんなことをいっていた。
「たいした土地になった。」
「だからとっておおきになればいいのに。」
それは小伝馬町に面した大牢(たいろう)の一角を、無償で父にくれようといった当時のことを母が詰(なじ)ったのだ。
丁度首|斬(き)り場のあたりだったというところの柳の木が、厠(はばかり)の小窓から見える古帳面屋(ふるちょうめんや)の友達のうちから帰って来て、あたしが話したつづきからだった。
「西島屋のならびをずっとくれるといったのだが、おら不快(いや)だからな。」
「お父さんは欲がないから、断ってしまったのだとお言いなのだよ。今じゃたいした土地なのにねえ。」
母は、土一升金一升のまんなかで、しかもめぬきの土地の角地面の地主さんになれなかった怨(うら)みを時たまこぼす。
「あすこはな、不浄場といってたが、悪い奴ばかりはいないのだ。今と違ってどんなに無実の罪で死んだものがあるかしれやしない。おれは斬罪(ざんざい)になる者の号泣(なきごえ)を聞いているからいやだ。逃(のが)れよう、逃れようという気が、首を斬られてからも、ヒョイと前へ出るのだ。しでえことをしたもんで、後から縄をひっぱっている。前からは、髷(まげ)をひっぱって、引っぱる。いやでも首を伸す時に、ちょいとやるんだ。まあ、あんな場処はほしくねえな。」
父が流行(はやり)の長い刀をぶっこんでいた時分、明渡(あけわた)された江戸城の守備についていた時、苑内|紅葉山(もみじやま)に配置してある鹿の置物を狙(ねら)い撃(うち)にしたものもあるとかいうほどだから、乱暴者に違いなかったであろうに、その人がそういうのだ。その後打首が廃され、絞首になる時その器具を造るのを調べさせられて用いた夜、どうしても寝具合がわるく、三晩もうなったので、役人なんざまっぴらごめんだと、噛(かじ)りつきたがるはずの椅子を投(ほう)りだしてしまった。そんな折の関係と土地ッ子なので、あの広大な土地を無償(ただ)でくれようというのだったろう。無償とはいわないで、長谷川この土地はお前の名にしておけといわれたのだったそうだ。その当時の政府要路に深い縁のない父でさえそうだったから、その他の懐が、ふくれほうだいだったのは言うまでもなかろう。岩崎は丸の内一帯の大地主だ、丸の内といえば諸大名の官宅のあった土地だ。
その時、祖母も言った。
「浜町の三河様の邸(やしき)あとも、くれるといったのだそうだよ。」
その時の断りかたがまたふるっている。折角ですが老母がいやがりますから――あすこは糞船(くそぶね)の一ぱい寄るところで――と。三河様の邸跡は大樹が森々(しんしん)として、細川邸とつづき塀越しに大川の水がすぐ目の前にあり、月見に有名な土地で、中洲は繁華になった。
大橋と、両国橋の間の中洲には、懲役人が赤い着物を着て、小船にのって土運びをしていた。女橋と男橋がかかって、土地開きをしたころの夏の人気は、人形町通りから、埋たての中洲へと集っていた。ただもうめちゃくちゃに賑かだった。おでんやは鍋(なべ)の廻りに真黒に人が立ち、氷やは腰をかける席がないほどの繁昌(はんじょう)だ。氷やといっても今のように小体(こてい)な店ではない。なかなか広い店で、巾の広い牀几(しょうぎ)が沢山並んでいた。涼しげな、大きな滝を忍ばせる硝子(ガラス)の簾(すだれ)――聯(れん)がさがって提灯(ちょうちん)や、花|瓦斯(ガス)の光りが映(うつ)りゆらめき、いせいのよいビラが張りわたされ、ねじ鉢巻のあにいが二、三人手を揃えてガリガリ氷を掻(か)きとばしていた。小女が赤いたすきで忙(せわ)しそうに客の間を走っていた。
いま、デパートの食堂へゆくと、ふと思出すのは、様子はかわっているが、あたしの子供の時分の、えびすやとか、ほていやとかいった呉服屋や、そのわきにあった、おしるこや萩(はぎ)の餅(もち)の店のことで、店さきの高いところから、長い暖簾(のれん)がかけてあって、紺地に大きく彩色したえびすだのほていだのがついていた。その頃|流行(はやり)たてだったであろう噴水があって大きな金魚がいた。だが、食(たべ)ものは簡単だ。お餅か、お団子位だ。浅草の金竜山にしてもあんと、きなこと、ごまのついた餅、芝の太々餅(だいだいもち)もおなじくであり、大橋ぎわのおだんご、谷中|芋坂(いもざか)のおだんご、そのほか数えたらいくらでもあるが――
中洲は納涼にもってこいだから、川開きの時分の賑いは別段だった。夏祭りと両国の花火は夏の年中行事と市民にはなっていたのだろう、あんぽんたんも昼寝からむりに覚されて、行水の盥(たらい)のなかへ入れられ、お船へのせて花火を見せるからと、だましだましいやがるのに着物をきせられた。
あたしの家で船を仕立るのか――たぶん、前出の金兵衛おじさんの船が来ていたのだったろうと思う。まだ日の高いうちから、金兵衛さんが紺の透通(すきとお)った着物を着て、白扇(はくせん)であおいで風通しのいい座敷に座っていると、顔見知りの老船頭だの、大工の棟梁(とうりょう)のところの伊三(いさ)という甥(おい)だのがかわるがわるに、一升|樽(だる)だのその他のものを運んだ。ものわかりのいいその人たちが、庭の、敷石のところに立って、座敷の人と応対(うけこたえ)していたのが、ばかにクッキリと今の私の目にも浮かぶ。
船のつけてあるところは、三河様よりこっちよりの細川邸の清正公様(せいしょうこうさま)のそとのところだった。夕潮が猪牙船(ちょき)の横っぱらをザブンザブンとゆすっていた。
御維新のあとのごたごたが納まっても、なかなか細(こま)かしいことは何時(いつ)までも残っていたのであろう。転(ころ)がりこんで来た金玉を押返してしまった人たちが、ある日こんなことをいっていた。
「たいした土地になった。」
「だからとっておおきになればいいのに。」
それは小伝馬町に面した大牢(たいろう)の一角を、無償で父にくれようといった当時のことを母が詰(なじ)ったのだ。
丁度首|斬(き)り場のあたりだったというところの柳の木が、厠(はばかり)の小窓から見える古帳面屋(ふるちょうめんや)の友達のうちから帰って来て、あたしが話したつづきからだった。
「西島屋のならびをずっとくれるといったのだが、おら不快(いや)だからな。」
「お父さんは欲がないから、断ってしまったのだとお言いなのだよ。今じゃたいした土地なのにねえ。」
母は、土一升金一升のまんなかで、しかもめぬきの土地の角地面の地主さんになれなかった怨(うら)みを時たまこぼす。
「あすこはな、不浄場といってたが、悪い奴ばかりはいないのだ。今と違ってどんなに無実の罪で死んだものがあるかしれやしない。おれは斬罪(ざんざい)になる者の号泣(なきごえ)を聞いているからいやだ。逃(のが)れよう、逃れようという気が、首を斬られてからも、ヒョイと前へ出るのだ。しでえことをしたもんで、後から縄をひっぱっている。前からは、髷(まげ)をひっぱって、引っぱる。いやでも首を伸す時に、ちょいとやるんだ。まあ、あんな場処はほしくねえな。」
父が流行(はやり)の長い刀をぶっこんでいた時分、明渡(あけわた)された江戸城の守備についていた時、苑内|紅葉山(もみじやま)に配置してある鹿の置物を狙(ねら)い撃(うち)にしたものもあるとかいうほどだから、乱暴者に違いなかったであろうに、その人がそういうのだ。その後打首が廃され、絞首になる時その器具を造るのを調べさせられて用いた夜、どうしても寝具合がわるく、三晩もうなったので、役人なんざまっぴらごめんだと、噛(かじ)りつきたがるはずの椅子を投(ほう)りだしてしまった。そんな折の関係と土地ッ子なので、あの広大な土地を無償(ただ)でくれようというのだったろう。無償とはいわないで、長谷川この土地はお前の名にしておけといわれたのだったそうだ。その当時の政府要路に深い縁のない父でさえそうだったから、その他の懐が、ふくれほうだいだったのは言うまでもなかろう。岩崎は丸の内一帯の大地主だ、丸の内といえば諸大名の官宅のあった土地だ。
その時、祖母も言った。
「浜町の三河様の邸(やしき)あとも、くれるといったのだそうだよ。」
その時の断りかたがまたふるっている。折角ですが老母がいやがりますから――あすこは糞船(くそぶね)の一ぱい寄るところで――と。三河様の邸跡は大樹が森々(しんしん)として、細川邸とつづき塀越しに大川の水がすぐ目の前にあり、月見に有名な土地で、中洲は繁華になった。
大橋と、両国橋の間の中洲には、懲役人が赤い着物を着て、小船にのって土運びをしていた。女橋と男橋がかかって、土地開きをしたころの夏の人気は、人形町通りから、埋たての中洲へと集っていた。ただもうめちゃくちゃに賑かだった。おでんやは鍋(なべ)の廻りに真黒に人が立ち、氷やは腰をかける席がないほどの繁昌(はんじょう)だ。氷やといっても今のように小体(こてい)な店ではない。なかなか広い店で、巾の広い牀几(しょうぎ)が沢山並んでいた。涼しげな、大きな滝を忍ばせる硝子(ガラス)の簾(すだれ)――聯(れん)がさがって提灯(ちょうちん)や、花|瓦斯(ガス)の光りが映(うつ)りゆらめき、いせいのよいビラが張りわたされ、ねじ鉢巻のあにいが二、三人手を揃えてガリガリ氷を掻(か)きとばしていた。小女が赤いたすきで忙(せわ)しそうに客の間を走っていた。
いま、デパートの食堂へゆくと、ふと思出すのは、様子はかわっているが、あたしの子供の時分の、えびすやとか、ほていやとかいった呉服屋や、そのわきにあった、おしるこや萩(はぎ)の餅(もち)の店のことで、店さきの高いところから、長い暖簾(のれん)がかけてあって、紺地に大きく彩色したえびすだのほていだのがついていた。その頃|流行(はやり)たてだったであろう噴水があって大きな金魚がいた。だが、食(たべ)ものは簡単だ。お餅か、お団子位だ。浅草の金竜山にしてもあんと、きなこと、ごまのついた餅、芝の太々餅(だいだいもち)もおなじくであり、大橋ぎわのおだんご、谷中|芋坂(いもざか)のおだんご、そのほか数えたらいくらでもあるが――
中洲は納涼にもってこいだから、川開きの時分の賑いは別段だった。夏祭りと両国の花火は夏の年中行事と市民にはなっていたのだろう、あんぽんたんも昼寝からむりに覚されて、行水の盥(たらい)のなかへ入れられ、お船へのせて花火を見せるからと、だましだましいやがるのに着物をきせられた。
あたしの家で船を仕立るのか――たぶん、前出の金兵衛おじさんの船が来ていたのだったろうと思う。まだ日の高いうちから、金兵衛さんが紺の透通(すきとお)った着物を着て、白扇(はくせん)であおいで風通しのいい座敷に座っていると、顔見知りの老船頭だの、大工の棟梁(とうりょう)のところの伊三(いさ)という甥(おい)だのがかわるがわるに、一升|樽(だる)だのその他のものを運んだ。ものわかりのいいその人たちが、庭の、敷石のところに立って、座敷の人と応対(うけこたえ)していたのが、ばかにクッキリと今の私の目にも浮かぶ。
船のつけてあるところは、三河様よりこっちよりの細川邸の清正公様(せいしょうこうさま)のそとのところだった。夕潮が猪牙船(ちょき)の横っぱらをザブンザブンとゆすっていた。
長谷川 時雨 (はせがわ しぐれ) 以外のオススメ作品
旧聞日本橋 17 牢屋の原 のリンク元
「旧聞日本橋 17 牢屋の原-長谷川 時雨」の関連ページ
-
長谷川ゆい - Torrentまとめ - Torrentまとめ
長谷川ゆい/みるスポ!DELUXE 長谷川ゆい みるきぃぷりん♪ -
国民/長谷川憲正 - 永田町一丁目情報部 - 永田町一丁目情報部
憲正 <成分解析課>長谷川憲正の53%はカルシウムで出来ています。長谷川憲正の26%は小麦粉で出来ています。長谷川憲正の17%は血で出来ています。長谷川憲正の3%は勇気で出来ています。長谷川憲正の1%は微 -
ハ行/ハ/長谷川裕一 - 漫画家くちこみリンク&掲示板 - 漫画家くちこみリンク&掲示板
qwerハ行/ハ/長谷川裕一 -
ハ行/ハ/長谷川法世 - 漫画家くちこみリンク&掲示板 - 漫画家くちこみリンク&掲示板
qwerハ行/ハ/長谷川法世 -
ハ行/ハ/長谷川町子 - 漫画家くちこみリンク&掲示板 - 漫画家くちこみリンク&掲示板
qwerハ行/ハ/長谷川町子 -
ハ行/ハ/長谷川潤 - 漫画家くちこみリンク&掲示板 - 漫画家くちこみリンク&掲示板
qwerハ行/ハ/長谷川潤 -
登場人物 - digitalmediab @ ウィキ - digitalmediab @ ウィキ
長谷川 隆志(はせがわ たかし) -
コメントログ - らんだむダンジョン-まとめwiki - らんだむダンジョン-まとめwiki
ログページ v1.02のパッチがでたようです -- (名無しさん) 2009-10-17 152513 管理者さんへ、申請の受理をおねがいしまーす。 -- (ラブゾンビ長谷川 -
長谷川 - つくろぼ@ ウィキ - つくろぼ@ ウィキ
長谷川です./br電子回路を勉強中です./brプログラムも勉強しようと思います./br -
か行/か/片瀬那奈 - アイドルお宝リンク&掲示板 - アイドルお宝リンク&掲示板
那奈のリンク2009年10月25日(日)the diary of nana katase 「夢みる歌謡曲」第那奈章: 片瀬那奈が ...2009年10月13日(火)グータンヌーボ 新 司会 に 長谷川潤 と 片瀬
