暖地の冬から山国の春へ - 岸田 国士 ( きしだ くにお )
岸田國士
私は今湘南小田原の海岸近くに住んでゐるが、予期した通りの暖かさで、先日の大雪の日も、東京で無理をして品川からやつと電車を拾ひ、日が暮れて小田原の駅を降りると、驚いたことに、うつすらとしか雪の降つた形跡がない。
梅の花も熱海や湯河原より少しおくれるだけで、二月にはいるともう見頃はとうに過ぎて、城跡の公園は朝から霜どけの道に悩まされるくらゐである。
散歩の途中、住宅街の裏通りなどで、植込みのなかに夏蜜柑の黄に色づいたのを見かけると、土地に馴れない私は、つい、季節の錯覚に陥る。
この調子だと、今年は冬を知らずにしまひさうだ。贅沢な文句を言ふやうだが、その代り、たまに東京へ出ると、寒さが身に沁みて、なるほど、これが冬といふものかと、今更らしく感心してゐる。
医者の忠告で、去年の冬から寒い間だけ暖地を転々と歩いてゐるわけだが、かういふ生活にも少々飽きて来た。小田原は仮住居の不自由――例へば必要な書物を手許に揃へておけないこと――を除けば、たいへん住み心地がいゝ。気心の知れた人出入りも楽しみのひとつになつた。
はじめ私が小田原に眼をつけた因縁は、かつて詩人三好達治君がこの地に居を構へ、時をり自然の美しさ、穏やかさを私に漏らしたことがあつたからで、それを覚えてゐて、私が突然、小田原で家を探してくれる人はないかと、相談をもちかけたのである。三好君は困つたに違ひないが、早速、土地ッ子の歌人鈴木貫介君を私に紹介してくれた。
この鈴木君は大きな蜜柑山の主で、なかなかしつかりした歌は詠むが、借家のことには一向不案内であることがわかり、私は二重に悪いことをしたと思つた。
しかし、もう今では、そんな詫びを繰り返す必要もないほど親しい間柄になり、この間は、同君を生れてはじめての芝居見物に誘つた。
芝居といへば、この小田原には、北条秀司氏も数年間居たことがあるさうで、同氏の指導と庇護を受けたアマチュア劇団の人たちから懐旧談を聞かされることがある。言ひ漏らしてはならぬが、私の現在の住居は庭を隔てて西側に缶詰工場があり、その騒音と臭気が困りものだといへば困りものだが、会社側は工場長はじめ、たいへん礼儀正しく物わかりがよく、結局、こちらが我慢をするか、ほかへ移るかしなければ解決がつくまいと思はれる形勢である。かうなると、人権擁護といふこともなかなかむつかしい問題になる。
さて、私の健康もほゞ恢復したらしいので、ぼつぼつ仕事を始めるつもりでゐるが、まづ手始めに、文学座三月公演のゴーリキイ作「どん底」の演出を引受けることにした。かねて興味をもつてゐた「『どん底』の『明るさ』」といふテーマと、今取つ組んでゐる最中である。それにつけても、ゴーリキイがこの舞台のために撰んだ季節は早春である。この小田原などでは想像もつかぬ長い長い暗黒に閉された冬からの解放の季節である。私は、どうしても日本なら、私の大好きな山国の初春を想ひ出さずにはゐられない。
底本:「岸田國士全集28」
1992(平成4)年6月17日発行
初出:「新潮 第五十一巻第三号」
1954(昭和29)年3月1日
入力:門田裕志
校正:大野 晋
2004年12月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
散歩の途中、住宅街の裏通りなどで、植込みのなかに夏蜜柑の黄に色づいたのを見かけると、土地に馴れない私は、つい、季節の錯覚に陥る。
この調子だと、今年は冬を知らずにしまひさうだ。贅沢な文句を言ふやうだが、その代り、たまに東京へ出ると、寒さが身に沁みて、なるほど、これが冬といふものかと、今更らしく感心してゐる。
医者の忠告で、去年の冬から寒い間だけ暖地を転々と歩いてゐるわけだが、かういふ生活にも少々飽きて来た。小田原は仮住居の不自由――例へば必要な書物を手許に揃へておけないこと――を除けば、たいへん住み心地がいゝ。気心の知れた人出入りも楽しみのひとつになつた。
はじめ私が小田原に眼をつけた因縁は、かつて詩人三好達治君がこの地に居を構へ、時をり自然の美しさ、穏やかさを私に漏らしたことがあつたからで、それを覚えてゐて、私が突然、小田原で家を探してくれる人はないかと、相談をもちかけたのである。三好君は困つたに違ひないが、早速、土地ッ子の歌人鈴木貫介君を私に紹介してくれた。
この鈴木君は大きな蜜柑山の主で、なかなかしつかりした歌は詠むが、借家のことには一向不案内であることがわかり、私は二重に悪いことをしたと思つた。
しかし、もう今では、そんな詫びを繰り返す必要もないほど親しい間柄になり、この間は、同君を生れてはじめての芝居見物に誘つた。
芝居といへば、この小田原には、北条秀司氏も数年間居たことがあるさうで、同氏の指導と庇護を受けたアマチュア劇団の人たちから懐旧談を聞かされることがある。言ひ漏らしてはならぬが、私の現在の住居は庭を隔てて西側に缶詰工場があり、その騒音と臭気が困りものだといへば困りものだが、会社側は工場長はじめ、たいへん礼儀正しく物わかりがよく、結局、こちらが我慢をするか、ほかへ移るかしなければ解決がつくまいと思はれる形勢である。かうなると、人権擁護といふこともなかなかむつかしい問題になる。
さて、私の健康もほゞ恢復したらしいので、ぼつぼつ仕事を始めるつもりでゐるが、まづ手始めに、文学座三月公演のゴーリキイ作「どん底」の演出を引受けることにした。かねて興味をもつてゐた「『どん底』の『明るさ』」といふテーマと、今取つ組んでゐる最中である。それにつけても、ゴーリキイがこの舞台のために撰んだ季節は早春である。この小田原などでは想像もつかぬ長い長い暗黒に閉された冬からの解放の季節である。私は、どうしても日本なら、私の大好きな山国の初春を想ひ出さずにはゐられない。
底本:「岸田國士全集28」
1992(平成4)年6月17日発行
初出:「新潮 第五十一巻第三号」
1954(昭和29)年3月1日
入力:門田裕志
校正:大野 晋
2004年12月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
岸田 国士 (きしだ くにお) 以外のオススメ作品
暖地の冬から山国の春へ (だんちのふゆからやまぐにのはるへ) のリンク元
「暖地の冬から山国の春へ-岸田 国士」の関連ページ
-
コメント/・国士無双の兎 ~破壊録~ - 東方対戦録wiki - 東方対戦録wiki
キャーコクシサーン - bremi 2010-02-01 215858 -
国士無双の優先権 - 麻雀ローカルルールWiki - 麻雀ローカルルールWiki
読みこくしむそうのゆうせんけん種別和了に関するルール別名解説ダブロンやトリロンを認めないとき、複数の和了者の中に国士無双の和了者がいた場合、頭ハネにかかわらず国士 -
麻雀 - futene_2ch @ ウィキ - futene_2ch @ ウィキ
回数 四暗刻 17回 大三元 16回 国士無双 15回 数え役満 10回 小四喜 5回 字一色 4回 四暗刻単騎 2回 九連宝燈 1回 清老頭 1回役満記録 日付 -
か行/き/岸田愛子 - ゴルフくちこみリンク&掲示板 - ゴルフくちこみリンク&掲示板
岸田愛子をお気に入りに追加くちこみリンクSat, 30 Ma社長秘書はインテリ痴女Sun, 01 Ap画面を見るなら脇からに「すみれの花咲く頃」Fri, 29 Deすみ花ちゃんと白姫あかりちゃん…が -
自民/か行/岸田文雄 - 永田町二丁目情報部 - 永田町二丁目情報部
岸田文雄をお気に入りに追加くちこみリンクTue, 18 De歯科医療未来へのアーカイブスⅤ 混合診療、全面解禁せず‐舛添、岸田 ...Thu, 15 Ocニコブログ 森喜朗元首相 民主 -
か行/き/岸田愛子 - ゴルフくちこみリンク&掲示板 - ゴルフくちこみリンク&掲示板
岸田愛子をお気に入りに追加引っ越しました!新しいサイトはこちらをクリックrakuten_design=slide;rakuten_affiliateId=04a91095.52a5fed9 -
住人一覧/か行/国士無双 - ポケガイ @wiki - ポケガイ @wiki
名前:国士無双履歴: 名言: 「国士無双」とは?その他補足「」に関するリンク「国士無双」とは?ぷよぷよや麻雀が強い人。ぷよぷよ廃人たちとぷよぷよをやりあう仲。過去に一度だけ(ゲームで)麻雀にて国士 -
第三話 ――書庫の魔導師―― - MapleStoryOnBrowser2@VIP - MapleStoryOnBrowser2@VIP
の魔導師――「岸田さん、いるかい?」かび臭い湿った空気と、獣脂の蝋燭が燃える匂いが交じり合ったルディブリアム城の地下書物庫。辺りに満ちた怪しげな雰囲気に、ビプ妹の周囲をふよふよ漂う精霊たちも不安げにしている。「やあ -
第三話 ――書庫の魔導師―― - MapleStoryOnBrowser2@VIP - MapleStoryOnBrowser2@VIP
の魔導師――「岸田さん、いるかい?」かび臭い湿った空気と、獣脂の蝋燭が燃える匂いが交じり合ったルディブリアム城の地下書物庫。辺りに満ちた怪しげな雰囲気に、ビプ妹の周囲をふよふよ漂う精霊たちも不安げにしている。「やあ -
きみの朝 - sakiop @ ウィキ - sakiop @ ウィキ
プニング 君の鐘だよ オープニング オープニング 君の鐘だよ ♪ 元歌 きみの朝 歌手:岸田智史 作詞:岡本おさみ 作曲:岸田智史
