植物人間 - 蘭 郁二郎 ( )
一
鬱蒼と膨れあがって見える雑木の森が、左右から迫っている崖に地肌も見えぬばかり覆いかぶさっていた。なんとなく空気までもが、しっとりとした重みを持っているようにさえ思われる。いかにも南国らしい眩しく輝く太陽も、幾重にも繁った葉や枝や幹に遮られて川島の足許に落ちて来るまでにはすっかり弱められていた。
川島は、両肩に喰い込んで来るリュックサックを、時々ゆすり上げるようにしながら、舌打ちをまぜて歩いていた。どうやら道を間違えてしまったらしいのだ。
南紀の徒歩旅行を思い立って田辺町から会津川を遡り、奇岩怪峰で有名な奇絶峡を見、あれから山を越して清姫の遺跡をたずねたまではよかったのだけれど、それから熊野川上流の九里峡にまで出る道のりを、自動車道路に沿って行くというのではなんとなく平々凡々すぎるように思われて、不図道を右に折れてみたのが、どうやら失敗の原因らしかった。
行くにつれて、何時しか小径は木立の間に消え失せ、地肌という地肌は、降りつもった朽葉にすっかり覆われてしまっていて、未だかつて人類などというものが踏んだこともないように、ふかふかと足を吸い込んでしまう始末だった。
しかし川島は、その実あまり弱ってもいなかった。少々ぐらいの道の迷いやそれについての苦労ならば、却って後までもハッキリした思い出になってくれるものである。バスで素通りしたところよりも、靴の底が口をあけてしまって藁で縛り乍ら引ずって歩いたところの方が、寧ろあとでは愉しい道なのだ。殊に暦の上の秋は来ても、この南国紀伊の徒歩旅行では、たとえ道に迷わなくとも野宿の一晩ぐらいはするつもりでいたのだ。リュックサックにも、その位の用意はしてある。
だから川島は、いくら道に迷っても、自分自身を遭難者だとは思っていなかった。舌打ちしながらも、何処か心の隅では
(到頭迷ってしまったぞ――)
といったような、期待めいた感じすら持っていたのだった。
あたりは、防音室の中にいるように、物静かだった。たまに立止って、どちらへ進もうかと木立の繁みのなかを見廻すのだが、そんな時でも稀に名も知らぬ小鳥が奇妙な喘(な)き声をするのを耳にとらえるくらいのもので、蝉の声すらもまったく聴えなかった。あたりに鬱蒼と立罩(たちこ)める松、杉、櫟、桜、そのほか様々な木々は、それぞれに思いのままに幹を伸ばし、枝を張り、葉をつけて空を覆っていた。その逞しさは、尠くとも都会の街路樹などとは比べものにならぬ水々しい樹肌を持ってい、而も思い思いの木の体臭を振撒いていた。
だが、川島のこの舌打ちの出る愉しい遭難は、二時間たらずで終りが見えたように思われた。
というのは、相当に急な崖を下(くだ)りはじめると、木の間もれに、向うからも崖が迫っているのが見え、そして、その下の方に光った水が見えはじめたからである。若しそれが渓流ならば、それに従って下って行けば自然に人家のあるところに出られるのは、山道を歩く場合の殆んど常識といってもよかったからである。
川島は、深山幽谷のつもりで跋渉(ばっしょう)して来たところが、突然、お屋敷の裏庭に飛出してしまった時のような、むしろ飽気(あっけ)なさを覚えながら、下って行った。しかし、間もなくその光っているのは水ではあるが、流れではないのに気がついた。視界が広まるにつれて、その水の面(おもて)も亦広がって行くのだ。
それは、こんなところに想像もしていなかった沼だった。そしてその沼の面は、まるで一面に苔蒸したように青みどろに覆われ、ねっとりとしたゼリーのように漣一つ立ててはいなかった。
川島は、水際まで下りる前に、朽ち倒れた松に腰をかけながら、その眼の下にひろがっている沼を見渡した。沼はなかなかの広さと得体の知れぬ深さをもっているように思われた。しかも、念のためポケットに捻込んで置いた地図を引張り出して見たのだが、どうしたことか、最初の分れ道の辺から二時間ぐらいの間に迷ったと思われるあたりをいくら探して見ても、一向に沼のあるような印はつけられていないのだ。
尠くとも、今迄は相当に微細な小径まで符合していた地図が、この沼に限ってそれを全然落している、というのも可怪(おか)しなことだった。――或は、この沼は、地図が測量された以後に、多量の雨水が溜って出来たのかも知れないが、それにしても測量の時までは沼となる痕跡すらもなかったらしいのは奇妙である。
川島は、其処の倒れた松に腰かけて一ぷくしながら、緑(あお)いゼリーのような、地図に無い沼を見下(みおろ)していたが、やがて煙草を棄てて水際までおりて行った。
思ったより広い沼だった。ざっとした目分量では五百坪ぐらいもあるように思われた。そして水際まで降りて行っても、水の底は見えなかった。びっしりと緑い絨毯を敷詰めたように微生物が水の表面を覆っているのだ。その上四方は鬱蒼とした森を持った崖が迫っていて、これだけの広さだのに、輝くような日光の直射を受けているのは、沼のほぼ中央の、ほんの一部分だった。そしてそこは緑い微生物の群のために膨れ上っているように見え、本当に明るいのはその部分だけで、そこから遠ざかるにつれて薄暗く、向う岸などは此処から見ると藍色味を帯びているように見えた。子供の時に聞いた魔の沼のようであった。
が、そうして、あたりを見廻していた川島の好奇な眼に、思いがけないものが飛込んだのだ。それは、左手の方の一寸入り込んだ水際につながれているボートだった。ボートというよりもボートと小舟の折衷のような、早くいえば無細工至極なものだったけれど、兎も角そうしたものがある以上、近所にこの沼を利用している人間が住んでいることは間違いもないことだ。
地図に無い沼を偶然に発見して、ハイカーらしく胸を躍らせていた川島は、見事に肩すかしを喰ったような気持だった。
(しかし……)
川島は、道のない水際をそのボートの方に歩きながら考えた。この沼には魚の類は一つもいないようだ。――若しいるとすれば、魚にとって絶好な食物の緑い微生物が、これほどまで自由に繁茂し、沼全体を占めてしまうわけがない。とするとそのボートは人間が魚をとるために使うものではなさそうである。
二
とにかくそのボートのつないであるところに行けば、人間の来る小径がついているであろうと、ともすれば足許の滑りそうな水際を踏しめながら進んで行き、沼の面とすれすれに横に匍い出た大きな紅葉の幹を乗越えた時だった。
今度こそ川島は、流石にギョッと眼を※(みは)ってしまったのだ。
その入り込んだ蔭になっていたボートの艫(とも)に、これこそ全く思いもかけなかった少女が独り、真正面(まとも)にこちらを向いたまま腰をおろしているのである。
川島は、両肩に喰い込んで来るリュックサックを、時々ゆすり上げるようにしながら、舌打ちをまぜて歩いていた。どうやら道を間違えてしまったらしいのだ。
南紀の徒歩旅行を思い立って田辺町から会津川を遡り、奇岩怪峰で有名な奇絶峡を見、あれから山を越して清姫の遺跡をたずねたまではよかったのだけれど、それから熊野川上流の九里峡にまで出る道のりを、自動車道路に沿って行くというのではなんとなく平々凡々すぎるように思われて、不図道を右に折れてみたのが、どうやら失敗の原因らしかった。
行くにつれて、何時しか小径は木立の間に消え失せ、地肌という地肌は、降りつもった朽葉にすっかり覆われてしまっていて、未だかつて人類などというものが踏んだこともないように、ふかふかと足を吸い込んでしまう始末だった。
しかし川島は、その実あまり弱ってもいなかった。少々ぐらいの道の迷いやそれについての苦労ならば、却って後までもハッキリした思い出になってくれるものである。バスで素通りしたところよりも、靴の底が口をあけてしまって藁で縛り乍ら引ずって歩いたところの方が、寧ろあとでは愉しい道なのだ。殊に暦の上の秋は来ても、この南国紀伊の徒歩旅行では、たとえ道に迷わなくとも野宿の一晩ぐらいはするつもりでいたのだ。リュックサックにも、その位の用意はしてある。
だから川島は、いくら道に迷っても、自分自身を遭難者だとは思っていなかった。舌打ちしながらも、何処か心の隅では
(到頭迷ってしまったぞ――)
といったような、期待めいた感じすら持っていたのだった。
あたりは、防音室の中にいるように、物静かだった。たまに立止って、どちらへ進もうかと木立の繁みのなかを見廻すのだが、そんな時でも稀に名も知らぬ小鳥が奇妙な喘(な)き声をするのを耳にとらえるくらいのもので、蝉の声すらもまったく聴えなかった。あたりに鬱蒼と立罩(たちこ)める松、杉、櫟、桜、そのほか様々な木々は、それぞれに思いのままに幹を伸ばし、枝を張り、葉をつけて空を覆っていた。その逞しさは、尠くとも都会の街路樹などとは比べものにならぬ水々しい樹肌を持ってい、而も思い思いの木の体臭を振撒いていた。
だが、川島のこの舌打ちの出る愉しい遭難は、二時間たらずで終りが見えたように思われた。
というのは、相当に急な崖を下(くだ)りはじめると、木の間もれに、向うからも崖が迫っているのが見え、そして、その下の方に光った水が見えはじめたからである。若しそれが渓流ならば、それに従って下って行けば自然に人家のあるところに出られるのは、山道を歩く場合の殆んど常識といってもよかったからである。
川島は、深山幽谷のつもりで跋渉(ばっしょう)して来たところが、突然、お屋敷の裏庭に飛出してしまった時のような、むしろ飽気(あっけ)なさを覚えながら、下って行った。しかし、間もなくその光っているのは水ではあるが、流れではないのに気がついた。視界が広まるにつれて、その水の面(おもて)も亦広がって行くのだ。
それは、こんなところに想像もしていなかった沼だった。そしてその沼の面は、まるで一面に苔蒸したように青みどろに覆われ、ねっとりとしたゼリーのように漣一つ立ててはいなかった。
川島は、水際まで下りる前に、朽ち倒れた松に腰をかけながら、その眼の下にひろがっている沼を見渡した。沼はなかなかの広さと得体の知れぬ深さをもっているように思われた。しかも、念のためポケットに捻込んで置いた地図を引張り出して見たのだが、どうしたことか、最初の分れ道の辺から二時間ぐらいの間に迷ったと思われるあたりをいくら探して見ても、一向に沼のあるような印はつけられていないのだ。
尠くとも、今迄は相当に微細な小径まで符合していた地図が、この沼に限ってそれを全然落している、というのも可怪(おか)しなことだった。――或は、この沼は、地図が測量された以後に、多量の雨水が溜って出来たのかも知れないが、それにしても測量の時までは沼となる痕跡すらもなかったらしいのは奇妙である。
川島は、其処の倒れた松に腰かけて一ぷくしながら、緑(あお)いゼリーのような、地図に無い沼を見下(みおろ)していたが、やがて煙草を棄てて水際までおりて行った。
思ったより広い沼だった。ざっとした目分量では五百坪ぐらいもあるように思われた。そして水際まで降りて行っても、水の底は見えなかった。びっしりと緑い絨毯を敷詰めたように微生物が水の表面を覆っているのだ。その上四方は鬱蒼とした森を持った崖が迫っていて、これだけの広さだのに、輝くような日光の直射を受けているのは、沼のほぼ中央の、ほんの一部分だった。そしてそこは緑い微生物の群のために膨れ上っているように見え、本当に明るいのはその部分だけで、そこから遠ざかるにつれて薄暗く、向う岸などは此処から見ると藍色味を帯びているように見えた。子供の時に聞いた魔の沼のようであった。
が、そうして、あたりを見廻していた川島の好奇な眼に、思いがけないものが飛込んだのだ。それは、左手の方の一寸入り込んだ水際につながれているボートだった。ボートというよりもボートと小舟の折衷のような、早くいえば無細工至極なものだったけれど、兎も角そうしたものがある以上、近所にこの沼を利用している人間が住んでいることは間違いもないことだ。
地図に無い沼を偶然に発見して、ハイカーらしく胸を躍らせていた川島は、見事に肩すかしを喰ったような気持だった。
(しかし……)
川島は、道のない水際をそのボートの方に歩きながら考えた。この沼には魚の類は一つもいないようだ。――若しいるとすれば、魚にとって絶好な食物の緑い微生物が、これほどまで自由に繁茂し、沼全体を占めてしまうわけがない。とするとそのボートは人間が魚をとるために使うものではなさそうである。
二
とにかくそのボートのつないであるところに行けば、人間の来る小径がついているであろうと、ともすれば足許の滑りそうな水際を踏しめながら進んで行き、沼の面とすれすれに横に匍い出た大きな紅葉の幹を乗越えた時だった。
今度こそ川島は、流石にギョッと眼を※(みは)ってしまったのだ。
その入り込んだ蔭になっていたボートの艫(とも)に、これこそ全く思いもかけなかった少女が独り、真正面(まとも)にこちらを向いたまま腰をおろしているのである。
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