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水に沈むロメオとユリヤ - 神西 清 ( じんざい きよし )

  • ★『はつ恋』 ツルゲーネフ/神西清・訳/新潮文庫
  • (岩波文庫)ツルゲーネフ 散文詩 神西清・池田健太郎訳
  • ★昭和50年48刷 はつ恋 ツルゲーネフ 神西清訳 新潮文庫 切手★
  • 岩波文庫■散文詩■ツルゲーネフ■神西清・池田健太郎/訳
  • 堀辰雄の周辺 堀多恵子著 *犀星/龍之介/神西清/川端/中野重治
  • チェ-ホフの手帖 神西清 新潮文庫[写真素材特典付き]
  • 四季 4(再刊第二巻)神西清 堀辰雄 片山廣子 吉井勇 折口信夫
  • 送料込 3冊組 チェーホフの手帖/神西清訳 妻への手紙 続~ 初版
  • 『バーニヤ伯父さん』 ★チェーホフ 神西清・訳 1952年初版
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弗羅曼(フラマン)の娘、近つ代の栄えのひとつ、 弗羅曼の昔ながらに仇気ない……(オノレ・ド・バルザック)  黄昏(たそがれ)の街が懶(ものう)く横たはつたまま、そつと伸びあがつて自分溝渠(ほりわり)に水鏡した。――この様な句を読むとすると、嘗(かつ)てロデンバックの短篇集を繙(ひもと)いたことのある人ならきつとあの廃都ブリュジュの夕暮を思ひ描くに相違ない。そして彼等は聴くであらう、同時に近くから遠くから涌(わ)き起る洞(うつ)ろな鐘のひびきを、続いて無数の黄ばんだ祈りの声を。のみならず、たとへば私なら、もつと先を想像することが出来る。――そんな夜更け、ゴチック風の表飾りのある旅館湿気(しけ)た寝台のうへには、滅びた恋の野辺の送りをするために、屍灰(しかい)さながらの味(あじわ)ひを互(たがい)の唇のうへになほも吸ひ合ふ恋人たちの横たはつてゐるのを。……何といふ頽廃(たいはい)、何といふ無気力と人は言ふであらう。然(しか)り、私もそれは知つてゐる。けれど、私たちが如何様(いかよう)に自分の住む此(こ)の近代都市を誇称しようとも、そして昼夜のあらゆる時を通じて其処(そこ)に渦巻くどんな悪徳や鋭ぎ澄ました思想によつて昂奮(こうふん)し偽瞞(ぎまん)されてゐようとも、やはり私たちの都市疲れてゐることは事実である。そして嘗(かつ)ては或る役所の吏(り)として夕暮から夜更けの川筋を巡邏(じゅんら)の軽舟に揺られて行つたことのある私にとつては、私が此(こ)の物語を始めた句はさほど私たちの都市東京にそぐはないものとも思へない。
 東京流れる六十九筋の溝渠(ほりわり)や川の底から一年のあひだに浚渫(しゅんせつ)される泥土の量が二万立方坪にも近いといふ事実は大して人々を驚かすものではない。それは年老いた此の都市から泌(し)み出る老廃物のごく小量の分け前にしか過ぎないのだから。これらの疲労した川筋を通して一年に七千四百万貫の塵芥(じんかい)を吹き、六十万|石(ごく)の糞尿(ふんにょう)を棄(す)て、さらに八億立方|尺(しゃく)にも余る汚水を吐き出す此の巨大な怪獣の皮腺(ひせん)から漏(も)れる垢脂(こうし)に過ぎないのだから。……のみならず、この夥(おびただ)しい排泄(はいせつ)物の腐れた臭ひに半ばは埋(うも)れて一万二千の小舟が動き廻り、三万余り男女がその中に「生きて」ゐるのを私たちは知つてゐる。私たちが殆(ほとん)ど忘れたままでゐる自分の蹠(あなうら)よりももつと低いところに。そして黄昏(たそがれ)が消えると街は彼女の鏡を力無く取り落すのである。街と川とは別々に、秘密に満ちた夜闇に陥つて行くのである。

 大正十二年の罹災(りさい)によつて一時はその数を三分の一にも減じた水上生活者の群が、いつとは知れず再び元通りの数に近づかうとしてゐた頃の或る夏近くのことであるが、ステラと名づけられた一|隻(せき)の真白な快走船が隅田川下流中心にある仕事に従ふ様になつて、その際だつた姿態によつて他の舟々の眼を惹(ひ)いてゐた。ステラが「仲間」の眼を惹いたのはしかしその船体によつてだけではなく、その名のとほり「星」のやうな船長一人娘の耀(かがや)きによつてでもあつた。肉づきのいい大柄な此の娘は真白なセイラーの裳(もすそ)を川風にひるがへして、甲板(かんぱん)に立つて舵(かじ)を操つた。彼女花子と呼ばれた。そして偶然の導きによつて、ステラが夜の泊りにする慣はしである明石橋を入り込んだささやかな湾(いりうみ)に似た水に、しかもよく隣り合はせて夜を睡(ねむ)る一隻の名もない古びた伝馬(てんま)船があつた。その仲間言葉で「風来船」と呼びならされる一群の船のひとつである此の船の息子に定と呼ばれる少年があつた。此の少年が間もなく花子を恋する様になつた。
 定の父親は赭(あか)ら顔の酒食ひで陸に暮してゐた頃から定職がなかつたと同様、川に追はれて来てもやはり彼の船は定つた航路を有(も)たなかつた。船は時にその腹に汚水糞尿を船脚(ふなあし)の重くなるまで満喫する代りには時に淫蕩(いんとう)な男女秘密を載せて軽々と浮く様な性質のものであつた。従つてその泊り場も一定してゐた訳ではなく、或る時は隅田川上流人気(ひとけ)ない浅瀬に、或る時は都市中央に架(かか)つた巨大な橋の下に。その年、夏ちかく川筋一帯を襲つた浅ましい「不景気」のため、此の船は一と月あまりの間も明石河岸(がし)にへたばり着いたまま死んだものの様に動かなかつた。父親は乏しい質草(しちぐさ)を次から次へと飲みあげ、濁声(だみごえ)で歌を唄(うた)ひ、稀(まれ)には「女」といぎたなく船底にもぐつて眠つた。定は陸(おか)を怖れてゐたので街をうろつくことは無かつたものの、その様な夜更けには板子の上に突つ起(た)つてはげしく然(しか)し声もなく月に向つて吠(ほ)えわめいた。彼が花子を恋する様になつたのはそんな夜の一つであつた。
 定は闇の中にぢつと何かを見つめて立つてゐた。彼にはそれが何なのか解らなかつた。唯(ただ)其処(そこ)から鈍い光りがにぢみ出てゐるのには相違なかつた。昼のあひだの酷(ひど)い暑気に蒸された川の面の臭ひに夜更けの冷気がしんしんと入れ混つて、たとへば葦間(いかん)の腐臭を嗅(か)ぐやうな不思議な匂(におい)を有(も)つた靄(もや)が、風が無いのでヒソリともしない水面低く立ち迷つてゐた。犬のやうにクンクンと鼻を鳴らしながら定は自分が深いところへと落ち込んで行くのを感じた。定はふらふらと仄光(ほのあかり)の方へよろめき動いた。軈(やが)て燈火は彼の眼した三|間(けん)のあたりに現はれた。彼はそれがすぐ傍に繋(つなが)れたステラの船室から漏(も)れる明るさなのを了解した。そのとき引き残された窓布のすきに妙に黄ぼけた腓(こむら)がふと動いた。彼はすばやく別の舷(ふなばた)へと跳び移つた。その拍子に蹴込(けこ)んだらしい小石か何かの立てた鈍い水音を定は耳殻の後方に聞き流した。船室の屋根の手欄につかまりながら何故(なぜ)ともなしに上方を仰いだ彼の眼に、夥(おびただ)しい星影がまるで砂礫(されき)か何かのやうに無意味であつた。船の揺れはぢきに止つた。定は屈(かが)み込んで船扉を引き上げた。彼の眼にうつつた狭い船室の内部は思つたよりも煌々(こうこう)として居、其処にただ一の陰影しか残されてはゐなかつた。
 そのとき花子二十、定は二つ歳下の十八であつた。

 しかし恋の楽欲(ぎょうよく)を先(ま)づ了解したのは寧(むし)ろ花子であつた。彼女自分肉体女王に、自分精神奴隷(どれい)になり果てるのを急激に経験理解した。彼女にとつてそれが恋の死ぬばかりの快よさの全部であつた。定はこの様な花子の前に俘囚(ふしゅう)のやうに盲従しなければならない自分位置を間もなく知つた。


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