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栗の花の咲くころ - 佐左木 俊郎 ( ささき としろう )

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     一  暗欝(あんうつ)な空が低く垂れていて家の中はどことなく薄暗かった。父親の嘉三郎(かさぶろう)は鏡と剃刀(かみそり)とをもって縁側(えんがわ)へ出て行った。併し、縁側にも、暗い空の影が動いていて、植え込みの緑が板敷(いたじき)の上一面に溶けているのであった。
「それでも幾らか縁側の方がよさそうだで。」
 嘉三郎はそう呟くように言いながら、板敷へ直(じ)かに尻を据(す)えて、すぐ頬の無精髭(ぶしょうひげ)を剃りにかかった。
「お父(とっ)さん! 序(ついで)に、鼻の下の方も、剃ってしまいなせえよ。」
 障子(しょうじ)の中から母親松代がそう声をかけた。
「余計な口出しをするな!」
 嘉三郎は怒鳴るようにして言い返した。
「余計なことであるもんですかよ。いくら髭に税金がかからねえからって、何も、世間の物笑いにまでされて……」
笑いたい奴には笑わして置けばいいじゃねえか。俺には俺の考えがあるんだ。俺の気持ちが部落の奴等になどわかるもんか。」
お父さんがその気だから、美津(みつ)なんかだって、家にいられねえんだよね。そりゃあ、美津は、お嬢さんで育ったかも知んねえけど、今は現在(いま)なんだから、どこへだって嫁にやってしまいばよかったんですよ。それを、お父さんたら、昔のことばかり言って、美津や嘉津が(お嬢さんお嬢さんて!)言われていた時の気で髭ばかり捻(ひね)っているもんだから、結局、誰ももらい手が無くなってしまったんでねえかね。」
馬鹿っ! 貧乏はしても嘉三郎だぞ! そこえらの水呑(みずのみ)百姓縁組(えんぐみ)が出来ると思うのか! 痩せても枯れても庄屋の家だぞ。考えても見ろ! 何百人という人間を髭を捻(ひね)り稔り顎(あご)で使って来てる大請負師(おおうけおいし)だぞ。何は無くっても家柄(いえがら)ってものだけは残っているんだ。」
家柄家柄って、昔のことなど、幾ら言って見ても何になるべね。俊三郎(しゅんざぶろう)なんかも、家柄のために、なんぼ苦労しているだか。自分じゃあ気楽に百姓していたがるものを、お父さんが(俺家(おらがうち)の伜(せがれ)も東京勉強に出ていますがな!)って言って髭を稔っていてえばかりに、銭の一文も送れねえのに無理に苦学になど出してやって……」
 松代はそう涙声になりながら続けた。
馬鹿! 俊や美津のことなど言うなっ! 黙っていろ!」
 嘉三郎は又そう怒鳴った。それで二人の間の争いはぷっつりと消えた。重い沈黙がそして拡(ひろ)がって来た。
 そこへ庭から郵便配達が這入(はい)って来て、嘉三郎の膝のところへ、一通の封書をぽんと投げて行った。嘉三郎は髭を剃るのをやめて封書を取り上げた。そして、嘉三郎は、驚異の眼を※(みは)りながら、大急ぎで封を切った。

     二

 嘉三郎は手紙読みながら、咽喉(のど)をごくりごくりと鳴らして、何度も唾を嚥(の)み下した。そのうちに両手がわなわなと顫(ふる)え出して来た。そして彼の眼頭(めがしら)には、ちかちかと涙さえ光って来た。
郵便が来たんじゃねえかね?」
 松代がそう言いながらそこへ出て来た。
「美津の畜生め!」
 嘉三郎は突然そう怒鳴って、手にしていた手紙を滅茶滅茶(めちゃめちゃ)に引き裂いた。
「何をするんだね? お父(とっ)さんは! それで美津は、どこにいるんだね?」
「美津の畜生め? 俺の顔に泥を塗りやがって、いくらなんでも鼻の先にいべえとあ思わなかった。」
「美津はどこにいるんだね?」
「忠太郎野郎と一緒に高清水(たかしみず)にいやがるで、忠太の恩知らず野郎め! 泥足で俺の顔を踏みつけやがって。」
「忠太郎と一緒にいるのかね? 最初からそんなような気がしていたよ。忠太郎ならいいじゃねえかね?」
馬鹿!」
 嘉三郎はまたそう怒鳴った。そして髭を剃るのをやめて、黙々(もくもく)と、炉端(ろばた)へ行って坐った。松代は怖々(おずおず)と、炉端へ寄って行った。そしてお互いにしばらく凝(じ)っと黙っていた。嘉三郎は眼を伏せるようにして、溜め息をつきながら炉の上に屈み込んでいたが、灰の上にぽとりと涙が落ちた。嘉三郎は、涙をそっと押し隠すようにしながら静かに顔を上げた。
「松! 着物を出せ!」
 嘉三郎は厳粛(げんしゅく)な調子で言って、固く唇を結んだ。
着物をね? 忠太郎と一緒なら、行かねえで、構わねえで置いたらいいじゃねえかね。美津が好きで一緒になっているものなら。」
「投げて置けるか? 早く着物を出せ! 畜生共め!」
「好きで一緒になって、どうやら暮らしているのなら、構わねえで置けばいいものを……」
 松代はそう独り言のように呟(つぶや)きながら着物を出して来た。
暮らしがつかねえでるのだ。忠太は何も仕事がねえのに、美津は美津で、病気をして寝てるってんだ。畜生共め!いっそのこと死んでしめえばいいんだ。俺の顔さ泥を塗りやがって。」
 嘉三郎はそう言ってもう一度そこへ坐った。


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