明治二十四、五年頃の東京文科大学選科 関連リンク

西田 幾多郎 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

明治二十四、五年頃の東京文科大学選科 - 西田 幾多郎 ( にしだ きたろう )

  • 二銭銅貨 2銭銅貨 明治13年 明治14年 明治16年 古銭
  • Ω 図録『明治天皇と明治美術の名宝』展*明治神宮*平成14年
  • 1円~ 明治貨幣 1厘銅貨3枚(明治15年×2枚、明治16年×1枚)
  • 明治大正期手彩色絵葉書【日本橋】明治44年落成
  • 美品 東京人 2005年10月 明治東京「お雇い外国人」明治建築
  • ☆純銀 明治天皇御肖像牌 明治百年記念メダル/13
  • !219  半銭 明治6年&明治7年  2枚 上品
  • ★☆竜1銭/明治10年/竜2銭/明治15年/2枚セット☆★
  • 〔初心だし〕 古銭 明治一円銀貨 明治二十銭 寛永通宝
  • LG21 ギフト券 明治プロビオヨーグルト 明治乳業 4個分
次のページ
 私共が故郷金沢から始めて東京に出た頃は、水道橋から砲兵工廠(こうしょう)辺はまだ淋しい所であった。焼鳥屋台店などがあって、人力車夫が客待をしていた。春日町辺の本郷側の※(がけ)の下には水田があって蛙が鳴いていた。本郷でも、大学の前から駒込の方へ少し行けば、もう町はずれにて、砂煙の中に多くの肥車(こえぐるま)に逢うた。
 その頃には、今の大学正門の所に粗末な木の門があった。竜岡町の方が正門であって、そこは正門ではなかったらしい。そこから入ると、すぐ今は震災で全く跡方もなくなった法文科大学建物があった。それは青山御所を建てたコンドルという英人が建てたとか、あまり大きくもない煉瓦建物であったが、当時の法文科はその一つの建物の中に納っていたのである。しかもその二階は図書室と学長室などがあって、太いズボンをつけた外山(とやま)さんが、鍵をがちゃつかしながら、よく学長室に出入せられるのを見た。法文の教室は下だけで、間に合うていたのである。当時の選科生というものは、誠にみじめなものであった。無論、学校立場からして当然のことでもあったろうが、選科生というものは非常差別待遇受けていたものであった。今いった如く、二階が図書室になっていて、その中央の大きな室が閲覧室になっていた。しかし選科生はその閲覧室で読書することがならないで、廊下に並べてあった机で読書することになっていた。三年になると、本科生は書庫の中に入って書物検索することができたが、選科生には無論そんなことは許されなかった。それから僻目(ひがめ)かも知れないが、先生訪問しても、先生によっては閾(しきい)が高いように思われた。私は少し前まで、高校で一緒にいた同窓生と、忽ちかけ離れた待遇の下に置かれるようになったので、少からず感傷的な私の心を傷つけられた。三年の間を、隅の方に小さくなって過した。しかしまた一方には何事にも促らわれず、自由自分の好む勉強ができるので、内に自ら楽むものがあった。超然として自ら矜持(きんじ)する所のものを有(も)っていた。私の頃は高校ではドイツ語を少ししかやらなかったので、最初の一年は主として英語注釈の附いたドイツ文学の書を読んだ。
 その頃の哲学科は、井上哲次郎先生も一両年前に帰られ、元良、中嶋先生も漸く教授となられたので、日本人教授が揃うたのだが、主としてルードヴィヒ・ブッセが哲学講義をしていた。この人はその頃まだ三十そこらの年輩の人であった。ベルリンでロッチェの晩年講義を聞いたとかいうので、全くロッチェ学派であった。哲学概論といっても、ロッチェ哲学の梗概に過ぎなかった。その頃ドイツ人でも英語講義した。中々元気のよい講義をする人で、調子附いて来ると、いつの間にか、英語発音ドイツ語的となって、ゲネラチョーン・アフタ・ゲネラチョーン*1などとなった。こういう外人教師と共に、まだ島田重礼先生というような漢学の大儒(たいじゅ)がおられた。先生は教壇に上り、腰から煙草入を取り出し、徐(おもむろ)に一服ふかして、それから講義を始められることなどもあった。私共の三年の時に、ケーベル先生が来られた。先生はその頃もう四十を越えておられ、一見哲学者らしく、前任者とコントラストであった。最初にショーペンハウエルについて何か講義せられたように記憶している。この先生講義はブッセ教授と異って机に坐ったままで低声で話された。ケーベルさんは始めて日本へ来て、日本学生古典語を知らないで哲学学ぶということが、如何にも浅薄に感ぜられたらしい。私が或日先生訪問してアウグスチヌス近代語訳がないかとお聞きしたところ、先生はお前はなぜ古典語を学ばないかといわれた。私は日本人として古典語を学ぶのは中々困難であると申上げると、それでもお前と同クラスの岩元君はギリシャ語読むではないかとのことであった。You must read Latin at least. *2といわれた。しかしまた先生は時に手ずから煙草をすすめられ、私は(当時)煙草を吸いませぬと申上げると、先生は Philosoph muss rauchen. *3とからかわれた。
 当時の哲学科の学生には、私共の上のクラスには、両松本米山保三郎などいう秀才がおり、二年後のクラスには桑木巌翼君をはじめ姉崎高山などいわゆる二十九年の天才組がいた。有名夏目漱石君は一年上の英文学にいたが、フローレンツの時間で一緒に『ヘルマン・ウント・ドロテーア』を読んでいたように覚えている。私共のクラスでは、大島義脩君が首席であった。しかしそれでも後に独特の存在となられたのは、近年亡くなられた岩本禎君であったと思う。同君は上にいったように、その頃からギリシャ語を始められ、いつも閲覧室で字引を引いて、少しずつソクラテス以前の哲学者のものを読んでおられたようであった。あの人は何処かケーベルさんと似た所があった。私は岩元君とは明治二十七年卒業以来、逢う機会がなかった。私の頭には、痩せた屈(かが)み腰の学生服を着た岩元君をしか想像することはできない。私は始終鎌倉に来るようになってから、一度同君を尋ねて見たいと思っていた。しかし今度こそはと思いながら、無精な私はいつも奮発できなかった。その中(うち)、同君の逝去せられたのを聞いて残念に堪えない。新聞によれば、何千人かの会葬者があったらしい。


次のページ

西田 幾多郎 (にしだ きたろう) 以外のオススメ作品

明治二十四、五年頃の東京文科大学選科 (めいじにじゅうし、ごねんころのとうきょうぶんかだいがくせんか) のリンク元

「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科-西田 幾多郎」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN