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時と永遠 - 波多野 精一 ( はたの せいいち )

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     亡き妻の記念に      序  の問題は古今を通じて哲學及び宗教の最も重大なる關心事に屬する。それはまた最も困難なる問題の一である。本書は舊著『宗教哲學』において展開されたる解決の試みに基づき、それの敷衍擴充を企圖したものである。尤もここかしこ修正にをはつた處もある。この問題は哲學と宗教とが互の敬意と理解とをもつて相接近することによつてのみ解決されるといふことは著者のかねてより信ずる所である。外面的方便的なる利用借用又は盲從や迎合などを意味する接近は、いつも行はれがちの事ではあるが、双方の品位を損ね純潔を汚すものとして、遠ざくべきである。本書は哲學の立場に立つたゆゑ勢ひ宗教哲學の觀點を取つた。
 本書に使用した術語今日學界における慣例に從ひ異を樹てることは力めて避けたが、止むを得ずただ一つの例外を殘した。それは「將來」と「未來」との兩語に關するものである。それらは通常大體において同義語として使用されるが、今日の學界は、おほかた長き過去を有する習慣の惰性によつてであらうが、「未來」に對して偏愛の念を抱くらしく、計畫や希望の如き積極的態度に對應する場合にさへ、この語を用ゐる傾きがある。これは自ら省るべきことである。立入つた論述は本文(二節、四三節)に讓るが、兩者は少數の場合ながら實質においても必ずしも一致せず、一致する多數の場合においても、「將來」は單純に積極的に事柄の根源的意義を言ひ表はすものとして優先權を要求する。來らむとしてしかも未だ來らぬといふのが「未來」である。派生現象といふべきである。言語上の表現に徴するも、將來は簡單に動詞の一變化によつて言ひ表はされうるが、「未來」の場合には副詞が特に添へられねばならぬ。それ故本書はあらゆる場合に通ずる總稱として「將來」を採用した。

   昭和十八年一月
著者


    目次

第一章 自然時間
第二章 文化及び文化時間
  一 文化
  二 活動と觀想
  三 文化時間
第三章 客觀的時間
第四章 死
第五章 不死性と無終極性
第六章 無時間
第七章 永遠性と愛
  一 エロースアガペー
  二 神聖性 創造 惠み
  三 象徴性 啓示 信仰
  四 永遠と時 有限性と永遠
  五 罪 救ひ 死
  六 死後の生と時の終りの世


    第一章 自然時間

        一

永遠」は種々の意味において時乃至時間性を超越乃至克服する何ものかと考へられ得るゆゑ、「時と永遠」の問題は種々の形において種々の觀點よりして取扱はれ得る。吾々は今これを宗教哲學の觀點より取扱はうと思ふ。これはプロティノス以來の歴史的傳統の壓倒的壓力によつてすでに促される事でもあるが、又特に、「永遠」の觀念が、後の論述の示すであらう如く、宗教においてはじめてそれの本來の力と深みと豐富さとを發揮し得ることによつて實質的にも要求される。「永遠」は宗教に本來の郷土を有する觀念である。このことによつて「時」乃至「時間性」の取扱ひ方も一定の方向を指し示される。表象内容をなすだけの又は單なる客觀的存在者として理論認識の對象をなすだけの永遠は、宗教においては殆ど無用の長物である。このことに應じて、吾々の論究は時乃至時間性に關してもそれの特殊の形に重點を置かねばならぬであらう。これは時と永遠との相互の密なる聯關よりして當然期待される事柄である。すなはち、吾々は體驗の世界に深く探り入つて、吾々自らその中にあり又生きる「時」、即ち生の「時間性」の本來の姿を見究めねばならぬ。
 吾々は日常生活においてすでに、世界のすべての事物・存在及び動作支配する一種の秩序の如きものとして、又それに屬することによつて吾々の認識が萬人に共通なる尺度と法則とを得るものとして、時を表象理解する。しかしながらかくの如きは決して時の根源的の姿ではない。それは、われわれ自らその中にあつて生きる所のものを、われわれの前に置き外(そと)の世界に投射して客體化したものであつて、すでに反省作用によつて著しく變貌を遂げた派生的形象である。時の根源的の姿を見ようとする者は、一應かかる表象を全く途に置き棄てて根源的體驗の世界に進み入らねばならぬ。尤も體驗の理解反省において行はれねばならぬ故、その際反省の産物である客觀的時間の姿は、吾々の視野を遮り目的物を蔽ひ隱し、かくて、すでにアウグスティヌスAugustinus)も歎いた如く(一)、吾々の仕事を甚しく困難ならしめる傾きがある。さもあれ體驗的時間の眞の姿を明かにすることは吾々にとつて最も肝要なる基本的課題である。

(一) Augustinus: Confessiones. XI, 14.


        二

 吾々は、主體は、「現在」において生きる。現に生きる即ち實在する主體にとつては「現在」と眞實の存在とは同義語である。然らば體驗される即ち根源的の姿における時は單に現在に盡きるであらうか。若し人がややもすれば考へ易い如く又多くの學者が事實考へた如く、現在延長をも内部構造をも缺く一個の點に過ぎぬならば、この歸結は避け難いであらう。點は存在する他の何ものかの限界としての意義しか有せず、しかもこの場合現在によつて區劃さるべき筈の「將來」も「過去」も實は存在せぬ以上、時は本質上全く虚無に等しくなければならぬであらう(一)。しかしながらかくの如きは體驗における時を無視して客觀的時間のみを眼中に置く誤つた態度より來る誤つた結論に過ぎないのである。時を空間的に表象することは、後に立入つて論ずる如く、客觀的時間場合には避け難き事であり、從つて現在を點として表象することも許される事、又特に時を數量的に取扱はうとする場合には、避け難き事であらう。しかもかかる考へ方の覊絆を脱すべく力めることが、時の眞の理解に達しようとする者にとつては、何よりも肝要なる先決條件なのである。
 現在は決して單純なる點に等しきものではなく、一定の延長を有し又一定の内部構造を具へてゐる(二)。體驗においては、時は一方現在に存するともいひ得るが、しかも他方において、その現在過去と將來とを缺くべからざる契機として己のうちに包含する。現在は絶え間なく來り絶え間なく去る。來るは「將來」よりであり、さるは「過去」へである。將に來らんとするものが來れば即ち存在に達すればそれは現在であるが、その現在は成立するや否や直ちに非存在へと過ぎ去り行く。この絶え間無き流動推移が時である。かくの如く將來も過去現在を流動推移たらしめる契機としてそれのうちに内在する。ここでは生ずるはいつも滅ぶるであり、來るはつねに去るである。動く生きるといふことが現在の、又從つて時の、基本性格である。時のある限り流動は續き從つて現在はいつも現在であるが、これを解して時そのものは不動の秩序乃至法則の如きものであり動くは單に内容のみと考へるのは誤りである。内容に即して現在は絶えず更新されて行く。


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