映画と癩の問題 - 伊丹 万作 ( いたみ まんさく )
数年来、映画をまったく見ていない私は、作品としての映画を批評する資格を持たない。したがって私は、映画「小島の春」を批評することはできないが、癩というものが、あのような仕方で映画にされ、あのような方法で興行されたという事実に対してはいまだに深い疑問をいだいている。そしてこの疑問はいまだに疑問のままで心の隅にわだかまっており容易に解けようとしない。そこで次にほぼ疑問の形においてこれらの問題を提出しておきたいと思う。
私の郷里は四国であって比較的癩患者の多い地方である。そしてその大部分は浮游癩というか、四国遍路ないしは乞食となって仏蹟を浮浪してまわっているのが多い。したがって私は幼時から癩を意識したり癩者を見たりする機会が多かった。たとえば――
少年の一日、私は仲間とともに遠足に出かけた。三坂峠という山地へかかる際の石の地蔵さまのあるところで休憩を取った。
私は地蔵さまにもたれ、そこらいっぱいに咲き乱れた卯の花を眺めながら片手で無意識に石地蔵の肌をなでていた。すると、それを見た意地のわるい仲間の一人が私にいった。
「おい、ここは遍路の休むところじゃろうが。その地蔵も何べんどす(癩)になでられたかわからんぞ。もうお前にはどすがうつったはずじゃ。どすは空気伝染じゃぞ。」
私はあおくなってそこの小川で手を洗うやら一人で大騒ぎをやったが、このときの救われない恐怖と不安はいまだに忘れることができない。
私の生れた町の側に石手川という川があり、ここの堤防にはよく癩患者が野宿をしていた。
あるとき私はこの堤防の道幅の狭いところを歩いていると、乞食らしい男が、すっかり道を遮断して寝転んでいた。近づくままに顔を見るとそれはもう末期にちかい癩患者で、眼も鼻も毛髪もまったくなく、口と鼻腔だけが無気味な闇黒をのぞかせていた。顔の色はところによって勝手に変色したり褪色したような感じで、部分的な変化が多く、一貫した主色というものが感ぜられなかったが、だいたいの感じは真珠貝の裏に似ており、紫や桜色にテラテラと輝いて見えた。そして全体が火傷(やけど)のあとのように引きつって見え、顔というよりも、むしろ何か極めて薄い膜を根気よく張り重ねてこしらえた不規則な形の箱のような感じがした。
私は、ちらと見た瞬間、それらのことを感じると、今度は反射的に息をころしながら、道端の草の茂みの中へ踏み込んでそこを通り抜け、駆け出さんばかりにしてそこを遠ざかった。
また、八十八カ所の霊場である石手寺の参道には両側ともびっしりと乞食が坐っていたが、その大半は癩者であった。彼らが参詣人から与えられる小額の銅貨を受け取るため、絶えず前に突き出している手にはほとんど五指がなかった。我々はそれを見るのがいやさに、この参道を駆け抜けるのが常であったが、あとで生姜(しょうが)を見るたびによくその手を思い出した。そして石手という地名は我々の間ではしばしば癩の隠語として用いられるようになった。
このような環境に育った我々が、ややもの心がついてくるにしたがって、いやおうなしに癩の運命について考えさせられたことは少しも不思議ではない。そればかりでなく、我々が人生について、宗教について、恋愛について考え始めると、癩はいつも思考の隙間隙間へ忍び込んで、だまって首を振っているようになった。そして癩は機会のあるごとに我々の耳へ口を寄せ、こういってささやく。「おれを肯定しないで人生を肯定したって、そんなのはうそっぱちだよ」と。
かくて、いまや我々は癩というものを単なる肉体の病気の一種としてのみ理解しているのではない。むしろ人生における、最も深刻なる、最も救いのない不幸の象徴として理解しているのである。
どんな不幸な人をつれてきても、「まア癩病のことを思えばいいじゃありませんか。」という慰めの言葉が残っている。しかし、癩病の人に何といったらいいか。上を見ればきりがない、下を見なさいと人はいうが癩者にとってはその下がないのだ。まことに、これこそ人生のどんづまりである。すなわち癩の問題に触れることは「人生の底」に触れる意味を持つ。
さて、一応以上の意味を了解したうえで、ここに一つの疑問を提出してみたい。つまり、芸術家として、癩を扱いながら、しかも人生の底に触れることは、なるべくこれを避けようとする態度は正しいことであるかどうか。
次に、芸術家の好むと好まざるとにかかわらず、映画というものは、その持ちまえの表現形式があまりにも具体的でありすぎるため、癩者の現実を直接かつ率直に描写することは最初からまったく許されない運命にある。すなわち癩のあらわれとしての最もシリアスで、同時に最も本質的な面は当然これを忌避しなければならぬことになる。
これをいいかえるならば、癩を扱う場合、映画は、自己の表現能力の特質を、すなわち、具体的表現という、自慢の武器を使用することをやめなければならぬ。しかるに、映画的題材とは、映画の表現能力を、力いっぱい出しきれるような対象の謂(いい)でなければならぬ。
最初から映画的表現を封じられ、はらはらしながら、そこをよけて通らなければならないような題材をえらぶこと、いいかえれば映画作家として映画的表現に適しないものを取り上げることがなぜ良心的なのであろうか。そして、それがなぜ企画の勝利といわれるのであろうか。
映画「小島の春」が抒情的で美しいということはいったい何を意味するのだろう。叙情的で美しい絵を作ることが最初からの目的であるなら、何を苦しんで癩のような材料を選ばなければならないか。それはおよそ目的からは一番遠い材料ではないのだろうか。
映画「小島の春」を見て泣いたという人が多い。
私の郷里は四国であって比較的癩患者の多い地方である。そしてその大部分は浮游癩というか、四国遍路ないしは乞食となって仏蹟を浮浪してまわっているのが多い。したがって私は幼時から癩を意識したり癩者を見たりする機会が多かった。たとえば――
少年の一日、私は仲間とともに遠足に出かけた。三坂峠という山地へかかる際の石の地蔵さまのあるところで休憩を取った。
私は地蔵さまにもたれ、そこらいっぱいに咲き乱れた卯の花を眺めながら片手で無意識に石地蔵の肌をなでていた。すると、それを見た意地のわるい仲間の一人が私にいった。
「おい、ここは遍路の休むところじゃろうが。その地蔵も何べんどす(癩)になでられたかわからんぞ。もうお前にはどすがうつったはずじゃ。どすは空気伝染じゃぞ。」
私はあおくなってそこの小川で手を洗うやら一人で大騒ぎをやったが、このときの救われない恐怖と不安はいまだに忘れることができない。
私の生れた町の側に石手川という川があり、ここの堤防にはよく癩患者が野宿をしていた。
あるとき私はこの堤防の道幅の狭いところを歩いていると、乞食らしい男が、すっかり道を遮断して寝転んでいた。近づくままに顔を見るとそれはもう末期にちかい癩患者で、眼も鼻も毛髪もまったくなく、口と鼻腔だけが無気味な闇黒をのぞかせていた。顔の色はところによって勝手に変色したり褪色したような感じで、部分的な変化が多く、一貫した主色というものが感ぜられなかったが、だいたいの感じは真珠貝の裏に似ており、紫や桜色にテラテラと輝いて見えた。そして全体が火傷(やけど)のあとのように引きつって見え、顔というよりも、むしろ何か極めて薄い膜を根気よく張り重ねてこしらえた不規則な形の箱のような感じがした。
私は、ちらと見た瞬間、それらのことを感じると、今度は反射的に息をころしながら、道端の草の茂みの中へ踏み込んでそこを通り抜け、駆け出さんばかりにしてそこを遠ざかった。
また、八十八カ所の霊場である石手寺の参道には両側ともびっしりと乞食が坐っていたが、その大半は癩者であった。彼らが参詣人から与えられる小額の銅貨を受け取るため、絶えず前に突き出している手にはほとんど五指がなかった。我々はそれを見るのがいやさに、この参道を駆け抜けるのが常であったが、あとで生姜(しょうが)を見るたびによくその手を思い出した。そして石手という地名は我々の間ではしばしば癩の隠語として用いられるようになった。
このような環境に育った我々が、ややもの心がついてくるにしたがって、いやおうなしに癩の運命について考えさせられたことは少しも不思議ではない。そればかりでなく、我々が人生について、宗教について、恋愛について考え始めると、癩はいつも思考の隙間隙間へ忍び込んで、だまって首を振っているようになった。そして癩は機会のあるごとに我々の耳へ口を寄せ、こういってささやく。「おれを肯定しないで人生を肯定したって、そんなのはうそっぱちだよ」と。
かくて、いまや我々は癩というものを単なる肉体の病気の一種としてのみ理解しているのではない。むしろ人生における、最も深刻なる、最も救いのない不幸の象徴として理解しているのである。
どんな不幸な人をつれてきても、「まア癩病のことを思えばいいじゃありませんか。」という慰めの言葉が残っている。しかし、癩病の人に何といったらいいか。上を見ればきりがない、下を見なさいと人はいうが癩者にとってはその下がないのだ。まことに、これこそ人生のどんづまりである。すなわち癩の問題に触れることは「人生の底」に触れる意味を持つ。
さて、一応以上の意味を了解したうえで、ここに一つの疑問を提出してみたい。つまり、芸術家として、癩を扱いながら、しかも人生の底に触れることは、なるべくこれを避けようとする態度は正しいことであるかどうか。
次に、芸術家の好むと好まざるとにかかわらず、映画というものは、その持ちまえの表現形式があまりにも具体的でありすぎるため、癩者の現実を直接かつ率直に描写することは最初からまったく許されない運命にある。すなわち癩のあらわれとしての最もシリアスで、同時に最も本質的な面は当然これを忌避しなければならぬことになる。
これをいいかえるならば、癩を扱う場合、映画は、自己の表現能力の特質を、すなわち、具体的表現という、自慢の武器を使用することをやめなければならぬ。しかるに、映画的題材とは、映画の表現能力を、力いっぱい出しきれるような対象の謂(いい)でなければならぬ。
最初から映画的表現を封じられ、はらはらしながら、そこをよけて通らなければならないような題材をえらぶこと、いいかえれば映画作家として映画的表現に適しないものを取り上げることがなぜ良心的なのであろうか。そして、それがなぜ企画の勝利といわれるのであろうか。
映画「小島の春」が抒情的で美しいということはいったい何を意味するのだろう。叙情的で美しい絵を作ることが最初からの目的であるなら、何を苦しんで癩のような材料を選ばなければならないか。それはおよそ目的からは一番遠い材料ではないのだろうか。
映画「小島の春」を見て泣いたという人が多い。
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