業苦 - 嘉村 礒多 ( かむら いそた )
只、假初(かりそめ)の風邪だと思つてなほざりにしたのが不可(いけな)かつた。たうとう三十九度餘りも熱を出し、圭一郎(けいいちらう)は、勤め先である濱町(はまちやう)の酒新聞社を休まねばならなかつた。床に臥(ふ)せつて熱に魘(うな)される間も、主人の機嫌を損じはしまいかと、それが譫言(うはごと)にまで出る程絶えず惧(おそ)れられた。三日目の朝、呼び出しの速達が來た。熱さへ降れば直ぐに出社するからとあれだけ哀願して置いたものを、さう思ふと他人の心の情なさに思はず不覺の涙が零(こぼ)れるのであつた。
「僕出て行かう」
圭一郎は蒲團から匍(は)ひ出たが、足がふら/\して眩暈(めまひ)を感じ昏倒しさうだつた。
千登世(ちとせ)ははら/\し、彼の體躯(からだ)につかまつて「およしなさい。そんな無理なことなすつちや取返しがつかなくなりますよ」と言つて、圭一郎を再(ふたゝび)寢かせようとした。
「だけど、馘首(くび)になるといけないから」
千登世は兩手を彼の肩にかけたまゝ、亂れ髮に蔽(おほ)はれた蒼白い瓜實顏(うりざねがほ)を胸のあたりに押當てて、※(しやく)りあげた。「ほんたうに苦勞させるわね。すまない……」
「泣いちや駄目。これ位の苦勞が何んです!」
斯う言つて、圭一郎は即座に千登世を抱き締め、あやすやうにゆすぶり又背中を撫でてやつた。彼女は一層深く彼の胸に顏を埋め、獅噛(しが)みつくやうにして肩で息をし乍ら猶(なほ)暫らく歔欷(すゝりなき)をつゞけた。
冷(ひや)の牛乳を一合飮み、褞袍(どてら)の上にマントを羽織り、間借して居る森川町新坂上の煎餅屋(せんべいや)の屋根裏を出て、大學正門前から電車に乘つた。そして電柱に靠(もた)れて此方を見送つてゐる千登世と、圭一郎も車掌臺の窓から互ひに視線を凝(ぢ)つと喰ひ合してゐたが、軈(やが)て、風もなく麗かな晩秋の日光を一ぱいに浴びた靜かな線路の上を足早に横切る項低(うなだ)れた彼女の小さな姿が幽かに見えた。
永代橋(えいたいばし)近くの社に着くと、待構へてゐた主人と、十一月二十日發行の一面の社説についてあれこれ相談した。逞しい鍾馗髯(しようきひげ)を生やした主人は色の褪(あ)せた舊式のフロックを着てゐた。これから大阪で開かれる全國清酒品評會への出席を兼ねて伊勢參宮をするとのことだつた。猶それから白鷹(はくたか)、正宗、月桂冠壜詰の各問屋主人を訪ひ業界の霜枯時に對する感想談話を筆記して來るやうにとのことをも吩咐(いひつ)けて置いてそしてあたふたと夫婦連で出て行つた。
主人夫婦を玄關に送り出した圭一郎は、急いで二階の編輯室に戻つた。仕事は放擲(うつちや)らかして、机の上に肘を突き兩掌でぢくり/\と鈍痛を覺える頭を揉んでゐると、女中がみしり/\梯子段(はしごだん)を昇つて來た。
「大江さん、お手紙」
「切拔通信?」
「いゝえ。春子より、としてあるの、大江さんのいゝ方でせう。ヒツヒツヒヽ」
圭一郎は立つて行つた、それを女中の手から奪ふやうにして※(も)ぎ取つた。痘瘡(もがさ)の跡のある横太りの女中は巫山戲(ふざけ)てなほからかはうとしたが、彼の不愛嬌な顰(しか)め面を見るときまりわるげに階下へ降りた。そして、も一人の女中と何か囁き合ひ哄然(どつ)と笑ふ聲が聞えて來た。
圭一郎は胸の動悸を堪へ、故郷の妹からの便りの封筒の上書を、充血した眼でぢつと視つめた。
圭一郎は遠いY縣の田舍に妻子を殘して千登世と駈落ちしてから四ヶ月の月日が經つた。最初の頃、妹は殆ど三日にあげず手紙を寄越し、その中には文字のあまり達者でない父の代筆も再三ならずあつた。彼はそれを見る度見る度に針を呑むやうな呵責(かしやく)の哀しみを繰返す許りであつた。身を切られるやうな思ひから、時には見ないで反古(ほご)にした。返事も滅多に出さなかつたので、近頃妹の音信(たより)もずゐぶん遠退いてゐた。圭一郎は今も衝動的に腫物(はれもの)に觸るやうな氣持に襲はれて開封(ひら)くことを躊躇(ちうちよ)したが、と言つて見ないではすまされない。彼は入口のところまで行つて少時(しばらく)階下の樣子を窺ひ、それから障子を閉めて手紙をひらいた。
なつかしい東京のお兄さま。朝夕はめつきり寒さが加はりましたが恙(つゝが)もなくご起居あそばしますか。いつぞやは頂いたお手紙で、お兄さまを苦しめるやうな便りを差し上げては不可(いけない)とあんなにまで仰云(おつしや)いましたけれ共、お兄さまのお心を痛めるとは十分存じながらも奈何(どう)しても書かずにはすまされません。それかと申して何から書きませうか。書くことがあまりに多い。……
お父さまは一週間前から感冒に罹(かゝ)られてお寢(よ)つてゐられます。それに持病の喘息(ぜんそく)も加つて昨今の衰弱は眼に立つて見えます。こゝのとこ毎日安藤先生がお來診(みえ)になつてカルシウムの注射をして下さいます。何んといつてもお年がお年ですからそれだけに不安でなりません。お父さまの苦しさうな咳聲を聞くたびにわたくし生命の縮まる思ひがされます。「俺が生きとるうちに何んとか圭一郎の始末をつけて置いてやらにやならん」と昨日も病床で仰云いました。腹這ひになつてお粥(かゆ)を召上り乍ら不圖(ふと)思ひ出したやうに「圭一郎はなんとしとるぢやろ」と言はれると、ひとり手にお父さまの指から箸が辷り落ちます。夜は十二時、一時になつても奧のお座敷からお父さまお母さまの密々話(ひそ/\ばなし)の聲が洩れ聞えます。お兄さまも時にはお父さまに優しい慰めのお玉章(てがみ)差上て下さい。切なわたくしのお願ひです。お父さまがどんなにお兄さまのお便りを待つていらつしやるかといふことは、お兄さまには想像もつきますまい。
「僕出て行かう」
圭一郎は蒲團から匍(は)ひ出たが、足がふら/\して眩暈(めまひ)を感じ昏倒しさうだつた。
千登世(ちとせ)ははら/\し、彼の體躯(からだ)につかまつて「およしなさい。そんな無理なことなすつちや取返しがつかなくなりますよ」と言つて、圭一郎を再(ふたゝび)寢かせようとした。
「だけど、馘首(くび)になるといけないから」
千登世は兩手を彼の肩にかけたまゝ、亂れ髮に蔽(おほ)はれた蒼白い瓜實顏(うりざねがほ)を胸のあたりに押當てて、※(しやく)りあげた。「ほんたうに苦勞させるわね。すまない……」
「泣いちや駄目。これ位の苦勞が何んです!」
斯う言つて、圭一郎は即座に千登世を抱き締め、あやすやうにゆすぶり又背中を撫でてやつた。彼女は一層深く彼の胸に顏を埋め、獅噛(しが)みつくやうにして肩で息をし乍ら猶(なほ)暫らく歔欷(すゝりなき)をつゞけた。
冷(ひや)の牛乳を一合飮み、褞袍(どてら)の上にマントを羽織り、間借して居る森川町新坂上の煎餅屋(せんべいや)の屋根裏を出て、大學正門前から電車に乘つた。そして電柱に靠(もた)れて此方を見送つてゐる千登世と、圭一郎も車掌臺の窓から互ひに視線を凝(ぢ)つと喰ひ合してゐたが、軈(やが)て、風もなく麗かな晩秋の日光を一ぱいに浴びた靜かな線路の上を足早に横切る項低(うなだ)れた彼女の小さな姿が幽かに見えた。
永代橋(えいたいばし)近くの社に着くと、待構へてゐた主人と、十一月二十日發行の一面の社説についてあれこれ相談した。逞しい鍾馗髯(しようきひげ)を生やした主人は色の褪(あ)せた舊式のフロックを着てゐた。これから大阪で開かれる全國清酒品評會への出席を兼ねて伊勢參宮をするとのことだつた。猶それから白鷹(はくたか)、正宗、月桂冠壜詰の各問屋主人を訪ひ業界の霜枯時に對する感想談話を筆記して來るやうにとのことをも吩咐(いひつ)けて置いてそしてあたふたと夫婦連で出て行つた。
主人夫婦を玄關に送り出した圭一郎は、急いで二階の編輯室に戻つた。仕事は放擲(うつちや)らかして、机の上に肘を突き兩掌でぢくり/\と鈍痛を覺える頭を揉んでゐると、女中がみしり/\梯子段(はしごだん)を昇つて來た。
「大江さん、お手紙」
「切拔通信?」
「いゝえ。春子より、としてあるの、大江さんのいゝ方でせう。ヒツヒツヒヽ」
圭一郎は立つて行つた、それを女中の手から奪ふやうにして※(も)ぎ取つた。痘瘡(もがさ)の跡のある横太りの女中は巫山戲(ふざけ)てなほからかはうとしたが、彼の不愛嬌な顰(しか)め面を見るときまりわるげに階下へ降りた。そして、も一人の女中と何か囁き合ひ哄然(どつ)と笑ふ聲が聞えて來た。
圭一郎は胸の動悸を堪へ、故郷の妹からの便りの封筒の上書を、充血した眼でぢつと視つめた。
圭一郎は遠いY縣の田舍に妻子を殘して千登世と駈落ちしてから四ヶ月の月日が經つた。最初の頃、妹は殆ど三日にあげず手紙を寄越し、その中には文字のあまり達者でない父の代筆も再三ならずあつた。彼はそれを見る度見る度に針を呑むやうな呵責(かしやく)の哀しみを繰返す許りであつた。身を切られるやうな思ひから、時には見ないで反古(ほご)にした。返事も滅多に出さなかつたので、近頃妹の音信(たより)もずゐぶん遠退いてゐた。圭一郎は今も衝動的に腫物(はれもの)に觸るやうな氣持に襲はれて開封(ひら)くことを躊躇(ちうちよ)したが、と言つて見ないではすまされない。彼は入口のところまで行つて少時(しばらく)階下の樣子を窺ひ、それから障子を閉めて手紙をひらいた。
なつかしい東京のお兄さま。朝夕はめつきり寒さが加はりましたが恙(つゝが)もなくご起居あそばしますか。いつぞやは頂いたお手紙で、お兄さまを苦しめるやうな便りを差し上げては不可(いけない)とあんなにまで仰云(おつしや)いましたけれ共、お兄さまのお心を痛めるとは十分存じながらも奈何(どう)しても書かずにはすまされません。それかと申して何から書きませうか。書くことがあまりに多い。……
お父さまは一週間前から感冒に罹(かゝ)られてお寢(よ)つてゐられます。それに持病の喘息(ぜんそく)も加つて昨今の衰弱は眼に立つて見えます。こゝのとこ毎日安藤先生がお來診(みえ)になつてカルシウムの注射をして下さいます。何んといつてもお年がお年ですからそれだけに不安でなりません。お父さまの苦しさうな咳聲を聞くたびにわたくし生命の縮まる思ひがされます。「俺が生きとるうちに何んとか圭一郎の始末をつけて置いてやらにやならん」と昨日も病床で仰云いました。腹這ひになつてお粥(かゆ)を召上り乍ら不圖(ふと)思ひ出したやうに「圭一郎はなんとしとるぢやろ」と言はれると、ひとり手にお父さまの指から箸が辷り落ちます。夜は十二時、一時になつても奧のお座敷からお父さまお母さまの密々話(ひそ/\ばなし)の聲が洩れ聞えます。お兄さまも時にはお父さまに優しい慰めのお玉章(てがみ)差上て下さい。切なわたくしのお願ひです。お父さまがどんなにお兄さまのお便りを待つていらつしやるかといふことは、お兄さまには想像もつきますまい。
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