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朱日記 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )

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       一 「小使(こづかい)、小ウ使。」  程もあらせず、……廊下を急いで、もっとも授業中の遠慮、静(しずか)に教員控所の板戸の前へ敷居越に髯面(ひげづら)……というが頤(あご)頬(ほお)などに貯えたわけではない。不精で剃刀(かみそり)を当てないから、むじゃむじゃとして黒い。胡麻塩頭(ごましおあたま)で、眉の迫った渋色の真正面(まっしょうめん)を出したのは、苦虫と渾名(あだな)の古物(こぶつ)、但し人の好(い)い漢(おとこ)である。
「へい。」
 とただ云ったばかり、素気(そっけ)なく口を引結んで、真直(まっすぐ)に立っている。
「おお、源助か。」
 その職員室|真中(まんなか)の大卓子(おおテエブル)、向側の椅子(いす)に凭(かか)った先生は、縞(しま)の布子(ぬのこ)、小倉(こくら)の袴(はかま)、羽織は袖(そで)に白墨|摺(ずれ)のあるのを背後(うしろ)の壁に遣放(やりぱな)しに更紗(さらさ)の裏を捩(よじ)ってぶらり。髪の薄い天窓(あたま)を真俯向(まうつむ)けにして、土瓶やら、茶碗やら、解(とき)かけた風呂敷包、混雑(ごった)に職員のが散(ちら)ばったが、その控えた前だけ整然として、硯箱(すずりばこ)を右手(めて)へ引附け、一冊覚書らしいのを熟(じっ)と視(なが)めていたのが、抜上った額の広い、鼻のすっと隆(たか)い、髯の無い、頤(おとがい)の細い、眉のくっきりした顔を上げた、雑所(ざいしょ)という教頭心得(きょうとうこころえ)。何か落着かぬ色で、
「こっちへ入れ。」
 と胸を張って袴の膝へちゃんと手を置く。
 意味ありげな体(てい)なり。茶碗を洗え、土瓶に湯を注(さ)せ、では無さそうな処から、小使もその気構(きがまえ)で、卓子(テエブル)の角(かど)へ進んで、太い眉をもじゃもじゃと動かしながら、
御用で?」
「何は、三右衛門(さんえもん)は。」と聞いた。
 これは背の抜群に高い、年紀(とし)は源助より大分|少(わか)いが、仔細(しさい)も無かろう、けれども発心をしたように頭髪をすっぺりと剃附(そりつ)けた青道心(あおどうしん)の、いつも莞爾々々(にこにこ)した滑稽(おど)けた男で、やっぱり学校に居る、もう一人の小使である。
「同役(といつも云う、士(さむらい)の果(はて)か、仲間(ちゅうげん)の上りらしい。)は番でござりまして、唯今(ただいま)水瓶(みずがめ)へ水を汲込(くみこ)んでおりまするが。」
「水を汲込んで、水瓶へ……むむ、この風で。」
 と云う。閉込(しめこ)んだ硝子窓(がらすまど)がびりびりと鳴って、青空灰汁(あく)を湛(たた)えて、上から揺(ゆす)って沸立たせるような凄(すさ)まじい風が吹く。
 その窓を見向いた片頬(かたほ)に、颯(さっ)と砂埃(すなほこり)を捲(ま)く影がさして、雑所は眉を顰(ひそ)めた。
「この風が、……何か、風……が烈(はげ)しいから火の用心か。」
 と唐突(だしぬけ)に妙な事を言出した。が、成程、聞く方もその風なれば、さまで不思議とは思わぬ。
「いえ、かねてお諭しでもござりますし、不断十分に注意はしまするが、差当り火の用心と申すではござりませぬ。……やがて、」
 と例の渋い顔で、横手の柱に掛(かか)ったボンボン時計を睨(にら)むようにじろり。ト十一時……ちょうど半。――小使の心持では、時間がもうちっと経(た)っていそうに思ったので、止まってはおらぬか、とさて瞻(みつ)めたもので。――風に紛れて針の音が全く聞えぬ。
 そう言えば、全校の二階、下階(した)、どの教場からも、声一つ、咳(しわぶき)半分響いて来ぬ、一日中、またこの正午(ひる)になる一時間ほど、寂寞(ひっそり)とするのは無い。――それは小児(こども)たちが一心不乱、目まじろぎもせずにお弁当の時を待構えて、無駄な足踏みもせぬからで。静(しずか)なほど、組々の、人一人の声も澄渡って手に取るようだし、広い職員室のこの時計のカチカチなどは、居ながら小使部屋でもよく聞えるのが例の処、ト瞻(みつ)めても針はソッとも響かぬ。羅馬数字(ロオマすうじ)も風の硝子窓のぶるぶると震うのに釣られて、波を揺(ゆす)って見える。が、分銅だけは、調子を違えず、とうんとうんと打つ――時計は止まったのではない。
「もう、これ午餉(おひる)になりまするで、生徒方が湯を呑みに、どやどやと見えますで。湯は沸(たぎ)らせましたが――いや、どの小児衆(こどもしゅ)も性急で、渇かし切ってござって、突然(いきなり)がぶりと喫(あが)りまするで、気を着けて進ぜませぬと、直きに火傷(やけど)を。」
火傷を…うむ。」
 と長い顔を傾ける。

       二

「同役とも申合わせまする事で。」
 と対向(さしむか)いの、可なり年配のその先生さえ少(わか)く見えるくらい、老実な語(くち)。
「加減をして、うめて進ぜまする。その貴方様(あなたさま)、水をフト失念いたしましたから、精々(せっせ)と汲込んでおりまするが、何か、別して三右衛門(さんえむ)にお使でもござりますか、手前ではお間には合い兼ね……」
 と言懸けるのを、遮って、傾けたまま頭(かぶり)を掉(ふ)った。
「いや、三右衛門でなくってちょうど可(い)いのだ、あれは剽軽(ひょうきん)だからな。……源助、実は年上のお前を見掛けて、ちと話があるがな。」
 出方が出方で、源助は一倍まじりとする。
 先生も少し極(きま)って、
「もっとこれへ寄らんかい。」
 と椅子をかたり。卓子(テエブル)の隅を座取って、身体(からだ)を斜(はす)に、袴(はかま)をゆらりと踏開いて腰を落しつける。その前へ、小使はもっそり進む。
「卓子の向う前でも、砂埃(すなッぽこり)に掠(かす)れるようで、話がよく分らん、喋舌(しゃべ)るのに骨が折れる。


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