東西ほくろ考 - 堀口 九万一 ( ほりぐち くまいち )
堀口九萬一
東洋と西洋とは、その風俗習慣に就て、いろいろ異(かは)つた点が多い中で、特に黒子に関する観方ほど異(かは)つてゐるものはなからうと思はれる。日本では女の顔の黒子(ほくろ)などは美貌の瑕瑾(きず)として現に年頃の娘さんなどはそれを苦にしてわざわざ医師に頼んで抜いて貰ふものさへある位である。
然るに、処かはれば品かはるとは言ひながら、西洋では、黒子を美貌の道具立ての一つに数へて尊重してゐるのである。
第一その名称からして全く異(かは)つてゐる。日本でのほくろは、漢字の黒子、黶子、又は痣に当るのである。而して痣にはほくろの外に又あざと云ふ訓が付いてゐるので、あざの小さいのが黒子である、ほくろであるのだ。今大槻文彦さんの言海を見るに下のやうな註釈がついてゐる。
「ほくろ」黒子、黶子(愚管抄には「ははくろ」とあり、「ははくそ」の転。その再転化なり。)古くは「ハハクソ」今又「ホクソ」人の皮膚に生じて小さく黒く点を為せるもの」としてある。そのやうに「ははくそ」「ホクソ」であつて、つまり「くそ」なのである。
処がほくろは西洋では「くそ」どころではない。大切なものである。その名からして艶麗である。西洋では「ほくろ」のことをグレン・ド・ボーテ(〔grain de beaute'〕)と云ふ。翻訳すれば、「美の豆粒」と云ふのである。嗚呼何と美しい名ではないか、「美の豆粒」とは!
だから西洋では日本のやうにそれを抜き取るどころではなく、否却て是を大切にするのである。若し生れつき「ほくろ」のない婦人方は、人工的に是を模造してその顔面に黏置するのである。
この人工的のほくろのことをフランス語では「ムーシユ」といふ。「ムーシユ」とは「蝿」と云ふ意義である。白い美しい顔の上の黒一点は、恰も白磁の花瓶に一匹の蝿がとまつたやうだといふ形容から来たものださうである。何ものでも美化して形容したり命名したりする処が如何にもフランス人らしくて好いではないか?
さてその人工的「ほくろ」、即ち「ムーシユ」とはどんなものかと云ふに、黒色に染めたタフタ(薄地の帛)を天然のほくろの大きさに似せて、小さな円い形に切つたものである。而してその裏面には絆創膏に似たやうな薬品が塗つてある。だから一度顔面に貼り著ければ、容易(たや)すく剥げ落ちるやうな気遣ひはない。
今その起原を尋ねて見るに、以前欧羅巴でまだ種痘術の発明せられなかつた昔に在つては、天然痘の為に動もすれば顔面に痘痕の残つてゐた婦人方が少くなかつた。それ等の貴婦人達がその痘痕を巧みに隠す事を色々と工夫して、終に「ムーシユ」を発明したものだと云ふ事である。その皮膚の白いこと雪を欺くばかりの美しい顔に、一点黒色の「ムーシユ」を附著して見た処が、黒と白とのコントラスト、即ち反対色の効果の為めに、白色はますます白く見へて美人の容色が一段と引立つて見へるので、我も我もと是を真似る婦人が多くなつて、遂には痘痕も何にもない婦人まで「ムーシユ」を用ゐるやうになつて、そこで「ムーシユ」の大流行となつたものであると云ふことである。そしてそれを始めたのがイタリヤである。イタリヤでは、随分昔からその風が行はれてゐたものだと云ひ伝へられてゐる。
それが十六世紀に始めてフランスに伝播し、十七世紀十八世紀の頃、特にルヰ十五世時代にはフランスに於て大々的の流行となつて、上下貴賤の差別なく婦人と云ふ婦人は化粧用として皆この「ムーシユ」を用ゐたもので、実に「ムーシユ」の全盛期とされてゐる。
その当時の「ムーシユ」の著け方は、今とは大分異つてゐるのである。当時の「ムーシユ」の著け方を見るに少くとも必ず三点以上としてあつたものである。左の目の上に二つ。右の目の上に一つ。これは是非とも著けることになつてゐた。この外に頬部に著ける分は各自の好き好きに随つて二つでも三つでも御勝手次第としてあつた。今に残つてゐるその頃の美人画を見るに、折角美くしい顔面に五つも六つも「ムーシユ」を貼り附けたのがあるが、今から見ると、ただただ奇異なと云ふ感じを起させる位のものであるが、併し流行と云ふものは不思議な力を持つてゐるもので、それが流行(はやり)だと云ふことになると、どんなに不思議な、妙な、変てこな衣裳でも、髪の形でも、お化粧の仕方でも、その当時の人にはそれが美くしく見えたのである。フランス大革命時代に流行した「アンクロワイヤーブル」(その名からして『本当とは思はれぬ』と云ふ意味だ。)の服装などは、最も好い一例だと思はれる。
概して、西洋の婦人方が流行を追ふことに浮身を窶す有様は、我々東洋人から見ると狂気の沙汰ではないかと思はれる程猛烈なものである。フランスのある学者が『若し倒立(さかだち)して歩(ある)くことが「流行(モード)」となつたとしたら、欧羅巴の婦人は些の躊躇もなく、みなそれを真似るだらう』と言うたことがあるが、これは多少皮肉ではあるが、西洋婦人の流行を追ふ心理状態を巧みに言ひ現はした言葉だと思はれる。「ムーシユ」もこの流行心理の作用で、十八世紀頃には大変はやつたもので即ち時粧となつたのである。
今では「ムーシユ」の流行は大分|衰(すた)つたやうだが、併しまだ全く無くなつたわけではない。今でも古典的(クラシツク)な舞踊、例へばムニユイ又は西班牙踊を踊る時には必ずこれを著けることになつてゐるやうである。又|平常(ふだん)でも艶美を増す為めに是を用ゐる婦人も少なくはない。だから巴里あたりの化粧品の商店には大小色々な形をした「ムーシユ」を売つてゐる。而してその「ムーシユ」の色合にも深黒、青黒、浅黒などと種々変つたのがある。婦人方は自分の皮膚の色や目の色や髪の毛の色などとその調和を保つに最も適した色合、即ち自分に一番よく似合ふ「ムーシユ」を撰んで是を貼附するのである。
併し現今では、「ムーシユ」の著け方は一八世紀頃とは大変違つてゐて、眼上三点の法則などに遵ふものは全くない。今では二つ以上は著けないやうだ。
然るに、処かはれば品かはるとは言ひながら、西洋では、黒子を美貌の道具立ての一つに数へて尊重してゐるのである。
第一その名称からして全く異(かは)つてゐる。日本でのほくろは、漢字の黒子、黶子、又は痣に当るのである。而して痣にはほくろの外に又あざと云ふ訓が付いてゐるので、あざの小さいのが黒子である、ほくろであるのだ。今大槻文彦さんの言海を見るに下のやうな註釈がついてゐる。
「ほくろ」黒子、黶子(愚管抄には「ははくろ」とあり、「ははくそ」の転。その再転化なり。)古くは「ハハクソ」今又「ホクソ」人の皮膚に生じて小さく黒く点を為せるもの」としてある。そのやうに「ははくそ」「ホクソ」であつて、つまり「くそ」なのである。
処がほくろは西洋では「くそ」どころではない。大切なものである。その名からして艶麗である。西洋では「ほくろ」のことをグレン・ド・ボーテ(〔grain de beaute'〕)と云ふ。翻訳すれば、「美の豆粒」と云ふのである。嗚呼何と美しい名ではないか、「美の豆粒」とは!
だから西洋では日本のやうにそれを抜き取るどころではなく、否却て是を大切にするのである。若し生れつき「ほくろ」のない婦人方は、人工的に是を模造してその顔面に黏置するのである。
この人工的のほくろのことをフランス語では「ムーシユ」といふ。「ムーシユ」とは「蝿」と云ふ意義である。白い美しい顔の上の黒一点は、恰も白磁の花瓶に一匹の蝿がとまつたやうだといふ形容から来たものださうである。何ものでも美化して形容したり命名したりする処が如何にもフランス人らしくて好いではないか?
さてその人工的「ほくろ」、即ち「ムーシユ」とはどんなものかと云ふに、黒色に染めたタフタ(薄地の帛)を天然のほくろの大きさに似せて、小さな円い形に切つたものである。而してその裏面には絆創膏に似たやうな薬品が塗つてある。だから一度顔面に貼り著ければ、容易(たや)すく剥げ落ちるやうな気遣ひはない。
今その起原を尋ねて見るに、以前欧羅巴でまだ種痘術の発明せられなかつた昔に在つては、天然痘の為に動もすれば顔面に痘痕の残つてゐた婦人方が少くなかつた。それ等の貴婦人達がその痘痕を巧みに隠す事を色々と工夫して、終に「ムーシユ」を発明したものだと云ふ事である。その皮膚の白いこと雪を欺くばかりの美しい顔に、一点黒色の「ムーシユ」を附著して見た処が、黒と白とのコントラスト、即ち反対色の効果の為めに、白色はますます白く見へて美人の容色が一段と引立つて見へるので、我も我もと是を真似る婦人が多くなつて、遂には痘痕も何にもない婦人まで「ムーシユ」を用ゐるやうになつて、そこで「ムーシユ」の大流行となつたものであると云ふことである。そしてそれを始めたのがイタリヤである。イタリヤでは、随分昔からその風が行はれてゐたものだと云ひ伝へられてゐる。
それが十六世紀に始めてフランスに伝播し、十七世紀十八世紀の頃、特にルヰ十五世時代にはフランスに於て大々的の流行となつて、上下貴賤の差別なく婦人と云ふ婦人は化粧用として皆この「ムーシユ」を用ゐたもので、実に「ムーシユ」の全盛期とされてゐる。
その当時の「ムーシユ」の著け方は、今とは大分異つてゐるのである。当時の「ムーシユ」の著け方を見るに少くとも必ず三点以上としてあつたものである。左の目の上に二つ。右の目の上に一つ。これは是非とも著けることになつてゐた。この外に頬部に著ける分は各自の好き好きに随つて二つでも三つでも御勝手次第としてあつた。今に残つてゐるその頃の美人画を見るに、折角美くしい顔面に五つも六つも「ムーシユ」を貼り附けたのがあるが、今から見ると、ただただ奇異なと云ふ感じを起させる位のものであるが、併し流行と云ふものは不思議な力を持つてゐるもので、それが流行(はやり)だと云ふことになると、どんなに不思議な、妙な、変てこな衣裳でも、髪の形でも、お化粧の仕方でも、その当時の人にはそれが美くしく見えたのである。フランス大革命時代に流行した「アンクロワイヤーブル」(その名からして『本当とは思はれぬ』と云ふ意味だ。)の服装などは、最も好い一例だと思はれる。
概して、西洋の婦人方が流行を追ふことに浮身を窶す有様は、我々東洋人から見ると狂気の沙汰ではないかと思はれる程猛烈なものである。フランスのある学者が『若し倒立(さかだち)して歩(ある)くことが「流行(モード)」となつたとしたら、欧羅巴の婦人は些の躊躇もなく、みなそれを真似るだらう』と言うたことがあるが、これは多少皮肉ではあるが、西洋婦人の流行を追ふ心理状態を巧みに言ひ現はした言葉だと思はれる。「ムーシユ」もこの流行心理の作用で、十八世紀頃には大変はやつたもので即ち時粧となつたのである。
今では「ムーシユ」の流行は大分|衰(すた)つたやうだが、併しまだ全く無くなつたわけではない。今でも古典的(クラシツク)な舞踊、例へばムニユイ又は西班牙踊を踊る時には必ずこれを著けることになつてゐるやうである。又|平常(ふだん)でも艶美を増す為めに是を用ゐる婦人も少なくはない。だから巴里あたりの化粧品の商店には大小色々な形をした「ムーシユ」を売つてゐる。而してその「ムーシユ」の色合にも深黒、青黒、浅黒などと種々変つたのがある。婦人方は自分の皮膚の色や目の色や髪の毛の色などとその調和を保つに最も適した色合、即ち自分に一番よく似合ふ「ムーシユ」を撰んで是を貼附するのである。
併し現今では、「ムーシユ」の著け方は一八世紀頃とは大変違つてゐて、眼上三点の法則などに遵ふものは全くない。今では二つ以上は著けないやうだ。
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