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春昼 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )

  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 12』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 1』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 ★ 豪華版 日本現代文学全集 泉鏡花集 ★ 講談社
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 6』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 『泉鏡花集』 限定版 恩地孝四郎装幀 著者落款入 函
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 5』 (ちくま文庫)
  • 古書「名著複刻全集 日本橋 泉鏡花」
  • 日本幻想文学集成 1 泉鏡花 須永朝彦編 梅木英治
  • 図録★番町の家・慶応義塾図書館所蔵泉鏡花遺品展★09年
  • 泉鏡花賞受賞 柳美里「フルハウス」初版
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       一 「お爺(じい)さん、お爺さん。」 「はあ、私(わし)けえ。」
 と、一言(ひとこと)で直(す)ぐ応じたのも、四辺(あたり)が静かで他(た)には誰もいなかった所為(せい)であろう。そうでないと、その皺(しわ)だらけな額(ひたい)に、顱巻(はちまき)を緩(ゆる)くしたのに、ほかほかと春の日がさして、とろりと酔ったような顔色(がんしょく)で、長閑(のど)かに鍬(くわ)を使う様子が――あのまたその下の柔(やわらか)な土に、しっとりと汗ばみそうな、散りこぼれたら紅(くれない)の夕陽の中に、ひらひらと入(はい)って行(ゆ)きそうな――暖(あたたか)い桃(もも)の花を、燃え立つばかり揺(ゆす)ぶって頻(しきり)に囀(さえず)っている鳥の音(ね)こそ、何か話をするように聞こうけれども、人の声を耳にして、それが自分を呼ぶのだとは、急に心付(こころづ)きそうもない、恍惚(うっとり)とした形であった。
 こっちもこっちで、かくたちどころに返答されると思ったら、声を懸(か)けるのじゃなかったかも知れぬ。
 何為(なぜ)なら、さて更(あらた)めて言うことが些(ち)と取(と)り留(と)めのない次第なので。本来ならこの散策子(さんさくし)が、そのぶらぶら歩行(あるき)の手すさびに、近頃|買求(かいもと)めた安直(あんちょく)な杖(ステッキ)を、真直(まっすぐ)に路(みち)に立てて、鎌倉(かまくら)の方へ倒れたら爺(じい)を呼ぼう、逗子(ずし)の方へ寝たら黙って置こう、とそれでも事は済(す)んだのである。
 多分(たぶん)は聞えまい、聞えなければ、そのまま通り過ぎる分(ぶん)。余計な世話だけれども、黙(だまり)きりも些(ちっ)と気になった処(ところ)。響(ひびき)の応ずるが如きその、(はあ、私(わし)けえ)には、聊(いささ)か不意を打たれた仕誼(しぎ)。
「ああ、お爺さん。」
 と低い四目垣(よつめがき)へ一足(ひとあし)寄ると、ゆっくりと腰をのして、背後(うしろ)へよいとこさと反(そ)るように伸びた。親仁(おやじ)との間は、隔てる草も別になかった。三筋(みすじ)ばかり耕(たが)やされた土が、勢込(いきおいこ)んで、むくむくと湧(わ)き立つような快活な香(におい)を籠(こ)めて、しかも寂寞(せきばく)とあるのみで。勿論(もちろん)、根を抜かれた、肥料(こやし)になる、青々(あおあお)と粉(こな)を吹いたそら豆の芽生(めばえ)に交(まじ)って、紫雲英(れんげそう)もちらほら見えたけれども。
 鳥打(とりうち)に手をかけて、
「つかんことを聞くがね、お前さんは何(なん)じゃないかい、この、其処(そこ)の角屋敷(かどやしき)の内(うち)の人じゃないかい。」
 親仁(おやじ)はのそりと向直(むきなお)って、皺(しわ)だらけの顔に一杯の日当り、桃の花に影がさしたその色に対して、打向(うちむか)うその方(ほう)の屋根の甍(いらか)は、白昼|青麦(あおむぎ)を※(あぶ)る空に高い。
「あの家(うち)のかね。」
「その二階のさ。」
「いんえ、違います。」
 と、いうことは素気(そっけ)ないが、話を振切(ふりき)るつもりではなさそうで、肩を一(ひと)ツ揺(ゆす)りながら、鍬(くわ)の柄(え)を返して地(つち)についてこっちの顔を見た。
「そうかい、いや、お邪魔をしたね、」
 これを機(しお)に、分れようとすると、片手で顱巻(はちまき)を※(かなぐ)り取って、
「どうしまして、邪魔も何もござりましねえ。はい、お前様(まえさま)、何か尋(たず)ねごとさっしゃるかね。彼処(あすこ)の家(うち)は表門(おもてもん)さ閉(しま)っておりませども、貸家(かしや)ではねえが……」
 その手拭(てぬぐい)を、裾(すそ)と一緒に、下からつまみ上げるように帯へ挟(はさ)んで、指を腰の両提(ふたつさ)げに突込(つきこ)んだ。これでは直ぐにも通れない。
「何ね、詰(つま)らん事さ。」
「はいい?」
お爺さんが彼家(あすこ)の人ならそう言って行(ゆ)こうと思って、別に貸家を捜しているわけではないのだよ。奥の方で少(わか)い婦人(おんな)の声がしたもの、空家でないのは分ってるが、」
「そうかね、女中衆(じょちゅうしゅう)も二人ばッかいるだから、」
「その女中衆についてさ。私(わたし)がね、今|彼処(あすこ)の横手をこの路へかかって来ると、溝の石垣の処(ところ)を、ずるずるっと這(は)ってね、一匹いたのさ――長いのが。」

       二

 怪訝(けげん)な眉を臆面(おくめん)なく日に這(は)わせて、親仁(おやじ)、煙草入(たばこいれ)をふらふら。
「へい、」
余り好物(こうぶつ)な方(ほう)じゃないからね、実は、」
 と言って、笑いながら、
「その癖(くせ)恐(こわ)いもの見たさに立留(たちど)まって見ていると、何(なん)じゃないか、やがて半分ばかり垣根へ入って、尾を水の中へばたりと落して、鎌首(かまくび)を、あの羽目板(はめいた)へ入れたろうじゃないか。羽目(はめ)の中は、見た処(ところ)湯殿(ゆどの)らしい。それとも台所かも知れないが、何しろ、内(うち)にゃ少(わか)い女たちの声がするから、どんな事で吃驚(びっくり)しまいものでもない、と思います。
 あれッきり、座敷へなり、納戸(なんど)へなりのたくり込めば、一も二もありゃしない。それまでというもんだけれど、何処(どこ)か板(いた)の間(ま)にとぐろでも巻いている処へ、うっかり出会(でっくわ)したら難儀(なんぎ)だろう。
 どの道(みち)余計なことだけれど、お前さんを見かけたから、つい其処(そこ)だし、彼処(あそこ)の内(うち)の人だったら、ちょいと心づけて行(ゆ)こうと思ってさ。何ね、此処(ここ)らじゃ、蛇なんか何でもないのかも知れないけれど、」
「はあ、青大将(あおだいしょう)かね。」
 といいながら、大きな口をあけて、奥底(おくそこ)もなく長閑(のどか)な日の舌に染(し)むかと笑いかけた。
「何でもなかあねえだよ。彼処(あすこ)さ東京の人だからね。この間(あいだ)も一件(いっけん)もので大騒ぎをしたでがす。行って見て進(しん)ぜますべい。疾(と)うに、はい、何処(どっ)かずらかったも知んねえけれど、台所の衆とは心安(こころやす)うするでがすから、」
「じゃあ、そうして上げなさい。しかし心ない邪魔をしたね。」
「なあに、お前様、どうせ日は永(なげ)えでがす。はあ、お静かにござらっせえまし。」
 こうして人間同士がお静かに分れた頃には、一件はソレ竜(りゅう)の如きもの歟(か)、凡慮(ぼんりょ)の及ぶ処(ところ)でない。
 散策子は踵(くびす)を廻(めぐ)らして、それから、きりきりはたり、きりきりはたりと、鶏(にわとり)が羽(は)うつような梭(おさ)の音(おと)を慕(した)う如く、向う側の垣根に添うて、二本(ふたもと)の桃の下を通って、三軒の田舎屋(いなかや)の前を過ぎる間(あいだ)に、十八、九のと、三十(みそじ)ばかりなのと、機(はた)を織る婦人の姿を二人見た。
 その少(わか)い方は、納戸(なんど)の破障子(やぶれしょうじ)を半開(はんびら)きにして、姉(ねえ)さん冠(かぶり)の横顔を見た時、腕(かいな)白く梭(おさ)を投げた。その年取った方は、前庭(まえにわ)の乾いた土に筵(むしろ)を敷いて、背(うしろ)むきに機台(はただい)に腰かけたが、トンと足をあげると、ゆるくキリキリと鳴ったのである。


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