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死児変相 - 神西 清 ( じんざい きよし )

  • 古書≪森鴎外集≫7 青年、舞姫他 【 森鴎外】河出書房 貴重 初版
  • 「森鴎外私論」吉野俊彦 森鴎外評論-批評-書籍・10冊 N21681
  • 岩波文庫1675昭和41年/阿部一族他二編森鴎外 岩波書店
  • 600円~ 岩波文庫【青年】森鴎外 (プチソフト1)
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・山椒大夫  他四篇」(旺文社文庫)◇◆
  • ◆◇ 森鴎外著「青年」(新潮文庫) ◇◆  名著! 
  • ◆◇森鴎外著「舞姫・うたかたの記  他三篇」(岩波文庫)◇◆
  • ◆新品DVD★『NHK 名作の風景 8』森鴎外 正岡子規 夏目漱石1円
  • 森鴎外 高瀬舟・高瀬舟縁起・寒山捨得・寒山捨得縁起 CD 未開封
  • 森鴎外 舞姫 雁 井上靖 訳編 明治の古典8 初版
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 母上さま、――  久しくためらつてゐましたこの御報告の筆を、千恵はやうやく取りあげます。  じつは姉上のお身の上につき申しあぐべきことのあらましは、もう一月ほど前から大よその目当てはついてをりました。だのに千恵は、「わからない、わからない」と、先日の手紙でも申しあげ、またつい一週間前の短かい手紙にも繰りかへしました。それもこれも嘘でした。いいえ、嘘といふよりむしろ希望のやうなものでした。つまり千恵は、お母さまがそのうちいつか忘れておしまひになりはしまいかと、それを心頼みにしてゐたのでした。けれど一昨日いただいたお手紙(それは途中どこかで迷つてゐたらしく、十日あまりも日数がかかつてゐましたが――)の様子では、忘れておしまひになるどころか、なまじ御報告を一寸(ちょっと)のばしに延ばせば延ばすほど、却(かえ)つてますます御不安をつのらせるだけらしいことが、千恵にもよくよく呑(の)みこめました。三晩もかさねて、不吉な夢をごらんになつたのですね。それがどんな中身の夢だつたのか、お手紙には書いてありませんが、前後のお言葉から大よその察しのつかないものでもありません。そんな悪夢をまでごらんになるやうな母上を前にしては、千恵はもはや空しい希望を捨てなければなりません。それに、母上のあのお手紙をいただいたその明くる日――つまり昨日、まるで申し合はせでもしたやうに千恵がこの目であのやうなことを見てしまつた今となつては、もう何もかも有りのままに申しあげて、あとは宏大な摂理の御手に一切をおゆだねするほかないことを感じます。
   ………………………………………
 ですが千恵のたどたどしい筆では、昨日見たことはもとよりのこと、姉上の身におこつた変りやうの一々を、ただしくお伝へする自信はとてもありません。ほんたうなら、たとへ二日でも三日でも休暇をとつて、人なみの帰省をし、ひと晩ゆつくり口づてから母上にお話しするのが一番にちがひありません。口づてならば曲りなりにも、なんとか見聞きしたことだけはお伝へできさうに思はれます。足りないところは顔色なり身ぶりなり、あるひは声音(こわね)なり涙なりが、補なひをつけてくれるでせうから。……信州の山かひは、さぞもう雪が深いことでせう。火燵(こたつ)もおきらひ、モンペもおきらひなお母さまが、どんなにしてこの冬を過ごされるのかと思ふと、居ても立つてもゐられないやうな気もし、同時にまた、クスリと笑ひだしたいやうな気持にもなります。お母さまにとつて、疎開地の冬はこれでもう五度目ですものね。ずいぶんお馴(な)れになつたに違ひありません。ずるい千恵は、戦争のすんだ冬のはじめに、さつさと東京へ飛びだしてしまひましたけれど、お母さまにはあれから二度三度と、千恵にとつては何としても居たたまれなかつた北ぐにの冬がつづいてゐるのですものね。あの陽気なお母さまが、それにお馴(な)れにならないはずはありません。それどころか、もうりつぱに「征服」しておしまひになつたに違ひありません。いつぞやのお手紙に、「頬(ほお)の色つやもめつきり増し、白毛(しらが)も思ひのほかふえ申さず、朝夕の鏡にむかふたびに、これがわが顔かと吾(われ)ながら意外の思ひを……」とありましたが、あのお言葉を千恵はそつくりそのまま安心して信じます。だつて千恵のお母さまは、どうしてもそんなお人でなくてはならないのですもの。それでこそ千恵のお母さまなのですもの。
 なんだか急にお顔が見たくなりました。かうして土曜日の晩ごとに、みじかい或ひは長い手紙書くたびに、かならずそんな気持がしてくるのですけれど、今夜はまた格別です。もちろんそれには、姉さまのことをたどたどしい筆で申しあげるよりは、一目でもお目にかかつてお話しした方がいいといふ気持も手伝つてゐるには違ひありませんが、といつてそればかりでもないやうです。千恵は「つやつやした」お母さまの顔を久しぶりで拝見したいことも勿論(もちろん)ですが、元気なこの千恵の顔も、ついでに見ていただきたいのです。しかも冬の休暇はつい目と鼻の先です。往きに十二時間、帰りに十一時間、それに中一日か二日の滞在――どうしてそれつぱかしの暇もないのかと、お疑ひかもしれません。ですがこれは誓つて申しますが、千恵はべつにれんあいをしてゐるわけではありません。たしかにまだ処女のままですし、ましてやおぽんぽもまだ大きくなつてはをりません。……こんな話が出ると、顔を赤くなさるのはきまつてお母さまの方で、姉さまや千恵は却(かえ)つてけろりとした顔をしてをりましたつけね。ずいぶん昔の思ひ出です。もう一つついでに、あれはまだお父様の御在世中のことで、もう十年あまりも前のことになるでせうか、姉さまの縁談で仲うどのCさんが見えてゐた時、お母さまは「……たしかあれはまだ処女のはずで……」と仰(おっ)しやいましたつけね。あの時ちやうどドアのかげで、こつそり立聴きしてゐた姉さまと千恵とは、もうをかしくつてをかしくつて笑ひがとまらず、両手で顔をおさへて這(は)ふやうにして奥へ逃げこんだものでした。あの頃のことを思ひ出すとまるで夢のやうな気がします。
 そのCさん御夫妻が間もなく亡くなり、つづいてお父様が、やがて姉さまの縁づいた先のS家のお父様もなくなりました。あんまり死が立てつづけに続くので、ついその方に気をとられてゐるひまに、大陸の方の戦争いつのまにか段々ひろがつて、たうとう潤吉兄さまは応召将校として大陸に渡つておいでになつたのでしたね。かうしてS家には、お母さまと姉さまと、それにまだ赤んぼの男の子――あの潤太郎さんと、それだけしかゐなくなつた時になつて、千恵ははじめて姉さまがじつは千恵の実の姉さまではなくて、亡くなつた前のお母さまの忘れがたみだつたといふことを初めて知つたのでした。いいえ、知つたのではありません、無理やり、いや応なしに、ざんこくな方法で知らされたのでした。それがあんまり残酷方法だつたので、腹ちがひといふ事実そのものや、それからぢかに筋をひくさまざまな感動や驚きや怨(うら)みや憎しみなどは、何ひとつ感じないで済んだほどでした。羞(はず)かしめさへ感じないですんだのでした。やつと十九になつたかならぬの千恵の心の歴史にとつて、それはまだしも幸ひだつたとお母さまは言つて下さるのですか? けれど千恵は、そんなつもりでこれを申すのではありません。心にしろからだにしろ、どうせ傷つかずには済まぬものなら、いつそ早い時機に、なんとかまだ癒着力のあるうちに、思ひきり傷ついてしまつた方がいいと思ひます。……少くも……すくなくも昨日のあの怖ろしい姿をこの目で見てしまつた今になつては、千恵はさう信じないわけには行かないのです。
   ………………………………………
 何をかう、千恵はうろうろ書きまどつてゐるのでせうか? 今はもう怖れもありません。それにお母さまの前ですもの、なんの遠慮もあらう道理はありません。ええ、さうです。


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