書記官 - 川上 眉山 ( かわかみ びざん )
一
笆(まがき)に媚(こ)ぶる野萩(のはぎ)の下露もはや秋の色なり。人々は争うて帰りを急ぎぬ。小松の温泉(いでゆ)に景勝の第一を占めて、さしも賑(にぎ)わい合えりし梅屋の上も下も、尾越しに通う鹿笛(しかぶえ)の音(ね)に哀れを誘われて、廊下を行(ゆ)き交(か)う足音もやや淋(さび)しくなりぬ。車のあとより車の多くは旅鞄(たびかばん)と客とを載せて、一里先なる停車場(すていしょん)を指して走りぬ。膳(ぜん)の通い茶の通いに、久しく馴(な)れ睦(むつ)みたる婢(おんな)どもは、さすがに後影を見送りてしばし佇立(たたず)めり。前を遶(めぐ)る渓河(たにがわ)の水は、淙々(そうそう)として遠く流れ行く。かなたの森に鳴くは鶇(つぐみ)か。
朝夕のたつきも知らざりし山中(やまなか)も、年々の避暑の客に思わぬ煙(けぶり)を増して、瓦葺(かわらぶ)きの家(や)も木の葉越しにところどころ見ゆ。尾上(おのえ)に雲あり、ひときわ高き松が根に起りて、巌(いわお)にからむ蔦(つた)の上にたなびけり。立ち続く峰々は市(いち)ある里の空を隠して、争い落つる滝の千筋(ちすじ)はさながら銀糸を振り乱しぬ。北は見渡す限り目も藐(はる)に、鹿垣(ししがき)きびしく鳴子(なるこ)は遠く連なりて、山田の秋も忙がしげなり。西ははるかに水の行衛(ゆくえ)を見せて、山幾重雲幾重、鳥は高く飛びて木の葉はおのずから翻りぬ。草苅(くさか)りの子の一人二人、心豊かに馬を歩ませて、節面白く唄(うた)い連れたるが、今しも端山(はやま)の裾(すそ)を登り行きぬ。
荻(おぎ)の湖(こ)の波はいと静かなり。嵐(あらし)の誘う木葉舟の、島隠れ行く影もほの見ゆ。折しも松の風を払って、妙(たえ)なる琴の音は二階の一間に起りぬ。新たに来たる離座敷(はなれ)の客は耳を傾(かたぶ)けつ。
糸につれて唄い出(いだ)す声は、岩間に咽(むせ)ぶ水を抑えて、巧みに流す生田(いくた)の一節(ひとふし)、客はまたさらに心を動かしてか、煙草をよそに思わずそなたを見上げぬ。障子は隔ての関を据(す)えて、松は心なく光琳風(こうりんふう)の影を宿せり。客はそのまま目を転じて、下の谷間を打ち見やりしが、耳はなお曲に惹(ひ)かるるごとく、髭(ひげ)を撚(ひね)りて身動きもせず。玉は乱れ落ちてにわかに繁き琴の手は、再び流れて清く滑(なめ)らかなる声は次いで起れり。客はまたもそなたを見上げぬ。
廊下を通う婢(おんな)を呼び止めて、唄の主は誰(たれ)と聞けば、顔を見て異(おか)しく笑う。さては大方美しき人なるべし。何者と重ねて問えば、私は存じませぬとばかり、はや岡焼(おかや)きの色を見せて、溜室(たまり)の方へと走り行きぬ。定めて朋輩(ほうばい)の誰彼に、それと噂(うわさ)の種なるべし。客は微笑(ほほえ)みて後を見送りしが、水に臨める縁先に立ち出(い)でて、傍(かたえ)の椅子(いす)に身を寄せ掛けぬ。琴の主はなお惜しげもなく美しき声を送れり。
客はさる省の書記官に、奥村|辰弥(たつや)とて売出しの男、はからぬ病に公の暇を乞(こ)い、ようやく本に復したる後の身を養わんとて、今日しもこの梅屋に来たれるなり。燦爛(きらびや)かなる扮装(いでたち)と見事なる髭(ひげ)とは、帳場より亭主を飛び出さして、恭(うやうや)しき辞儀の下より最も眺望(ちょうぼう)に富みたるこの離座敷(はなれ)に通されぬ。三十前後の顔はそれよりも更(ふ)けたるが、鋭き眼の中(うち)に言われぬ愛敬(あいきょう)のあるを、客|擦(ず)れたる婢(おんな)の一人は見つけ出して口々に友の弄(なぶ)りものとなりぬ。辰弥は生得馴るるに早く、咄嗟(とっさ)の間に気の置かれぬお方様となれり。過分の茶代に度を失いたる亭主は、急ぎ衣裳(いしょう)を改めて御挨拶(ごあいさつ)に罷(まか)り出でしが、書記官様と聞くよりなお一層敬い奉りぬ。
琴はやがて曲を終りて、静かに打ち語らう声のたしかならず聞ゆ。辰弥も今は相対(あいむか)う風色(ふうしょく)に見入りて、心は早やそこにあらず。折しも障子はさっと開きて、中なる人は立ち出でたるがごとし。辰弥の耳は逸早(いちはや)く聞きつけて振り返りぬ。欄干(てすり)にあらわれたるは五十路(いそじ)に近き満丸顔の、打見にも元気よき老人なり。骨も埋もるるばかり肥え太りて、角袖(かくそで)着せたる布袋(ほてい)をそのまま、笑(え)ましげに障子の中(うち)へ振り向きしが、話しかくる一言の末に身を反(そ)らせて打ち笑いぬ。中なる人の影は見えず。
われを嘲(あざ)けるごとく辰弥は椅子を離れ、庭に下(お)り立ちてそのまま東の川原に出でぬ。地を這(は)い渡る松の間に、乱れ立つ石を削りなして、おのずからなる腰掛けとしたるがところどころに見ゆ。岩を打ち岩に砕けて白く青く押し流るる水は、一叢(ひとむら)生(お)うる緑竹の中(うち)に入りて、はるかなる岡の前にあらわれぬ。流れに渡したる掛橋は、小柴(こしば)の上に黒木を連ねて、おぼつかなげに藤蔓(ふじづる)をからみつけたり。橋を渡れば山を切り開きて、わざとならず落しかけたる小滝あり。杣(そま)の入るべき方(かた)とばかり、わずかに荊棘(けいきょく)の露を払うて、ありのままにしつらいたる路を登り行けば、松と楓樹(もみじ)の枝打ち交わしたる半腹に、見るから清らなる東屋(あずまや)あり。山はにわかに開きて鏡のごとき荻の湖は眼の前に出でぬ。
円座を打ち敷きて、辰弥は病後の早くも疲れたる身を休めぬ。差し向いたる梅屋の一棟(ひとむね)は、山を後に水を前に、心を籠(こ)めたる建てようのいと優なり。ゆくりなく目を注ぎたるかの二階の一間に、辰弥はまたあるものを認めぬ。
朝夕のたつきも知らざりし山中(やまなか)も、年々の避暑の客に思わぬ煙(けぶり)を増して、瓦葺(かわらぶ)きの家(や)も木の葉越しにところどころ見ゆ。尾上(おのえ)に雲あり、ひときわ高き松が根に起りて、巌(いわお)にからむ蔦(つた)の上にたなびけり。立ち続く峰々は市(いち)ある里の空を隠して、争い落つる滝の千筋(ちすじ)はさながら銀糸を振り乱しぬ。北は見渡す限り目も藐(はる)に、鹿垣(ししがき)きびしく鳴子(なるこ)は遠く連なりて、山田の秋も忙がしげなり。西ははるかに水の行衛(ゆくえ)を見せて、山幾重雲幾重、鳥は高く飛びて木の葉はおのずから翻りぬ。草苅(くさか)りの子の一人二人、心豊かに馬を歩ませて、節面白く唄(うた)い連れたるが、今しも端山(はやま)の裾(すそ)を登り行きぬ。
荻(おぎ)の湖(こ)の波はいと静かなり。嵐(あらし)の誘う木葉舟の、島隠れ行く影もほの見ゆ。折しも松の風を払って、妙(たえ)なる琴の音は二階の一間に起りぬ。新たに来たる離座敷(はなれ)の客は耳を傾(かたぶ)けつ。
糸につれて唄い出(いだ)す声は、岩間に咽(むせ)ぶ水を抑えて、巧みに流す生田(いくた)の一節(ひとふし)、客はまたさらに心を動かしてか、煙草をよそに思わずそなたを見上げぬ。障子は隔ての関を据(す)えて、松は心なく光琳風(こうりんふう)の影を宿せり。客はそのまま目を転じて、下の谷間を打ち見やりしが、耳はなお曲に惹(ひ)かるるごとく、髭(ひげ)を撚(ひね)りて身動きもせず。玉は乱れ落ちてにわかに繁き琴の手は、再び流れて清く滑(なめ)らかなる声は次いで起れり。客はまたもそなたを見上げぬ。
廊下を通う婢(おんな)を呼び止めて、唄の主は誰(たれ)と聞けば、顔を見て異(おか)しく笑う。さては大方美しき人なるべし。何者と重ねて問えば、私は存じませぬとばかり、はや岡焼(おかや)きの色を見せて、溜室(たまり)の方へと走り行きぬ。定めて朋輩(ほうばい)の誰彼に、それと噂(うわさ)の種なるべし。客は微笑(ほほえ)みて後を見送りしが、水に臨める縁先に立ち出(い)でて、傍(かたえ)の椅子(いす)に身を寄せ掛けぬ。琴の主はなお惜しげもなく美しき声を送れり。
客はさる省の書記官に、奥村|辰弥(たつや)とて売出しの男、はからぬ病に公の暇を乞(こ)い、ようやく本に復したる後の身を養わんとて、今日しもこの梅屋に来たれるなり。燦爛(きらびや)かなる扮装(いでたち)と見事なる髭(ひげ)とは、帳場より亭主を飛び出さして、恭(うやうや)しき辞儀の下より最も眺望(ちょうぼう)に富みたるこの離座敷(はなれ)に通されぬ。三十前後の顔はそれよりも更(ふ)けたるが、鋭き眼の中(うち)に言われぬ愛敬(あいきょう)のあるを、客|擦(ず)れたる婢(おんな)の一人は見つけ出して口々に友の弄(なぶ)りものとなりぬ。辰弥は生得馴るるに早く、咄嗟(とっさ)の間に気の置かれぬお方様となれり。過分の茶代に度を失いたる亭主は、急ぎ衣裳(いしょう)を改めて御挨拶(ごあいさつ)に罷(まか)り出でしが、書記官様と聞くよりなお一層敬い奉りぬ。
琴はやがて曲を終りて、静かに打ち語らう声のたしかならず聞ゆ。辰弥も今は相対(あいむか)う風色(ふうしょく)に見入りて、心は早やそこにあらず。折しも障子はさっと開きて、中なる人は立ち出でたるがごとし。辰弥の耳は逸早(いちはや)く聞きつけて振り返りぬ。欄干(てすり)にあらわれたるは五十路(いそじ)に近き満丸顔の、打見にも元気よき老人なり。骨も埋もるるばかり肥え太りて、角袖(かくそで)着せたる布袋(ほてい)をそのまま、笑(え)ましげに障子の中(うち)へ振り向きしが、話しかくる一言の末に身を反(そ)らせて打ち笑いぬ。中なる人の影は見えず。
われを嘲(あざ)けるごとく辰弥は椅子を離れ、庭に下(お)り立ちてそのまま東の川原に出でぬ。地を這(は)い渡る松の間に、乱れ立つ石を削りなして、おのずからなる腰掛けとしたるがところどころに見ゆ。岩を打ち岩に砕けて白く青く押し流るる水は、一叢(ひとむら)生(お)うる緑竹の中(うち)に入りて、はるかなる岡の前にあらわれぬ。流れに渡したる掛橋は、小柴(こしば)の上に黒木を連ねて、おぼつかなげに藤蔓(ふじづる)をからみつけたり。橋を渡れば山を切り開きて、わざとならず落しかけたる小滝あり。杣(そま)の入るべき方(かた)とばかり、わずかに荊棘(けいきょく)の露を払うて、ありのままにしつらいたる路を登り行けば、松と楓樹(もみじ)の枝打ち交わしたる半腹に、見るから清らなる東屋(あずまや)あり。山はにわかに開きて鏡のごとき荻の湖は眼の前に出でぬ。
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