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旧聞日本橋 22 大門通り界隈一束(続旧聞日本橋・その一) - 長谷川 時雨 ( はせがわ しぐれ )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
  • 岩波文庫1675昭和41年/阿部一族他二編森鴎外 岩波書店
  • 600円~ 岩波文庫【青年】森鴎外 (プチソフト1)
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・山椒大夫  他四篇」(旺文社文庫)◇◆
  • ◆◇ 森鴎外著「青年」(新潮文庫) ◇◆  名著! 
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・うたかたの記  他三篇」(岩波文庫)◇◆
  • ◆新品DVD★『NHK 名作の風景 8』森鴎外 正岡子規 夏目漱石1円
  • 森鴎外 高瀬舟・高瀬舟縁起・寒山捨得・寒山捨得縁起 CD 未開封
  • 森鴎外 舞姫 雁 井上靖 訳編 明治の古典8 初版
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大門通り界隈一束 続旧聞日本橋・その一  あたしの古郷(ふるさと)のおとめといえば、江戸面影と、香(か)を、いくらか残した時代の、どこか歯ぎれのよさをとどめた、雨上りの、杜若(かきつばた)のような下町少女(おとめ)で、初夏になると、なんとなく思出がなつかしい。  土(つち)一升、金(かね)一升の日本橋あたりで生れたものは、さぞ自然に恵まれまいと思われもしようが、全くあたしたちは生花(きばな)の一片(ひとひら)も愛した。現今(いま)のように、ふんだんに花の店がない時分だから、一枝の花の愛(いと)しみかたも格別だった。紅梅が咲けば折って前髪に挿し、お正月松飾りの、小さい松ぼっくりさえ、松の葉にさして根がけにした。山吹の真白なじくも押出して、いちょうがえしへかけた。五月節句には菖蒲(しょうぶ)の葉を前髪に結んだり、矢羽根(やばね)に切ったのを簪(かんざし)にさしたものだった。
 新藁(しんわら)は、いきな女(ひと)の投島田(なげしまだ)ばかりに売れるのではなく、素人(しろうと)でも洗い髪を束ねたりしてよく売れた。燕(つばめ)の飛ぶ小雨の日に、「新藁、しんわら」と、はだしの男が臑(すね)に細かい泥を跳(は)ねあげて、菅笠(すげがさ)か、手ぬぐいかぶりで、駈足で、青い早苗を一束にぎって、売り声を残していった。
 水玉という草に水をうって、涼しくかけたものだが、みんな一時(いっとき)のもので、赤くひからびるまではかけていない。直(じき)にかけかえる手数はいとわなかった。一たい、平日(ふだん)から油|染(じ)んだ髪をきらっていたから、菅糸(すがいと)だって、葛引(くずひき)だって、金紗(きんしゃ)(元結(もっとい)ぐらいな長さの、金元結の柔らかい、縒(より)のよい細いようなのを、二、三十本揃えたもの。芝居傾城(けいせい)の鬘(かつら)にかけてあるのと同じ)だって、プツンと断(き)って、一ぺんかけただけだった。
 深窓(しんそう)な育ちでも、どこか女|伊達(だて)めいた気風をもって、おそろしく仁義礼智の教えを守って――姿の薄化粧のように、魂も洗おうとした。この二行ばかりの文章は、文飾のようにもとられようが、濃かれ薄かれ、そんな気持ちはたしかにあったのだ。人と、その性質は別としても、その地方色としては――

 古い日記をくりかえして見ると、父が話してくれたことが書いてあるので、此処(ここ)へ抜いて見よう。
 ――父の晩酌のとき、甥(おい)の仁坊(まさぼう)のおまつりの半纏(はんてん)のことから、山王様(さんのうさま)のお祭りのはなしが出る。仁(まさし)の両親とも日本橋生れで、亡(なく)なった母親山王様氏子(うじこ)、此家(こちら)は神田明神様の氏子、どっちにしても御祭礼(おまつり)には巾(はば)のきく氏子だというと、魚河岸から両国の際(きわ)までは山王様氏子だったのが、御維新後に、日本橋の川からこっちだけが、神田明神氏子になったのだと、老父(ちち)が教えてくれた。
 あたしたちは神田明神お宮参りをしましたが、お父さん山王様お宮参りにいったのですかときくと、そうだといわれる。
 それからそれへと古いはなしが出る。以下は老父(ちち)の昔語り――
 玄冶店(げんやだな)にいた国芳(くによし)が、豊国(とよくに)と合作で、大黒恵比寿(えびす)が角力(すもう)をとっているところを書いてくれたが、六歳(むっつ)か七歳(ななつ)だったので、何時(いつ)の間にかなくなってしまった。画会なぞに、広重(ひろしげ)も来たのを覚えている。二朱(にしゅ)もってゆくと酒と飯が出たものだった。
 国芳の家(うち)は、間口が二間、奥行五間ぐらいのせまい家で、五間の奥行のうち、前の方がすこしばかり庭になっていた。外から見えるところへ、弟子が机にむかっていて、国芳表面に坐っているのが癖だった。豊国の次ぐらいな人だったけれど、そんな暮しかただった。その時分四十位の中柄(ちゅうがら)の男で勢いの好い、職人はだで、平日(しじゅう)どてらを着ていた。おかみさんが、弟子のそばで裁縫(しごと)をしていたものだ。武者絵(むしゃえ)の元祖といってもいい人で、よく両国の万八(まんぱち)――亀清楼(かめせい)のあるところ――に画会があると、連れていってくれたものだ。
 国芳の家の二、三軒さきに、鳥居清満(とりいきよみつ)が住んでいた。
 大坂町の雷(かみなり)師匠は、冬でも表を明っぱなし、こまよせから、わざと見えるようにしてある。上(あが)り口の板敷のところに、いけない児童(こ)を空俵に入れたり、火のついた線香をもたせたりして、自分の傍には弓の折をひきよせておいて、がみがみ大声で呶鳴(どな)りちらしている。空俵へ入れるのは、これから河へ流してしまうというのだ。他のおとなしい児童(こたち)がふるえながら詫すると、それをしおに俵から出してやる。見えすいた広告法だが、厳(やかま)しい師匠にやらなければ、いけないと思っている、無学町人の親たちには、それが大層評判がよかった。
 国芳の家のそばにも手習師匠があった。私が七歳(ななつ)であったころに、四十位な年配(ねんぱい)で、小笠原浪人加賀美暁之助(かがみぎょうのすけ)という人だった。この人のほうは立派人物で、大橋流の書も佳(い)いし、絵は木挽(こびき)町の狩野(かのう)の高弟で、一僊(いっせん)といって、本丸炎上の時は、将軍居間の画を描いたりしたほど出来たし、漢学出来る、手をとって教えてもらった。撃剣もおしえた。色は黒かったが人品の好い人で、御家内(ごかない)も武家の出だから品のある女(ひと)だった。

 三馬(さんば)に逢(あ)ったことがある。そうさ、五十四、五に見えた。猿のしるしのある家で、化粧水を売っていたっけ。倉の二階住で、じんきょやみのくせに妾(めかけ)があった。子供心にも、いやな爺(じじい)だと思ったよ。
 歌川輝国(うたがわてるくに)は、宅(うち)のすぐ前にいたのさ。うまや新道――油町と小伝馬町の両方の裏通り、馬屋新道とは、小伝馬町牢屋(ろうや)から、引廻しの出るときの御用を勤めるという、特別の役をもっている荷馬の宿があったから――の小伝馬町側に住んでいた。くさ双紙(ぞうし)の、合巻(ごうかん)かきでは、江戸第一の人だったけれど、貧乏貧乏で、しまいは肺病で死んだ。やっぱり七歳(ななつ)ぐらいから絵をおしえてくれた。その時分三十五、六だったろう。豊国弟子だったから、豊国の描いたものや、古い絵だの古本だの沢山あった。


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