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東京八景 (苦難の或人に贈る) - 太宰 治 ( だざい おさむ )

  • ●絵葉書●『東京名所 丸ノ内東京停車場』東京駅 人力車
  • 明治11年東京古地図を復刻 『実測東京全図』 東京商工会議所創
  • わたせせいぞう◆東京シティー競馬東京記念ポスターTCK東京盃10
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  • 9-e051 航空機 東京空港警察署 東京サミット テレカ
  • 【東大】卒業証書の生写真 + 17歳の思索●東京大学 東京帝国大学
  • t34-47・光GENJI 原宿 東京タワー 東京ドーム テレカ
  • 初版「昭和の東京 平成の東京」(文庫)小林信彦
  • 【東京大学】卒業証書の生写真+ 17歳の思索●東大 東京帝国大学
  • 美品 東京人 2005年10月 明治東京「お雇い外国人」明治建築
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東京八景苦難の或人に贈る)  伊豆の南、温泉が湧き出ているというだけで、他には何一つとるところの無い、つまらぬ山村である。戸数三十という感じである。こんなところは、宿泊料も安いであろうという、理由だけで、私はその索寞(さくばく)たる山村を選んだ。昭和十五年、七月三日の事である。その頃は、私にも、少しお金の余裕があったのである。けれども、それから先の事は、やはり真暗であった。小説が少しも書けなくなる事だってあるかも知れない。二箇月間、小説が全く書けなかったら、私は、もとの無一文になる筈である。思えば、心細い余裕であったが、私にとっては、それだけの余裕でも、この十年間、はじめての事であったのである。私が東京生活をはじめたのは、昭和五年の春である。そのころ既に私は、Hという女と共同の家を持っていた。田舎の長兄から、月々充分の金を送ってもらっていたのだが、ばかな二人は、贅沢(ぜいたく)を戒め合っていながらも、月末には必ず質屋一品二品を持運んで行かなければならなかった。とうとう六年目に、Hとわかれた。私には、蒲団と、机と、電気スタンドと、行李(こうり)一つだけが残った。多額の負債も不気味に残った。それから二年経って、私は或る先輩のお世話で、平凡見合い結婚をした。さらに二年を経て、はじめて私は一息ついた。貧しい創作集も既に十冊近く出版せられている。むこうから注文が来なくても、こちらで懸命に書いて持って行けば、三つに二つは買ってもらえるような気がして来た。これからが、愛嬌(あいきょう)も何も無い大人仕事である。書きたいものだけを、書いて行きたい。
 甚だ心細い、不安な余裕ではあったが、私は真底から嬉しく思った。少くとも、もう一箇月間は、お金心配をせずに好きなものを書いて行ける。私は自分の、その時の身の上を、嘘みたいな気がした。恍惚(こうこつ)と不安の交錯した異様な胸騒ぎで、かえって仕事に手が附かず、いたたまらなくなった。
 東京八景。私は、その短篇を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本倫理に於ても、この年齢は、既に中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分肉体情熱に尋ねてみても、悲しい哉(かな)それを否定できない。覚えて置くがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別(けつべつ)の辞として、誰にも媚(こ)びずに書きたかった。
 あいつも、だんだん俗物になって来たね。そのような無智な陰口が、微風と共に、ひそひそ私の耳にはいって来る。私は、その度毎に心の中で、強く答える。僕は、はじめから俗物だった。君には、気がつかなかったのかね。逆なのである。文学を一生の業として気構えた時、愚人は、かえって私を組し易しと見てとった。私は、幽かに笑うばかりだ。万年若衆は、役者世界である。文学には無い。
 東京八景。私は、いまの此の期間にこそ、それを書くべきであると思った。いまは、差し迫った約束仕事も無い。百円以上の余裕もある。


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