木の都 関連リンク

織田 作之助 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

木の都 - 織田 作之助 ( おだ さくのすけ )

  • 織田作之助作品集2/織田作之助 著 大谷晃一 編・単行本
  • ■ 織田作之助短編集 /  聴雨・蛍  ■ちくま文庫■
  • ●中古図書●日本文学全集(72)織田作之助井上友一郎集集英社
  • ★「西鶴新論」織田作之助 昭22初版 天地書房★
  • ◇希少本『夫婦善哉』 織田作之助著◇M
  • 織田作之助■六白金星■昭和21年初版
  • 織田作之助全集 【全8巻】 講談社
  • レア!戦前昭和17年 「五代友厚」 織田作之助 日進社
  • 日本文学全集55/武田麟太郎・坂口安吾・織田作之助
次のページ
 大阪は木のない都だといはれてゐるが、しかし私の幼時の記憶不思議に木と結びついてゐる。  それは生国魂(いくたま)神社境内の、巳(み)さんが棲(す)んでゐるといはれて怖(こは)くて近寄れなかつた樟(くす)の老木であつたり、北向八幡境内の蓮池に落(はま)つた時に濡れた着物を干した銀杏(いちやう)の木であつたり、中寺町お寺境内の蝉の色を隠した松の老木であつたり、源聖寺坂(げんしやうじざか)や口繩坂(くちなはざか)を緑の色で覆うてゐた木々であつたり――私はけつして木のない都で育つたわけではなかつた。大阪はすくなくとも私にとつては木のない都ではなかつたのである。
 試みに、千日前|界隈(かいわい)の見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津(かうづ)の高台、生玉(いくたま)の高台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたへた鬱蒼(うつそう)たる緑の色が、煙と埃に濁つた大気の中になほ失はれずにそこにあることがうなづかれよう。
 そこは俗に上町とよばれる一角である。上町に育つた私たちは船場、島ノ内、千日前界隈へ行くことを「下へ行く」といつてゐたけれども、しかし俗にいふ下町に対する意味での上町ではなかつた。高台にある町ゆゑに上町とよばれたまでで、ここには東京山の手といつたやうな意味も趣きもなかつた。これらの高台の町は、寺院中心に生れた町であり、「高き屋に登りてみれば」と仰せられた高津宮の跡をもつ町であり、町の品格は古い伝統高さに静まりかへつてゐるのを貴しとするのが当然で、事実またその趣きもうかがはれるけれども、しかし例へば高津表門筋や生玉の馬場先や中寺町のガタロ横町などといふ町は、もう元禄の昔より大阪町人自由下町の匂ひがむんむん漂うてゐた。上町の私たちは下町の子として育つて来たのである。
 路地の多い――といふのはつまりは貧乏人の多い町であつた。同時に坂の多い町であつた。高台の町として当然のことである。「下へ行く」といふのは、坂を西に降りて行くといふことなのである。数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口繩坂……と、坂の名を誌(しる)すだけでも私の想ひはなつかしさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口繩坂である。
 口繩(くちなは)とは大阪で蛇のことである。といへば、はや察せられるやうに、口繩坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といつてしまへば打ちこはしになるところを、くちなは坂とよんだところに情調もをかし味もうかがはれ、この名のゆゑに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだが、しかし年少の頃の私は口繩坂といふ名称のもつ趣きには注意が向かず、むしろその坂を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の想ひが傾いた。夕陽丘とは古くからある名であらう。昔この高台からはるかに西を望めば、浪華(なには)の海に夕陽の落ちるのが眺められたのであらう。藤原家隆卿であらうか「ちぎりあれば難波(なには)の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな」とこの高台で歌つた頃には、もう夕陽丘の名は約束されてゐたかと思はれる。しかし、再び年少の頃の私は、そのやうな故事来歴は与(あづか)り知らず、ただ口繩坂の中腹に夕陽丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やしてゐたのである。夕暮わけもなく坂の上に佇(たたず)んでゐた私の顔が、坂を上つて来る制服のひとをみて、夕陽を浴びたやうにぱつと赧(あか)くなつたことも、今はなつかしい想ひ出である。
 その頃、私は高津宮跡にある中学校生徒であつた。しかし、中学校卒業して京都高等学校へはいると、もう私の青春はこの町から吉田へ移つてしまつた。少年の私を楽ませてくれた駒ヶ池の夜店や榎(えのき)の夜店なども、たまに帰省した高校生の眼には、もはや十年一日の古障子の如きけちな風景でしかなかつた。やがて私は高等学校在学中に両親を失ひ、ひいては無人になつた家を畳んでしまふと、もうこの町とは殆んど没交渉になつてしまつた。天涯孤独の境遇は、転々とした放浪めく生活に馴れやすく、故郷の町は私の頭から去つてしまつた。その後私はいくつかの作品でこの町を描いたけれども、しかしそれは著(いちじる)しく架空の匂ひを帯びてゐて、現実の町を描いたとはいへなかつた。その町を架空描きながら現実のその町を訪れてみようといふ気も物ぐさの私には起らなかつた。
 ところが、去年の初春本籍地区役所へ出掛けねばならぬ用向きが生じた。区役所へ行くには、その町を通らねばならない。十年振りにその町を訪れる機会が来たわけだと、私は多少の感懐を持つた。そして、どの坂を登つてその町へ行かうかと、ふと思案したが、足は自然に口繩坂へ向いた。しかし、夕陽丘女学校はどこへ移転してしまつたのか、校門には「青年塾堂」といふ看板が掛つてゐた。かつて中学生の私はこの禁断の校門一度だけくぐつたことがある。当時夕陽丘女学校籠球部を創設したといふので、私の中学校指導選手派遣を依頼して来た。昔らしい呑気(のんき)な話である。私の中学校籠球にかけてはその頃の中等野球界の和歌山中学のやうな地位を占めてゐたのである。私はちやうど籠球部へ籍を入れて四日目だつたが、指導選手のあとにのこのこ随(つ)いて行つて、夕陽丘の校門をくぐつたのである。ところが指導受け生徒の中に偶然水原といふ、私は知つてゐるが向うは知らぬ美しい少女がゐたので、私はうろたへた。水原指導選手と称する私が指導受け少女たちよりも下手投球ぶりをするのを見て、何と思つたか、私は知らぬ。それきり私は籠球部をよし、再びその校門をくぐることもなかつた。そのことを想ひだしながら、私は坂を登つた。
 登り詰めたところは路地である。路地突き抜けて、南へ折れると四天王寺北へ折れると生国魂(いくたま)神社神社仏閣を結ぶこの往来にはさすがに伝統の匂ひが黴(かび)のやうに漂うて仏師の店の「作家」とのみ書いた浮彫(うきぼり)の看板も依怙地(いこぢ)なまでにここでは似合ひ、不思議に移り変りの尠(すくな)い町であることが、十年振りの私の眼にもうなづけた。北へ折れてガタロ横町の方へ行く片影の途上、寺も家も木も昔のままにそこにあり、町の容子(ようす)がすこしも昔と変つてゐないのを私は喜んだが、しかし家の軒が一斉に低くなつてゐるやうに思はれて、ふと架空の町を歩いてゐるやうな気もした。しかしこれは、私の背丈(せたけ)がもう昔のままでなくなつてゐるせゐであらう。
 下駄屋の隣に薬屋があつた。薬屋の隣に風呂屋があつた。風呂屋の隣に床屋があつた。


次のページ

織田 作之助 (おだ さくのすけ) 以外のオススメ作品

木の都 (きのみやこ) のリンク元

「木の都-織田 作之助」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN