死児変相 - 神西 清 ( じんざい きよし )
母上さま、――
久しくためらつてゐましたこの御報告の筆を、千恵はやうやく取りあげます。
じつは姉上のお身の上につき申しあぐべきことのあらましは、もう一月ほど前から大よその目当てはついてをりました。だのに千恵は、「わからない、わからない」と、先日の手紙でも申しあげ、またつい一週間前の短かい手紙にも繰りかへしました。それもこれも嘘でした。いいえ、嘘といふよりむしろ希望のやうなものでした。つまり千恵は、お母さまがそのうちいつか忘れておしまひになりはしまいかと、それを心頼みにしてゐたのでした。けれど一昨日いただいたお手紙(それは途中どこかで迷つてゐたらしく、十日あまりも日数がかかつてゐましたが――)の様子では、忘れておしまひになるどころか、なまじ御報告を一寸(ちょっと)のばしに延ばせば延ばすほど、却(かえ)つてますます御不安をつのらせるだけらしいことが、千恵にもよくよく呑(の)みこめました。三晩もかさねて、不吉な夢をごらんになつたのですね。それがどんな中身の夢だつたのか、お手紙には書いてありませんが、前後のお言葉から大よその察しのつかないものでもありません。そんな悪夢をまでごらんになるやうな母上を前にしては、千恵はもはや空しい希望を捨てなければなりません。それに、母上のあのお手紙をいただいたその明くる日――つまり昨日、まるで申し合はせでもしたやうに千恵がこの目であのやうなことを見てしまつた今となつては、もう何もかも有りのままに申しあげて、あとは宏大な摂理の御手に一切をおゆだねするほかないことを感じます。
………………………………………
ですが千恵のたどたどしい筆では、昨日見たことはもとよりのこと、姉上の身におこつた変りやうの一々を、ただしくお伝へする自信はとてもありません。ほんたうなら、たとへ二日でも三日でも休暇をとつて、人なみの帰省をし、ひと晩ゆつくり口づてから母上にお話しするのが一番にちがひありません。口づてならば曲りなりにも、なんとか見聞きしたことだけはお伝へできさうに思はれます。足りないところは顔色なり身ぶりなり、あるひは声音(こわね)なり涙なりが、補なひをつけてくれるでせうから。……信州の山かひは、さぞもう雪が深いことでせう。火燵(こたつ)もおきらひ、モンペもおきらひなお母さまが、どんなにしてこの冬を過ごされるのかと思ふと、居ても立つてもゐられないやうな気もし、同時にまた、クスリと笑ひだしたいやうな気持にもなります。お母さまにとつて、疎開地の冬はこれでもう五度目ですものね。ずいぶんお馴(な)れになつたに違ひありません。ずるい千恵は、戦争のすんだ冬のはじめに、さつさと東京へ飛びだしてしまひましたけれど、お母さまにはあれから二度三度と、千恵にとつては何としても居たたまれなかつた北ぐにの冬がつづいてゐるのですものね。あの陽気なお母さまが、それにお馴(な)れにならないはずはありません。それどころか、もうりつぱに「征服」しておしまひになつたに違ひありません。いつぞやのお手紙に、「頬(ほお)の色つやもめつきり増し、白毛(しらが)も思ひのほかふえ申さず、朝夕の鏡にむかふたびに、これがわが顔かと吾(われ)ながら意外の思ひを……」とありましたが、あのお言葉を千恵はそつくりそのまま安心して信じます。だつて千恵のお母さまは、どうしてもそんなお人でなくてはならないのですもの。それでこそ千恵のお母さまなのですもの。
なんだか急にお顔が見たくなりました。かうして土曜日の晩ごとに、みじかい或ひは長い手紙を書くたびに、かならずそんな気持がしてくるのですけれど、今夜はまた格別です。もちろんそれには、姉さまのことをたどたどしい筆で申しあげるよりは、一目でもお目にかかつてお話しした方がいいといふ気持も手伝つてゐるには違ひありませんが、といつてそればかりでもないやうです。千恵は「つやつやした」お母さまの顔を久しぶりで拝見したいことも勿論(もちろん)ですが、元気なこの千恵の顔も、ついでに見ていただきたいのです。しかも冬の休暇はつい目と鼻の先です。往きに十二時間、帰りに十一時間、それに中一日か二日の滞在――どうしてそれつぱかしの暇もないのかと、お疑ひかもしれません。ですがこれは誓つて申しますが、千恵はべつにれんあいをしてゐるわけではありません。たしかにまだ処女のままですし、ましてやおぽんぽもまだ大きくなつてはをりません。……こんな話が出ると、顔を赤くなさるのはきまつてお母さまの方で、姉さまや千恵は却(かえ)つてけろりとした顔をしてをりましたつけね。ずいぶん昔の思ひ出です。もう一つついでに、あれはまだお父様の御在世中のことで、もう十年あまりも前のことになるでせうか、姉さまの縁談で仲うどのCさんが見えてゐた時、お母さまは「……たしかあれはまだ処女のはずで……」と仰(おっ)しやいましたつけね。あの時ちやうどドアのかげで、こつそり立聴きしてゐた姉さまと千恵とは、もうをかしくつてをかしくつて笑ひがとまらず、両手で顔をおさへて這(は)ふやうにして奥へ逃げこんだものでした。あの頃のことを思ひ出すとまるで夢のやうな気がします。
そのCさん御夫妻が間もなく亡くなり、つづいてお父様が、やがて姉さまの縁づいた先のS家のお父様もなくなりました。あんまり死が立てつづけに続くので、ついその方に気をとられてゐるひまに、大陸の方の戦争はいつのまにか段々ひろがつて、たうとう潤吉兄さまは応召将校として大陸に渡つておいでになつたのでしたね。かうしてS家には、お母さまと姉さまと、それにまだ赤んぼの男の子――あの潤太郎さんと、それだけしかゐなくなつた時になつて、千恵ははじめて姉さまがじつは千恵の実の姉さまではなくて、亡くなつた前のお母さまの忘れがたみだつたといふことを初めて知つたのでした。いいえ、知つたのではありません、無理やり、いや応なしに、ざんこくな方法で知らされたのでした。それがあんまり残酷な方法だつたので、腹ちがひといふ事実そのものや、それからぢかに筋をひくさまざまな感動や驚きや怨(うら)みや憎しみなどは、何ひとつ感じないで済んだほどでした。羞(はず)かしめさへ感じないですんだのでした。やつと十九になつたかならぬの千恵の心の歴史にとつて、それはまだしも幸ひだつたとお母さまは言つて下さるのですか? けれど千恵は、そんなつもりでこれを申すのではありません。心にしろからだにしろ、どうせ傷つかずには済まぬものなら、いつそ早い時機に、なんとかまだ癒着力のあるうちに、思ひきり傷ついてしまつた方がいいと思ひます。……少くも……すくなくも昨日のあの怖ろしい姿をこの目で見てしまつた今になつては、千恵はさう信じないわけには行かないのです。
………………………………………
何をかう、千恵はうろうろ書きまどつてゐるのでせうか? 今はもう怖れもありません。それにお母さまの前ですもの、なんの遠慮もあらう道理はありません。ええ、さうです。
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ですが千恵のたどたどしい筆では、昨日見たことはもとよりのこと、姉上の身におこつた変りやうの一々を、ただしくお伝へする自信はとてもありません。ほんたうなら、たとへ二日でも三日でも休暇をとつて、人なみの帰省をし、ひと晩ゆつくり口づてから母上にお話しするのが一番にちがひありません。口づてならば曲りなりにも、なんとか見聞きしたことだけはお伝へできさうに思はれます。足りないところは顔色なり身ぶりなり、あるひは声音(こわね)なり涙なりが、補なひをつけてくれるでせうから。……信州の山かひは、さぞもう雪が深いことでせう。火燵(こたつ)もおきらひ、モンペもおきらひなお母さまが、どんなにしてこの冬を過ごされるのかと思ふと、居ても立つてもゐられないやうな気もし、同時にまた、クスリと笑ひだしたいやうな気持にもなります。お母さまにとつて、疎開地の冬はこれでもう五度目ですものね。ずいぶんお馴(な)れになつたに違ひありません。ずるい千恵は、戦争のすんだ冬のはじめに、さつさと東京へ飛びだしてしまひましたけれど、お母さまにはあれから二度三度と、千恵にとつては何としても居たたまれなかつた北ぐにの冬がつづいてゐるのですものね。あの陽気なお母さまが、それにお馴(な)れにならないはずはありません。それどころか、もうりつぱに「征服」しておしまひになつたに違ひありません。いつぞやのお手紙に、「頬(ほお)の色つやもめつきり増し、白毛(しらが)も思ひのほかふえ申さず、朝夕の鏡にむかふたびに、これがわが顔かと吾(われ)ながら意外の思ひを……」とありましたが、あのお言葉を千恵はそつくりそのまま安心して信じます。だつて千恵のお母さまは、どうしてもそんなお人でなくてはならないのですもの。それでこそ千恵のお母さまなのですもの。
なんだか急にお顔が見たくなりました。かうして土曜日の晩ごとに、みじかい或ひは長い手紙を書くたびに、かならずそんな気持がしてくるのですけれど、今夜はまた格別です。もちろんそれには、姉さまのことをたどたどしい筆で申しあげるよりは、一目でもお目にかかつてお話しした方がいいといふ気持も手伝つてゐるには違ひありませんが、といつてそればかりでもないやうです。千恵は「つやつやした」お母さまの顔を久しぶりで拝見したいことも勿論(もちろん)ですが、元気なこの千恵の顔も、ついでに見ていただきたいのです。しかも冬の休暇はつい目と鼻の先です。往きに十二時間、帰りに十一時間、それに中一日か二日の滞在――どうしてそれつぱかしの暇もないのかと、お疑ひかもしれません。ですがこれは誓つて申しますが、千恵はべつにれんあいをしてゐるわけではありません。たしかにまだ処女のままですし、ましてやおぽんぽもまだ大きくなつてはをりません。……こんな話が出ると、顔を赤くなさるのはきまつてお母さまの方で、姉さまや千恵は却(かえ)つてけろりとした顔をしてをりましたつけね。ずいぶん昔の思ひ出です。もう一つついでに、あれはまだお父様の御在世中のことで、もう十年あまりも前のことになるでせうか、姉さまの縁談で仲うどのCさんが見えてゐた時、お母さまは「……たしかあれはまだ処女のはずで……」と仰(おっ)しやいましたつけね。あの時ちやうどドアのかげで、こつそり立聴きしてゐた姉さまと千恵とは、もうをかしくつてをかしくつて笑ひがとまらず、両手で顔をおさへて這(は)ふやうにして奥へ逃げこんだものでした。あの頃のことを思ひ出すとまるで夢のやうな気がします。
そのCさん御夫妻が間もなく亡くなり、つづいてお父様が、やがて姉さまの縁づいた先のS家のお父様もなくなりました。あんまり死が立てつづけに続くので、ついその方に気をとられてゐるひまに、大陸の方の戦争はいつのまにか段々ひろがつて、たうとう潤吉兄さまは応召将校として大陸に渡つておいでになつたのでしたね。かうしてS家には、お母さまと姉さまと、それにまだ赤んぼの男の子――あの潤太郎さんと、それだけしかゐなくなつた時になつて、千恵ははじめて姉さまがじつは千恵の実の姉さまではなくて、亡くなつた前のお母さまの忘れがたみだつたといふことを初めて知つたのでした。いいえ、知つたのではありません、無理やり、いや応なしに、ざんこくな方法で知らされたのでした。それがあんまり残酷な方法だつたので、腹ちがひといふ事実そのものや、それからぢかに筋をひくさまざまな感動や驚きや怨(うら)みや憎しみなどは、何ひとつ感じないで済んだほどでした。羞(はず)かしめさへ感じないですんだのでした。やつと十九になつたかならぬの千恵の心の歴史にとつて、それはまだしも幸ひだつたとお母さまは言つて下さるのですか? けれど千恵は、そんなつもりでこれを申すのではありません。心にしろからだにしろ、どうせ傷つかずには済まぬものなら、いつそ早い時機に、なんとかまだ癒着力のあるうちに、思ひきり傷ついてしまつた方がいいと思ひます。……少くも……すくなくも昨日のあの怖ろしい姿をこの目で見てしまつた今になつては、千恵はさう信じないわけには行かないのです。
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何をかう、千恵はうろうろ書きまどつてゐるのでせうか? 今はもう怖れもありません。それにお母さまの前ですもの、なんの遠慮もあらう道理はありません。ええ、さうです。
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三科・大(ひろ)所属:覚羅教導院親族:三科・泰造武神修理技師、IZUMOへ出向 -
大会結果/2009-12 - 釧路囲碁会館 - 釧路囲碁会館
2009年12月会館杯12月06日(A級)1位村瀬 清 八段格2位澤野 克也五段格3位大島 英雄五段格4位大友 勝雄六段格会館杯(B級)1位辰尾 吉治三段格2位岡本 富雄四段格3位蓑島 時男四段格4 -
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明 清 北京 ヌルハチ ヌルハチ 1619 サルフの戦い 明軍撃破 八旗設立 ホンタイジ 李自成 1631 李自成の乱 ホン -
大会結果/2009-10 - 釧路囲碁会館 - 釧路囲碁会館
位和泉 清 五段格道新杯(B級)1位江郷 秀夫四段格2位山下 孝 四段格3位山下 義雄四段格4位福岡 滋 三段格道新杯(C級)1位高橋 康介初段格2位尾崎 尚子6 級3位中村有美子7 級4位筒井 勝志4 -
キャバつく - 龍が如く3 攻略wiki - 龍が如く3 攻略wiki
なし ネイル デコネイル かわいい かわいい 指輪 ハート ハート ハート 時計 シンプル ブランド シンプル衣装選択※清=清楚 ア=アイドル ギ=ギャ -
大会結果/2009-11 - 釧路囲碁会館 - 釧路囲碁会館
2009年11月第45期名人戦予選11月01日1位鶴田 穏雄七段格2位佐藤紀四士七段格3位政所 宏昭八段格4位佐古 勲史七段格5位佐古 清 七段格6位松本 隆夫七段格7位首藤 眞司 -
物性物理学 - 大学生のための参考書・教科書 @ ウィキ - 大学生のための参考書・教科書 @ ウィキ
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神社・霊場めぐり - 風来坊ワルえもんの御朱印館 - 風来坊ワルえもんの御朱印館
霊場近畿三十六不動霊場北陸三十六不動霊場薬師霊場西国四十九薬師霊場京都十二薬師七福神霊場谷中七福神浅草名所七福神下谷七福神西国七福神都七福神神戸七福神泉涌寺七福神十三仏霊場京都十三仏霊場大和十三仏霊場神戸 -
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位佐藤紀四士七段格3位政所 宏昭八段格4位佐古 勲史七段格5位佐古 清 七段格6位松本 隆夫七段格7位首藤 眞司七段格次点河野伸一郎八段格第32期王座戦予選1位蓑島 時男四段格2位江郷 秀夫四段格3位斉 -
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.ODA│└五大頂・六天魔軍├M.H.R.R.│└十本槍├六護式仏蘭西├清├八大竜王└関係図武装├大罪武装├聖譜顕装└神格武装武神└四聖機鳳船舶├階級├武蔵└超祝福艦隊術式├神奏術├聖術├魔術└その
