春 - 豊島 与志雄 ( とよしま よしお )
五月初旬の夜です。或るカフェーの隅っこで、髪の毛の長い痩せた二人の男が酒をのんでいました。一人は専門の小説家で、一人は専門の文芸批評家です。小説家の方は、これから取掛ろうとする創作に思い悩んでいるし、批評家の方は、面白い批評の材料はないものかと考え悩んでいる、そういった気持から、街路で出逢ったのが別れ難くなり、カフェーにはいってお茶でも一杯飲むつもりなのが、場所柄にもなくつい酒となったような有様です。
で、二人はそこで、豆をかじりながら酒を飲んでいました。そして話は次第に専門の事柄に落ちていきました。女中はつまらなそうに向うへ遠のきました。他に客の少ない半端な時間でした。二人は落付いてゆっくり話すことが出来ました。咲き後れた葉桜の大きな一枝が、横手の卓子にぽつねんとしていました。
「早速書かなくちゃならないものが一つあるんだけれど、どうもうまくまとまらなくて困ってる。」と小説家は云い出しました。
「ほう。」と批評家は眼を光らしました。
そして専門は専門だけに、小説家がその考えてる小説の話をし、批評家がそれを聞いてやることとなりました。
ところで、その小説というのは、小説家が或る青年からじかに聞いた話でした。そして小説家の頭の中で、三つの要点に別たれていました。――一、彼は蒼ざめていた。二、彼は窓際に坐っていた。三、彼は彼女に接吻した。――三から先がまだあるのですが、そこが小説家にはどうもまとまりかねたのです。
「では始めから順々に話してみ給いよ。」と批評家は云いました。
「うむ聞いてくれよ。」
そこで小説家は、「彼は蒼ざめていた」を話し初めました。
和田弁太郎は次第に蒼ざめていった。顔色ばかりではなく全体が蒼ざめていった。昼間もそうであるが、殊に夜はひどかった。
板と硝子とで密閉されてる室の中に、六人の青年が眠るのである――規定では夜十時から午前六時まで。
春の夜の屋内の空気は、それ自身既になま温い。昼間吸いこまれた日光の余温と、垢や脂にむれてる布団のいきれと、無数に立迷ってる肉眼的なまた顕微鏡的な埃。その中に、六人の男が密閉されて、八時間眠るのである。八時間――四百八十分――六人。血気盛んな肉体の汚気が、約一万回排出される。
むーっとして、重々しく濁り淀んでいる。
そういう寝室が二階に三つ並んでいる。和田弁太郎のは、不幸にもその真中の室である。だから、彼が夜中に、夢現(ゆめうつつ)の熱っぽい気持で、ふっと眼を覚すと、その寝室の不潔な鬱陶しい蒸部屋の感じが、壁越しに左右へ伸び拡がり、或る巨大な重苦しさとなって、彼の上へのしかかってくる。そして彼は眠れなくなる。幾度も寝返りをする。がどちらを向いても、すぐそこに、手を伸せば届くところに、仲間の男が寝ている。
二百何十里かの遠い郷里から、身体と一緒にその寄宿舎に運ばれて、一度も洗濯されたことのない布団である。いくら日に干しても湿っぽく汚れている。その襟から、喉仏を露わにぬっと首がのびて、首の先の固い重い大きな頭が、枕にずっしりとのっかっている。触れたら汗か脂かでねちねちしそうな額に、毛髪が縮れ絡んでいる。布団を被っていたのが、息苦しいために伸び出たものらしい。だがいくら伸び出ても、密閉された寝室の中はやはり息苦しい。多分の血液を湛えている皮膚には、面皰(にきび)や薄痣や雀斑などが浮上っている。黄色い歯並の覗き出してる半開の口、ぽかんとした空洞な鼻孔、そこからすーっすーっと、時々ぐるぐるっと、息が通っている。
そういうのが一室に六つ、窓際から廊下の扉の方へ、横に三つずつ二列になって、ぎっしりつまっているのである。
で、二人はそこで、豆をかじりながら酒を飲んでいました。そして話は次第に専門の事柄に落ちていきました。女中はつまらなそうに向うへ遠のきました。他に客の少ない半端な時間でした。二人は落付いてゆっくり話すことが出来ました。咲き後れた葉桜の大きな一枝が、横手の卓子にぽつねんとしていました。
「早速書かなくちゃならないものが一つあるんだけれど、どうもうまくまとまらなくて困ってる。」と小説家は云い出しました。
「ほう。」と批評家は眼を光らしました。
そして専門は専門だけに、小説家がその考えてる小説の話をし、批評家がそれを聞いてやることとなりました。
ところで、その小説というのは、小説家が或る青年からじかに聞いた話でした。そして小説家の頭の中で、三つの要点に別たれていました。――一、彼は蒼ざめていた。二、彼は窓際に坐っていた。三、彼は彼女に接吻した。――三から先がまだあるのですが、そこが小説家にはどうもまとまりかねたのです。
「では始めから順々に話してみ給いよ。」と批評家は云いました。
「うむ聞いてくれよ。」
そこで小説家は、「彼は蒼ざめていた」を話し初めました。
和田弁太郎は次第に蒼ざめていった。顔色ばかりではなく全体が蒼ざめていった。昼間もそうであるが、殊に夜はひどかった。
板と硝子とで密閉されてる室の中に、六人の青年が眠るのである――規定では夜十時から午前六時まで。
春の夜の屋内の空気は、それ自身既になま温い。昼間吸いこまれた日光の余温と、垢や脂にむれてる布団のいきれと、無数に立迷ってる肉眼的なまた顕微鏡的な埃。その中に、六人の男が密閉されて、八時間眠るのである。八時間――四百八十分――六人。血気盛んな肉体の汚気が、約一万回排出される。
むーっとして、重々しく濁り淀んでいる。
そういう寝室が二階に三つ並んでいる。和田弁太郎のは、不幸にもその真中の室である。だから、彼が夜中に、夢現(ゆめうつつ)の熱っぽい気持で、ふっと眼を覚すと、その寝室の不潔な鬱陶しい蒸部屋の感じが、壁越しに左右へ伸び拡がり、或る巨大な重苦しさとなって、彼の上へのしかかってくる。そして彼は眠れなくなる。幾度も寝返りをする。がどちらを向いても、すぐそこに、手を伸せば届くところに、仲間の男が寝ている。
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