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映画芸術 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

  • 古い雑誌【映画芸術研究 11集 第3年第1集】1935 ルネ・クレエル
  • 映画芸術 1970.8
  • 映画芸術  №236 1967年5月号 シナリオ 性の起源
  • 映画雑誌《映画芸術№389/2000年春号》追悼:宮川一夫
  • 映画芸術 357-384号('89-'98)全28冊揃/ベスト・ワーストテン
  • 松田優作AGAIN●表紙&大特集265P●映画芸術別冊385号
  • 映画芸術 1968年8月号 シナリオ=質屋/華麗なる賭け
  • 「映画芸術 15冊 」
  • 映画芸術、映画批評、季刊フィルム/6冊/1970~73/三島由紀夫
  • 映画芸術 戦後十五年の映画 昭和35年6月 芥川比呂志
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     緒言  映画はその制作使用目的によっていろいろに分類される。教育映画宣伝映画ニュース映画などの名称があり、またこれらのおのおのの中でもいろいろな細かな分類ができる。しかしこれらの特殊な目的で作られた映画でも、それが広義における芸術価値のないものであれば、それは決してその目的を達することができない。そういう意味においてすべての種類の映画制作はやはり広義における映画芸術領域に属するものと思われるから、ここではそういう便宜上種別を無視して概括的に考えることにする。
 映画芸術科学との結婚によって生まれた麒麟児(きりんじ)である。それで映画を論ずる場合映画技術に関する科学的の基礎と、その主要なテクニークについて一通りの解説をするのが順序であるが、この一編の限られた紙数の中にこれを述べている余地がないから、ここではいっさいこれらを省略する。しかし大多数の読者がこの点について一通り予備知識備えているものと仮定してもおそらくたいした不都合はあるまいと思う。
 ついでながら、自分のような門外漢がこの講座のこの特殊項目に筆を染めるという僣越(せんえつ)をあえてするに至った因縁について一言しておきたいと思う。元来映画芸術はまだ生まれてまもないものであってその可能性については、従来相当に多数な文献があるにもかかわらず、まだ無限に多くのものが隠され拾い残されているであろうと思われる。従って、かえってそういう文献などに精通しない門外漢の幼稚(ナイヴ)な考察の中からいくらかでも役に立つような若干の暗示が生まれうるプロバビリティーがあるかもしれないと思われる。また一方で自分は、従来自分の目にふれたわが国での映画芸術論には往々日本人ばなれのしたものが多いようであって、日本の歴史国民性を通して見た映画理論考察割合に少ないように思われるのを遺憾としていた。それで、もし多少でもそういう方面からの研究の端緒ともなるべきものに触れることができればしあわせだと思ったのである。
 もう一つ断わっておく必要のあるのは、発声映画問題である。始めから発声映画を取って考えるのと、無声映画時代というものを経て来た後に現われた発声映画を考えるのとでは、考え方によほどな隔たりがある。しかしここでは実際の歴史に従ってまず無声映画を考えた後に、改めて別に発声映画問題に立ち入りたいと思う。
 なお映画に関しては経済学上からまた社会学上から見たいろいろな問題がある。しかもそれらの問題は必ずしも映画芸術上の問題と切り離して考えることができないものである。しかしこれらの重要な点にもここでは立ち入るべき余裕もなく、またそれはおそらく自分の任でもないから、全然省略して触れないことにする。これは遺憾ながらやむを得ない次第である。これについてはベーロ・ボラージュの「映画精神」(〔Be'la Bala'zs : Der Geist des Films, 1930〕)を読むことをすすめたい。自分はこの書とプドーフキンの有名な「フィルムテクニーク」との二つから最も多くを教えられたものである。

     映画芸術の特異性

 芸術としての映画が他のいろいろの芸術に対していかなる特異性をもっているかを考えてみよう。
 大概の芸術人類黎明(れいめい)時代にその原型(プロトタイプ)をもっている。文学文字発明以前から語りものとして伝わり、絵画彫刻は洞壁(どうへき)や発掘物の表面に跡をとどめている。音楽舞踊はいかなる野蛮民族の間にも現存する。建築演劇でも、いずれもかなりな灰色の昔にまでその発達の径路をさかのぼる事ができるであろう。マグダレニアンの壁画シャバンヌ壁画の間の距離はいかに大きくとも、それはただ一筋の道を長くたどって来た旅路の果ての必然の到達点であるとも言われなくはない。ダホメー音楽ベートーヴェン第九シンフォニーとの比較でもそうである。
 映画についてはどうであるか。たとえば昔からわが国でも座興として行なわれる影人形や、もっと進んでハワイの影絵芝居のようなものも、それが光と影との遊戯であるというだけでは共通な点がなくはない。またたとえばわが国古来の絵巻物のようなものも、視覚的影像の連続系列であるという点では似た要素をもっていないとは言われない。それからまた、眼底網膜の視像の持続性(パーシステンス)を利用するという点ではゾートロープやソーマトロープのようなおもちゃと似た点もあるが、しかしこれらのものと現在映画――無声映画だけ考えても――との間の差別は単なる進化段階の差だけでなくてかなり本質的な差であると考えられる。少なくもラジオやテレヴィジョンが昔は無かったというのと同じ意味映画というものは昔は決して無かった新しいものであるということができよう。なんとなれば現代の精密科学本質的に昔の自然哲学とちがった要素をもっているからである。そういう全く新しい科学機械的の技術が在来の芸術いつのまに自由結婚をしてその結果生まれた私生児がすなわち今日映画芸術である。それが私生児であるがために始めのうちは、父親芸術世界でこれを自分子供として認知する、しないの問題も起こったのである。しかし今ではこれを立派嫡子として認めない人はおそらくないであろう。
 オペラが総合芸術だと言われた時代があった。しかし今日において最も総合的な芸術映画芸術である。絵画彫刻建築空間的であるが時間的でなく、音楽時間的であるが空間的でない。舞踊演劇楽劇空間的で同時に時間的であるという点では映画と同様である。しからばこれらの在来の時空四次元芸術映画といかなる点でいかに相違するかという問題が起こって来る。
 まず最も分明な差別はこれらの視覚的対象と観客との相対位置に関する空間関係差別である。舞踊や劇は一定容積舞台の上で演ぜられ、観客自分の席に縛り付けられて見物している。従ってその視野と視角は固定してしまっている。しかし映画では第一その舞台が室内にでも戸外にでも海上にでも砂漠(さばく)にでも自由に選ばれる。そうしてカメラの対物鏡は観客の目の代理者となって自由自在空間中を移動し、任意距離から任意な視角で、なおその上に任意視野の広さの制限を加えて対象を観察しこれを再現する。従って観客はもはや傍観者ではなくてみずからその場面の中に侵入し没入して演技者の一人になってしまうのである。それで、おもしろいことには、劇や舞踊現象自身は三次元空間的であるにかかわらず、観客位置固定しているためにその視像は実に二次元的な投射像に過ぎない。これに反して映画のほうでは、スクリーンの上の光像はまさしく二次元平面であるにかかわらず、カメラの目が三次元的に移動しているために、観客の目はカメラの目を獲得することによってかえってほんとうに三次元的な空間現象観察することができる、という逆説的な結果を生じるのである。


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