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- 芥川 竜之介 ( あくたがわ りゅうのすけ )

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  • 「芥川龍之介」 関口安義   岩波新書
  • ◆◇ 芥川龍之介 著「羅生門・鼻」(新潮文庫) ◇◆
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  • 芥川龍之介◆侏儒の言葉・西方の人◆続西方の人収録
  • 別冊毎日グラフ 芥川龍之介 生誕百年、そして今
  • 絶版■芥川龍之介【邪宗門・杜子春】新潮文庫帯/昭和42年/葱.秋
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芥川龍之介         一  部屋(へや)の隅に据えた姿見(すがたみ)には、西洋風に壁を塗った、しかも日本風の畳がある、――上海(シャンハイ)特有の旅館の二階が、一部分はっきり映(うつ)っている。まずつきあたりに空色の壁、それから真新しい何畳(なんじょう)かの畳(たたみ)、最後にこちらへ後(うしろ)を見せた、西洋髪(せいようがみ)の女が一人、――それが皆冷やかな光の中に、切ないほどはっきり映っている。女はそこにさっきから、縫物(ぬいもの)か何かしているらしい。
 もっとも後は向いたと云う条、地味(じみ)な銘仙(めいせん)の羽織の肩には、崩(くず)れかかった前髪(まえがみ)のはずれに、蒼白い横顔が少し見える。勿論肉の薄い耳に、ほんのり光が透(す)いたのも見える。やや長めな揉(も)み上(あ)げの毛が、かすかに耳の根をぼかしたのも見える。
 この姿見のある部屋には、隣室の赤児の啼(な)き声のほかに、何一つ沈黙を破るものはない。未(いまだ)に降り止まない雨の音さえ、ここでは一層その沈黙に、単調な気もちを添えるだけである。
「あなた。」
 そう云う何分(なんぷん)かが過ぎ去った後(のち)、女は仕事を続けながら、突然、しかし覚束(おぼつか)なさそうに、こう誰かへ声をかけた。
 誰か、――部屋の中には女のほかにも、丹前(たんぜん)を羽織(はお)った男が一人、ずっと離れた畳の上に、英字新聞をひろげたまま、長々(ながなが)と腹這(はらば)いになっている。が、その声が聞えないのか、男は手近の灰皿へ、巻煙草(まきたばこ)の灰を落したきり、新聞から眼さえ挙げようとしない。
「あなた。」
 女はもう一度声をかけた。その癖女自身の眼もじっと針の上に止まっている。「何だい。」
 男は幾分うるさそうに、丸々(まるまる)と肥った、口髭(くちひげ)の短い、活動家らしい頭を擡(もた)げた。
「この部屋ね、――この部屋は変えちゃいけなくって?」
部屋を変える? だってここへはやっと昨夜(ゆうべ)、引っ越して来たばかりじゃないか?」
 男の顔はけげんそうだった。
引っ越して来たばかりでも。――前の部屋ならば明(あ)いているでしょう?」
 男はかれこれ二週間ばかり、彼等が窮屈な思いをして来た、日当りの悪い三階の部屋一瞬間眼の前に見えるような気がした。――塗りの剥(は)げた窓側(まどがわ)の壁には、色の変った畳の上に更紗(さらさ)の窓掛けが垂れ下っている。その窓にはいつ水をやったか、花の乏しい天竺葵(ジェラニアム)が、薄い埃(ほこり)をかぶっている。おまけに窓の外を見ると、始終ごみごみした横町(よこちょう)に、麦藁帽(むぎわらぼう)をかぶった支那(シナ)の車夫が、所在なさそうにうろついている。………
「だがお前はあの部屋にいるのは、嫌(いや)だ嫌だと云っていたじゃないか?」
「ええ。それでもここへ来て見たら、急にまたこの部屋が嫌(いや)になったんですもの。」
 女は針の手をやめると、もの憂(う)そうに顔を挙げて見せた。眉(まゆ)の迫った、眼の切れの長い、感じの鋭そうな顔だちである。が、眼のまわりの暈(かさ)を見ても、何か苦労を堪(こら)えている事は、多少想像出来ないでもない。そう云えば病的な気がするくらい、米噛(こめか)みにも静脈(じょうみゃく)が浮き出している。
「ね、好(い)いでしょう。……いけなくて?」
「しかし前の部屋よりは、広くもあるし居心(いごころ)も好(い)いし、不足を云う理由はないんだから、――それとも何か嫌(いや)な事があるのかい?」
「何って事はないんですけれど。……」
 女はちょいとためらったものの、それ以上立ち入っては答えなかった。が、もう一度念を押すように、同じ言葉を繰り返した。
「いけなくって、どうしても?」
 今度は男が新聞の上へ煙草(たばこ)の煙を吹きかけたぎり、好(い)いとも悪いとも答えなかった。
 部屋の中はまたひっそりになった。ただ外では不相変(あいかわらず)、休みのない雨の音がしている。
春雨(はるさめ)やか、――」
 男はしばらくたった後(のち)、ごろりと仰向(あおむ)きに寝転(ねころ)ぶと、独り言のようにこう云った。
「蕪湖(ウウフウ)住みをするようになったら、発句(ほっく)でも一つ始めるかな。」
 女は何とも返事をせずに、縫物の手を動かしている。
「蕪湖(ウウフウ)もそんなに悪い所じゃないぜ。第一社宅は大きいし、庭も相当に広いしするから、草花なぞ作るには持って来いだ。何でも元は雍家花園(ようかかえん)とか云ってね、――」 
 男は突然口を噤(つぐ)んだ。いつか森(しん)とした部屋の中には、かすかに人の泣くけはいがしている。
「おい。」
 泣き声は急に聞えなくなった。と思うとすぐにまた、途切(とぎ)れ途切れに続き出した。
「おい。敏子(としこ)。」
 半ば体を起した男は、畳に片肘(かたひじ)靠(もた)せたまま、当惑(とうわく)らしい眼つきを見せた。
「お前は己(おれ)と約束したじゃないか? もう愚痴(ぐち)はこぼすまい。


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