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朝飯 - 島崎 藤村 ( しまざき とうそん )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
  • 岩波文庫1675昭和41年/阿部一族他二編森鴎外 岩波書店
  • 600円~ 岩波文庫【青年】森鴎外 (プチソフト1)
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・山椒大夫  他四篇」(旺文社文庫)◇◆
  • ◆◇ 森鴎外著「青年」(新潮文庫) ◇◆  名著! 
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・うたかたの記  他三篇」(岩波文庫)◇◆
  • ◆新品DVD★『NHK 名作の風景 8』森鴎外 正岡子規 夏目漱石1円
  • 森鴎外 高瀬舟・高瀬舟縁起・寒山捨得・寒山捨得縁起 CD 未開封
  • 森鴎外 舞姫 雁 井上靖 訳編 明治の古典8 初版
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 五月が来た。測候所の技手なぞをして居るものは誰しも同じ思であろうが、殊に自分はこの五月を堪えがたく思う。其日々々の勤務(つとめ)――気圧を調べるとか、風力を計るとか、雲形観察するとか、または東京気象台へ宛てて報告を作るとか、そんな仕事に追われて、月日を送るという境涯でも、あの蛙が旅情をそそるように鳴出す頃になると、妙に寂しい思想(かんがえ)を起す。旅だ――五月自分に教えるのである。
 いろいろなことを憶出すのもこの月だ。
 ある日のことであった。丁度自分休暇に当ったので、事務の引続を当番の同僚に頼むつもりで書いて置いた気圧の表を念の為に読んで見た。天気、晴。気温上昇雲形、層、層積、巻層(けんそう)、巻積。よし。それで自分小高い山の上にある長野測候所を出た。善光寺から七八町向うの質屋の壁は白く日をうけた。庭の内も今は草木の盛な時で、柱に倚凭(よりかゝ)って眺めると、新緑の香に圧されるような心地がする。熱い空気に蒸される林檎可憐らしい花、その周囲を飛ぶ蜜蜂楽しい羽音、すべて、見るもの聞くものは回想(おもいで)のなかだちであったのである。其時自分は目を細くして幾度となく若葉の臭を嗅いで、寂しいとも心細いとも名のつけようのない――まあ病人のように弱い気分になった。半生の間の歓(うれ)しいや哀しいが胸の中に浮んで来た。あの長い漂泊の苦痛(くるしみ)を考えると、よく自分のようなものが斯うして今日まで生きながらえて来たと思われる位。破船――というより外に自分の生涯を譬える言葉は見当らない。それがこの山の上の港へ漂い着いて、世離れた測候所の技手をして、雲の形を眺めて暮す身になろうなどとは、実に自分ながら思いもよらない変遷(うつりかわり)なのである。
 こう思い耽って居ると、誰か表の方で呼ぶような声がする。何の気なしに自分は出て見た。
 旅窶(たびやつ)れのした書生体の男が自分の前に立った。片隅へ身を寄せて、上り框(がまち)のところへ手をつき乍ら、何か低い声で物を言出した時は、自分は直にその男の用事を看(み)て取った。聞いて見ると越後の方から出て来たもので、都にある親戚をたよりに尋ねて行くという。はるばるの長旅、ここまでは辿り着いたが、途中で煩(わずら)った為に限りある路銀を費い尽して了った。道は遠し懐中(ふところ)には一文も無し、足は斯の通り脚気で腫れて歩行自由には出来かねる。情があらば助力して呉れ。頼む。斯う真実を顔にあらわして嘆願するのであった。
「実は――まだ朝飯も食べませんような次第で。」
 と、その男は附加(つけた)して言った。
 この「朝飯も食べません」が自分の心を動かした。顔をあげて拝むような目付をしたその男の有様は、と見ると、体躯(からだ)の割に頭の大きな、下顎(おとがい)の円く長い、何となく人の好さそうな人物。日に焼けて、茶色になって、汗のすこし流れた其|痛々敷(いたいたし)い額の上には、たしかに落魄という烙印(やきがね)が押しあててあった。悲しい追憶(おもいで)の情は、其時、自分の胸を突いて湧き上って来た。自分も矢張その男と同じように、饑と疲労(つかれ)とで慄えたことを思出した。目的(あてど)もなく彷徨(さまよ)い歩いたことを思出した。恥を忘れて人の家の門に立った時は、思わず涙が頬をつたって流れたことを思出した。
「まあ君、そこへ腰掛けたまえ。」
 と、自分は馴々敷(なれなれし)い調子で言った。男は自分の思惑を憚るかして、妙な顔して、ただもう悄然(しょんぼり)と震え乍ら立って居る。
「何しろ其は御困りでしょう。」と自分言葉をつづけた。「僕の家では、君、斯ういう規則にして居る。何かしら為て来ない人には、決して物を上げないということにして居る。だって君、左様じゃないか。僕だって働かずには生きて居られないじゃないか。その汗を流して手に入れたものを、ただで他(ひと)に上げるということは出来ない。貰う方の人から言っても、ただ物を貰うという法はなかろう。


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