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- 池谷 信三郎 ( いけたに しんさぶろう )

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     1  人と別れた瞳のように、水を含んだ灰色の空を、大きく環を描きながら、伝書鳩の群が新聞社の上空を散歩していた。煙が低く空を這って、生活流れの上に溶(と)けていた。

 黄昏(たそがれ)が街の灯火に光りを添(そ)えながら、露路の末まで浸みて行った。
 雪解けの日の夕暮。――都会は靄の底に沈み、高い建物の輪郭が空の中に消えたころ、上層の窓にともされた灯が、霧の夜の灯台のように瞬(またた)いていた。
 果物屋の店の中は一面に曇った硝子(ガラス)の壁にとり囲まれ、彼が毛糸の襟巻(えりまき)の端で、何んの気なしにSと大きく頭文字を拭きとったら、ひょっこり靄の中から蜜柑(みかん)とポンカンが現われた。女の笑顔蜜柑の後ろで拗(す)ねていた。彼が硝子の戸を押してはいって行くと、女はつんとして、ナプキンの紙で拵(こしら)えた人形燐寸(マッチ)の火をつけていた。人形燃えながら、灰皿の中に崩れ落ちて行った。燐寸の箱が粉々に卓子(テーブル)の上に散らかっていた。

――遅かった。
――……
――どうかしたの?
――……
――クリイムがついていますよ、口の廻りに。
――そう?
――僕は窓を見ていると、あれが人間感情浪漫的にする麗(うるわ)しい象徴だと思うのです。
――そう?
――今も人のうようよと吐(は)きだされる会社の門を、僕もその一人となって吐きだされてきたのです。無数の後姿が、僕の前をどんどん追い越して、重なり合って、妙に淋しい背中の形を僕の瞳に残しながら、皆んなすいすいと消えて行くのです。街はひどい霧でね、その中にけたたましい電車の鈴(ベル)です自動車の頭灯(ヘッドライト)です。光りが廻ると、その輪の中にうようよと音もなく蠢(うごめ)く、ちょうど海の底魚群のように、人、人、人、人、……僕が眼を上げると、ほら、あすこのデパアトメントストオアね、もう店を閉じて灯火は消えているのです。建物の輪廓が靄の中に溶けこんで、まるで空との境が解らないのです。すると、ぽつんと思いがけない高い所に、たった一つ、灯がはいっているのです。あすこの事務室で、きっと残務をとっている人々なのでしょう。僕は、……
――まあ、お饒舌(しゃべ)りね、あんたは。どうかしてるんじゃない、今日
――どうしてです。
――だって、だって眼にいっぱい涙をためて。
――霧ですよ。霧が睫毛(まつげ)にたまったのです。
――あなたは、もう私と会ってくださらないおつもりなの?
――だって君は、どうしても、橋の向うへ僕を連れていってくれないんですもの。だから、……
 女はきゅうに黙ってしまった。彼女の顔に青いメランコリヤが、湖の面を走る雲の影のように動いて行った。しばらくして、
――いらっしてもいいのよ。だけど、……いらっしゃらない方がいいわ。

 町の外(はず)れに橋があった。橋の向うはいつでも霧がかかっていた。女はその橋の袂(たもと)へ来ると、きまって、さよなら、と言った。そうして振り返りもせずに、さっさと橋を渡って帰って行った。彼はぼんやりと橋の袂の街灯に凭(よ)りかかって、靄の中に消えて行く女の後姿を見送っている。女が口吟(くちずさ)んで行く「マズルカ」の曲に耳を傾けている。それからくるりと踵(くびす)を返して、あの曲りくねった露路の中を野犬のようにしょんぼりと帰ってくるのだった。
 炭火のない暗い小部屋の中で、シャツをひっぱりながら、あの橋の向うの彼女を知ることが、最近の彼の憧憬になっていた。だけど、女が来いと言わないのに、彼がひとりで橋を渡って行くことは、彼にとって、負けた気がしてできなかった。女はいつも定った時間に、蜜柑の後ろで彼を待っていた。女はシイカと言っていた。それ以外の名も、またどう書くのかさえも、彼は知らなかった。どうして彼女と識り合ったのかさえ、もう彼には実感がなかった。

     2

 夜が都会を包んでいた。新聞社屋上庭園には、夜風が葬式のように吹いていた。一つの黒い人影が、ぼんやりと欄干から下の街を見下していた。大通りに沿って、二条に続いた街灯の連りが、限りなく真直ぐに走って、自動車の頭灯(ヘッドライト)が、魚の動きにつれて光る、夜の海の夜光虫のように交錯していた。
 階下の工場で、一分間に数千枚の新聞紙を刷(す)りだす、アルバート会社製の高速輪転機が、附近二十余軒の住民を、不眠性神経衰弱に陥(おとしい)れながら、轟々(ごうごう)と廻転をし続けていた。
 油と紙と汗の臭いが、新大臣のお孫さんの笑顔だとか、花嫁の悲しげな眼差(まなざ)し、あるいはイブセン、蒋介石心中保険魔、寺尾文子、荒木又右衛門モラトリアム、……等といっしょに、荒縄でくくられ、トラックに積みこまれて、この大都会地方へつなぐいくつかの停車場へ向けて送りだされていた。だから彼が、まるで黒いゴム風船のように、飄然(ひょうぜん)とこの屋上庭園に上ってきたとて、誰も咎(とが)める人などありはしない。


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