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時事雑感 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )

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     煙突男  ある紡績会社労働争議に、若い肺病の男が工場の大煙突の頂上に登って赤旗を翻し演説をしたのみならず、頂上に百何十時間居すわってなんと言ってもおりなかった。だんだん見物人が多くなって、わざわざ遠方から汽車で見物に来る人さえできたので、おしまいにはそれを相手の屋台店が出たりした。これに関する新聞記事はおりからの陸軍演習のそれと相交錯して天下の耳目をそばだたせた。宗教道徳哲学科学法律もみんなただ茫然(ぼうぜん)と口をあいてこの煙突の空の一個の人影をながめるのであった。
 争議が解決して煙突男が再び地上におりた翌日の朝私はいつも行くある研究所へ行った。ちょうど若い軍人たちがおおぜいで見学に来ていたが、四階屋上露台から下を見おろしている同僚の一群を下の連中が見上げながら大声で何かからかっている。「おうい、もう争議は解決したぞ、おりろおりろ」というのが聞こえた。その後ある大学運動会では余興作りものの中にやはりこの煙突男のおどけた人形喝采(かっさい)を博した。
 こうしてこの肺病の一労働青年日本じゅうの人気男となり、その波動はまたおそらく世界じゅうの新聞に伝わったのであろう。
 この男のした事が何ゆえこれほどに人の心を動かしたかと考えてみた。新聞というものの勢力のせいもあるが、一つにはその所業がかなり独創的であって相手の伝統対策を少なくも一時戸まどいをさせた、そのオリジナリティに対する賛美に似たあるものと、もう一つには、その独創的計画をどこまでも遂行しようという耐久力の強さ、しかも病弱体躯(たいく)を寒い上空の風雨にさらし、おまけに渦巻(うずま)く煤煙(ばいえん)の余波にむせびながら、飢渇や甘言の誘惑と戦っておしまいまで決意を翻さなかったその強さに対する嘆賞に似たあるものとが、おのずから多くの人の心に共通に感ぜられたからであろうと思われる。しかし一方ではまた彼が不治の病気自覚して死に所を求めていたに過ぎないのだと言い、あるいは一種の気違いの所業だとして簡単解釈をつけ、そうしてこの所業の価値を安く踏もうとする人もあるであろう。そういう見方にも半面の真理はあるかもしれない。そういう批判などはどうでもいいが、私はこの煙突男の新聞記事読みながら、ふと「これが紡績会社労働者でなくて、自分研究室の一員であったとしたら」と考えてみた。ともかくもだれのまねでもない、そうしてはなはだ合目的なこの一つの所行を、自分の頭で考えついて、そうしてあらゆる困難と戦ってそれをおしまいまで遂行することのできる人間が、もし充分な素養と資料とを与えられて、そうして自由にある専門の科学研究に従事することができたら、どんな立派仕事ができるかもしれないという気がした。もちろんちょっとそういう気がしただけである。
 日本人には独創力がないという。また耐久力がないという。これはいかなる程度までの統計事実であるかがわかりかねる。しかし少なくとも学術研究の方面で従来この二つのものがあまり尊重されなかったことだけは疑いもない事実である。従来だれもあまり問題にしなかったような題目をつかまえ、あるいは従来行なわれなかった毛色の変わった研究方法を遂行しようとするものは、たいていだれからも相手にされないか、陰であるいはまともにばかにされるか、あるいは正面の壇上からしかられるにきまっている。そうしてそれにかまわずいつまでもそれに執着していればおしまいには気違い扱いにされ、その暗示に負けてほんとうの気違いになるか、あるいはどこからかの権威の力で差しとめを食い手も足も出なくなってしまうという事になっているようである。もっとも多くの場合にこのような独創力と耐久力を併有しているような種類の人間は、同時にその性状が奇矯(ききょう)で頑強(がんきょう)である場合が多いから、学者と言っても同じく人間であるところの同学や先輩感情を害することが多いという事実も争われないのである。そういう風変わりな学者逆境に沈むのは誠にやむを得ないことかもしれない。そうして、またそういう独創的な仕事の常として「きずだらけの玉」といったようなものが多いから、アカデミック立場から批評してそのきずだけを指摘すればこれを葬り去るのは赤子の手をねじ上げるよりも容易である。そうしてみがけば輝くべき天下の美玉が塵塚(ちりづか)に埋められるのである。これも人間自然現象の一つでどうにもならないかもしれない。しかしそういう場合に、もし感情感情として、ほんとうの学問のために冷静な判断を下し、泥土(でいど)によごれた玉を認めることができたら、世界の、あるいはわが国学問ももう少しどうにかなるかもしれない。
 日本人仕事は、それがある適当条件備えたパッスを持つものでない限り容易には海外学界に認められにくい。そうして一度海外で認められて逆輸入されるまではなかなか日本学界では認められないことになっている。海外学界でもやはり国際封建的感情があり、またいろいろな学閥があるので、ことに東洋人独自の研究などはなかなか目をつけないのであるが、しかしたとえ東洋人のでもそれがほんとうにいいものでさえあれば、ついにはそれを認めるということにならないほどに世界学界盲目ではないから、認められなくとも不平など起こさないで、きげんよく根気よく研究をつづけて行けば結局は立派なものになりうるであろう。多くの人からあんなつまらないことと言われるような事がらでも深く深く研究して行けば、案外非常に重大で有益な結果が掘り出されうるものである。自然界は古いも新しいもなく、つまらぬものもつまるものもないのであって、それを研究する人の考えと方法が新しいか古いか等が問題になるのである。最新型の器械を使って、最近流行問題を、流行方法研究するのがはたして新しいのか、古い問題を古い器械を使って、しかし新しい独自の見地から伝統を離れた方法で追究するのがはたして古いかわからないのである。
 今年物理学上の功績によってノーベル賞をもらったインド人ラマンの経歴については自分はあまり確かな事を知らないが、人の話によると、インドの大学卒業してから衣食のために銀行員の下っぱかなんかを勤めながら、楽しみケンブリッジのマセマチカル・トライポスの問題などを解いて英国学者に見てもらったりしていた。そんな事から見いだされてカルカッタ大学の一員になったのが踏み出しだそうである。始めのうちは振動問題や海の色の問題や、ともかくも見たところあまり先端的でない、新しがり屋に言わせれば、いわゆる古色|蒼然(そうぜん)たる問題を、自分だけはおもしろそうにこつこつとやっていた。しかし彼の古いティンダル効果研究いつのまに現在物理学前線へ向かってひそかにからめ手から近づきつつあった。研究資金にあまり恵まれなかった彼は「分光器が一つあるといいがなあ」と嘆息していた。そうして、やっと分光器が手に入って実験を始めるとまもなく一つの「発見」を拾い上げた。それは今日彼の名によって「ラマン効果」と呼ばれるものである。田舎(いなか)から出て来たばかりの田吾作(たごさく)が一躍して帝都の檜舞台(ひのきぶたい)の立て役者になったようなものである。そうして物理学者としての最高の栄冠が自然にこの東洋学者の頭上を飾ることになってしまった。思うにこの人もやはり少し変わった人である。多数の人の血眼になっていきせき追っかけるいわゆる先端的前線などは、てんでかまわないような顔をしてのんきそうに骨董(こっとう)いじりをしているように見えていた。そうして思いもかけぬ間道を先くぐりして突然|前哨(ぜんしょう)の面前に顔を突き出して笑っているようなところがある。
 もっとも、ラマンのまねをするつもりで、同じように古くさい問題ばかりこつこつと研究をしていれば、ついにはラマンと同じように新しい発見に到達するかといえば、そういうわけには行かない。これも確かである。ただたまにはラマンのような例もあるから、われわれはそういう毛色の変わった学者たちも気長い目で守り立てたいと思うのである。
 この世界物理学者の話と、川崎(かわさき)の煙突男の話とにはなんら直接の関係はない。


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