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樹木とその葉 34 地震日記 - 若山 牧水 ( わかやま ぼくすい )

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樹木とその葉 地震日記  伊豆半島西海岸、古宇(こう)村、宿屋大谷屋の二階のことである。九月一日正午
 その日の晝食はいつもより少し早かつた。數日前支那旅行の歸りがけにわざ/\其處まで訪ねて來て呉れた地崎喜太郎君が上海からの土産物の極上ウヰスキイを二三杯食前に飮んだのがきいて、まだ膳も下げぬ室内に仰臥してうと/\と眠りかけてゐた。
 其處へぐら/\ツと來たのであつた。
 生來の地震嫌ひではあるが、何しろ半分眠つてゐたのではあるし、普通ありふれたもの位ゐにしか考へずに、初めは起上る事もしなかつた。ところが不圖(ふと)見ると廊下の角に當る柱が眼に見えて斜めになり、且つそれから直角に渡された雙方の横木がぐつと開いてゐるのに氣がついた。
 とおもふと私は横つ飛びに階子段の方へ飛び起きた。同時に階下の納戸(なんど)の方で内儀
『二階の旦那!』
 と叫ぶ金切聲が耳に入つた。が、その時にはその人より私の方がよつぽど速く前の庭にとび出してゐた。
 すると、ゴウツ、といふ異樣な音響四方の空に鳴り渡るのを聞いた。見れば目の前の小さな入江向うの崎の鼻が赤黒い土煙を擧げて海の中へ崩れ落つるところであつた。オヤオヤと見詰めてゐるとツイ眼下の、宿から隣家の醫師宅にかけて庭の塀下を通つてゐる道路が大きな龜裂を見せ、見る/\石垣が裂けて波の中へ壞れて行つた。
 これは異常地震である、と漸く意識をとり返してゐるところへ、また次の震動が來た。地響とか山鳴とかいふべき氣味の惡いどよみが再び空の何處からか起つて來た。村人の擧ぐる叫びがそれに續いてその小さな入江の山蔭からわめき起つた。
 三度、四度と震動が續いた。そのうち隣家醫師宅の石塀の倒れ落つる音がした。それこれを見てゐるうちに先づ私の心を襲うたものはツイ眼下から押し廣まつて行つてゐる海であつた。海嘯(つなみ)であつた。
 不思議にも波はぴたりと凪いでゐた。その日は朝からの風で、道路下の石垣に寄する小波の音が斷えずぴたり/\と聞えてゐたのだが、耳を立てゝもしいんとしてゐる。そして海面一帶がかすかに泡だつた樣に見えて來た。驚いた事にはさうして音もなく泡だつてゐるうちに、ほんの二三分の間に、海面はぐつと高まつてゐるのであつた。約一個月の間見て暮した宿屋の前の海に五つ六つの岩が並び、滿潮の時にはそのうちの四つ五つは隱れても唯だ一つだけ必ず上部一二尺を水面から拔き出してゐる一つの岩があつたが、氣がつけばいつかそれまで水中に沒してゐる。
『此奴は危險だ!』
 私は周圍の人に注意した。そしてまさかの時にどういふ風に逃げるべきかと、家の背後から起つて居る山の形に眼を配つた。
 海の水はいつとなく濁つてゐた。そして向う一帶の入江にかけて滿々と滿ちてゐたが、やがて、「ざァつ」といふ音を立つると共に一二町ほどの長さの瀬を作つて引き始めた。ずつと濱の上の方に引きあげてあつた漁船もいつかその異常な滿潮にゆら/\と浮いてゐたのであつたが、急激な落ち潮に忽ち纜(ともづな)を斷たれて悠々と沖の方へ流れてゆく一つ二つが見えた。あれほど常(つね)平生(へいぜい)船を大事にする濱の人たちも、それを見ながら誰一人どうしようといふ者がなかつた。
 さうした景色を見ながら直ぐ心に來たのは沼津の留守宅の事であつた。四人の子供に、あの舊びはてた家屋、男手の少ないところでどうまごついてゐるであらうとおもふと、とてもぢつとしてゐられなかつた。この有樣では既に電報線のきく筈はないと思ひながらも、兎に角郵便局まで行つて見ようと尻を端折つた。數日前から階下の部屋に滯在してゐる群馬縣の社友生方吉次君も、
一人では心細いでせう、私もゆきませう。』
 と同じく裾をまくしあげた。
 郵便局は古宇村から一つの崎の鼻を曲つた向うの隣村|立保(たちほ)といふに在るのであつた。その鼻に沿うて海沿ひにゆく道路はツイ先刻第一震動と共に崩壞するのを眼前見てゐた。で、その崎山の峠を越えてゆく舊道があるといふことをフツと思ひ出して、それを越えてゆくことにした。
 古宇村は戸數六十戸ほどの、半農の漁村で、二つの崎山の間に一掴みに家が集つてゐるのである。その部落の間を通り拔けやうとすると、なんと敏速に逃げ出したことか、家といふ家がみな戸をあけすてたまゝ、屋内には早や一個の人影をも留めてゐなかつた。そしてずつと山の手寄り田圃の間に一かたまりに集つて海面に見入つてゐるのが見えた。
 部落通り拔けて舊道を登りにかゝると、其處には木立のたちこんだ間に、幾つかの龜裂の出來てゐるのが見えた。荒れ古びた小徑の草むらの中には先から先と大小の石塊が眞新しく轉げ落ちてゐた。とても徐歩する事が出來ず、小走りに走つてその山蔭の村立保へと降りて行つた。
 此處の龜裂は古宇より更にひどかつた。か細い女の身で大きな箪笥を横背負に背負ひ込んで山手の方へ青田中を急いでゐる者や、米俵を引つ擔いで走つてゐる若者などが入り亂れて見えてゐた。海岸の高みには老人たちが五六人額をあつめて遠くの海上を眺めてゐた。
 郵便局に行くと一人老人を廣い庭の眞中に寢かして、二三人の若い女が手に/\傘を持つてその周圍に日を遮つてゐた。病人らしかつた。


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