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月かげ - 豊島 与志雄 ( とよしま よしお )

  • ★ジャンクリストフ3/ロマンロラン豊島与志雄昭和38年岩波文庫
  • ★ジャンクリストフ2/ロマンロラン豊島与志雄昭和37年岩波文庫
  • ★ジャンクリストフ1/ロマンロラン豊島与志雄昭和37年岩波文庫
  • ★ジャンクリストフ8/ロマンロラン豊島与志雄昭和38年岩波文庫
  • レ・ミゼラブル全4冊 ユーゴー・豊島与志雄 岩波文庫
  • レ・ミゼラブル 全4巻 ユーゴー作 豊島与志雄 訳 岩波文庫
  • 岩波文庫 レ・ミゼラブル 1巻 豊島与志雄訳 挿絵原画 
  • ロマン・ロラン:豊島与志雄訳:ジャン・クリストフ 全8冊
  • ジャン・クリストフ/ロマン・ロラン 豊島与志雄訳 岩波文庫全4冊
  • ●死刑囚最後の日●ユーゴー豊島与志雄●養徳叢書S24●即決
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 四月から五月へかけた若葉の頃、穏かな高気圧の日々、南西の微風がそよそよと吹き、日の光が冴え冴えとして、着物を重ねても汗ばむほどでなく、肌を出しても鳥肌立つほどでなく、云わば、体温気温との温差が適度に保たれる、心地よい暖気になると、私は云い知れぬ快さを、身内にも周囲にも感じて、晴れやかな気分に包まれてしまった。思うさま背伸をしてみても、腕をまくってみても、足袋をぬいでみても、頭髪を風に吹かしてみても、爽快な感触が至る所にあった。着物家具空気も空も日の光も、一寸ひやりとする温かさで、肌にしみじみと触れてきた。そして何処にも、眼の向く所には、こんもりとした新緑の二枝三枝が見えていて、葉の一つ一つが輝かしい光を反射し、仄かな香をも漂わしていた。この愉快な一日をどうして過したらよかろうかと、そういった風な気持に私はなって、如何にせっぱつまった仕事控えていても、それをみな明日へ明日へと追いやって、何処へともなく出歩くのだった。凡ての人がなつかしく、凡てのものが珍しくて、私の心はにこにこ微笑んでいた。
 終日遊んだり歩いたりしても、なお倦き疲れることがなかった。自分身体がまた思いが、日の光や街路の灯に最も近しく親しかった。夜が更けても、家に帰って寝るのが惜しまれた。空は晴れてるし、夜の空気は爽かだし、街路の灯は美しいし、最後にも一度酒か珈琲か、熱いものが一二杯ほしくなって、連れの友人を無理に誘ったり、或はまた自分一人で、十二時過ぎまで起きているとあるカフェーの、明るい室にはいって行くことが多かった。
 そのカフェーに、お光という女がいた。少しも美貌ではないが、何処と云って憎気のない円っこい顔をして、眼よりも寧ろ頬辺で、いつもにこにこ笑っていた。それが私の気に入った。私は日本酒洋酒珈琲などを、その時々の気分によって、ちびりちびりなめながら、彼女は卓子に両肱をつきながら、別に話をしたり冗談口を利き合ったりしようという気もなく、多くは遠慮のない沈黙のうちに、側目(はため)にはいい仲とでも見えそうに、ただぼんやり微笑み合っていた。友人と一緒の時には、僕のマドンナのお光ちゃん、などと冗談に云っていた。
 白い天井白い壁、白い卓子の例、天井から下ってる明るい電燈勘定場の両側の大きな棕櫚竹、そんなもの凡てが夜更けの空気しっとりと落着いて、そして私もその中に落着いてしまって、どうかすると我知らずうとうととすることもあった。
「まあ、嫌ね。何していらっしゃるの。」
 或る晩もそう云ってお光に起されて、私ははっと我に返った。そして杯を取上げたが、銚子の酒はもう残り少なに冷たくなっていた。
「熱いのを持ってきて上げるから、もっとはっきりなさいよ。」
 欠伸(あくび)でそれに答えておいて、あたりをぼんやり見廻すと、先刻の不良少年らしい四人連れや、職人めいた二人連れは、もういつのまにかいなくなって、私一人取残されていた。いやに静かな変な晩だな、と思ったが、その瞬間に気がついた。私一人ではなくて、室の隅っこにも一人青年の客がいた。
 二十四五歳のその青年を、私は何度かそのカフェーで見た。カフェー以外でもっと親しく近々と見たような、妙な印象があったけれど、それははっきり思い出せなかった。ただ、他人を馬鹿にしたような、もしくは自分自身を馬鹿にしたような、そして何処か釘が一本足りないような、変梃な感じだけがはっきりしていた。髪を長くした痩せ形の美男子で、両手か両足か両耳か、何でもそういった左右の部分に、どこか不釣合な不具な点がありそうな身体付だった。
 もう一時近くで、窓のカーテンも下ろされ、表の硝子戸には白布が引かれていて、室の中がただ白く明るかった。彼は一人ぽつねんとしており、私の所へももう誰もやって来ず、四人の女達は向うの隅にかたまって、何かひそひそ囁き合っていた。この方が却って静かでいい、と私は思いながら、一人でちびりちびりと酒を飲み、酔った眼付をぼんやり空(くう)に据えて、時間過ぎのカフェーの暮春の夜の静けさに、うっとりと心で微笑みかけていた。と、驚いたことには、向うの男が、やはり酔眼を空に据えながら、にこにこ独り笑いをしてるのだった。
 その時、私は初めて思い出した。彼とはそのカフェー以外に、撞球場で一度出逢って、幾回かゲームを争ったことがあった。彼は私よりだいぶ上手だったが、私の方が勝がこんだ。それでも彼は、勝ち負けに関せずゲームになると ただにやにや笑っていた。人を馬鹿にしてるのか、或は全く虚心平気なのか、或は少し呆けてるのか、黙ってにやにや独り笑いをしながら、球を並べ直すのだった。その余り無感情中性的な笑いに、私はしまいには腹を立てて、彼との勝負を止してしまった。
 その時のと、感じは違うが性質は似寄ってる笑いだった。私がじっと眺めてるのを知ってか知らずにか、彼はやはりにこにこ独り笑いをして、うっとりと空を見つめていた。その眼が、貝殼のような濁った光りではあるが、それが却って一寸美しかった。見ているうちに、私もつい引き込まれて、頬のあたりに笑いが浮んできた。そして私達は一緒になって、何という故もなく微笑み合っていた。
 そこへお光が私の所にやって来た。私は彼女に真正面から微笑みかけた。彼女も頬辺でにっと笑って応じたが、その顔をすぐに引締めた。
「何だか変でしょう。」
 声を低めた調子がただごとでなかった。
「何が。」
 隈取った小さな眼を無理に大きく見開いて、肩の影から指先で、彼方の青年をさし示した。


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