水害雑録 - 伊藤 左千夫 ( いとう さちお )
一
臆病者というのは、勇気の無い奴(やつ)に限るものと思っておったのは誤りであった。人間は無事をこいねがうの念の強ければ、その強いだけそれだけ臆病になるものである。人間は誰とて無事をこいねがうの念の無いものは無い筈であるが、身に多くの係累者を持った者、殊に手足まといの幼少者などある身には、更に痛切に無事を願うの念が強いのである。
一朝|禍(わざわい)を蹈むの場合にあたって、係累の多い者ほど、惨害はその惨の甚しいものがあるからであろう。
天災地変の禍害というも、これが単に財産居住を失うに止まるか、もしくはその身一身を処決して済むものであるならば、その悲惨は必ずしも惨の極(きょく)なるものではない。一身係累を顧みるの念が少ないならば、早く禍の免れ難きを覚悟したとき、自(みずか)ら振作(しんさ)するの勇気は、もって笑いつつ天災地変に臨むことができると思うものの、絶つに絶たれない係累が多くて見ると、どう考えても事に対する処決は単純を許さない。思慮分別の意識からそうなるのではなく、自然的な極めて力強い余儀ないような感情に壓せられて勇気の振いおこる余地が無いのである。
宵から降り出した大雨は、夜一夜を降り通した。豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、そうしてあらゆる方面に落ち激(たぎ)つ水の音、ひたすら事(こと)なかれと祈る人の心を、有る限りの音声(おんせい)をもって脅(おびやか)すかのごとく、豪雨は夜を徹して鳴り通した。
少しも眠れなかったごとく思われたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の音声におびえていたのだから、もとより夢か現(うつつ)かの差別は判らないのである。外は明るくなって夜は明けて来たけれど、雨は夜の明けたに何の関係も無いごとく降り続いている。夜を降り通した雨は、又昼を降り通すべき気勢である。
さんざん耳から脅(おびやか)された人は、夜が明けてからは更に目からも脅される。庭一面に漲(みなぎ)り込んだ水上に水煙を立てて、雨は篠(しの)を突いているのである。庭の飛石は一箇(ひとつ)も見えてるのが無いくらいの水だ。いま五、六寸で床に達する高さである。
もう畳を上げた方がよいでしょう、と妻や大きい子供らは騒ぐ。牛舎へも水が入りましたと若(わか)い衆(しゅ)も訴えて来た。
最も臆病に、最も内心に恐れておった自分も、側(はた)から騒がれると、妙に反撥心が起る。殊更に落ちついてる風(ふう)をして、何ほど増して来たところで溜り水だから高が知れてる。そんなにあわてて騒ぐに及ばないと一喝(いっかつ)した。そうしてその一喝した自分の声にさえ、実際は恐怖心が揺いだのであった。雨はますます降る。一時間に四分五分ぐらいずつ水は高まって来る。
強烈な平和の希望者は、それでも、今にも雨が静かになればと思う心から、雨声の高低に注意を払うことを、秒時もゆるがせにしてはいない。
不安――恐怖――その堪えがたい懊悩(おうのう)の苦しみを、この際幾分か紛(まぎ)らかそうには、体躯を運動する外はない。自分は横川天神川の増水|如何(いかん)を見て来ようとわれ知らず身を起した。出掛けしなに妻や子供たちにも、いざという時の準備を命じた。それも準備の必要を考えたよりは、彼らに手仕事を授けて、いたずらに懊悩することを軽めようと思った方が多かった。
干潮の刻限である為か、河の水はまだ意外に低かった。水口(みずぐち)からは水が随分盛んに落ちている。ここで雨さえやむなら、心配は無いがなアと、思わず嘆息せざるを得なかった。
水の溜(たま)ってる面積は五、六町内に跨(また)がってるほど広いのに、排水の落口というのは僅かに三か所、それが又、皆落口が小さくて、溝は七まがりと迂曲(うきょく)している。水の落ちるのは、干潮の間僅かの時間であるから、雨の強い時には、降った水の半分も落ちきらぬ内に、上げ潮の刻限になってしまう。上げ潮で河水が多少水口から突上るところへ更に雨が強ければ、立ちしか間にこの一区劃内に湛えてしまう。自分は水の心配をするたびに、ここの工事をやった人の、馬鹿馬鹿しきまで実務に不忠実な事を呆(あき)れるのである。
大洪水は別として、排水の装置が実際に適しておるならば、一日や二日の雨の為に、この町中(まちなか)へ水を湛うるような事は無いのである。人事(じんじ)僅かに至らぬところあるが為に、幾百千の人が、一通りならぬ苦しみをすることを思うと、かくのごとき実務的の仕事に、ただ形ばかりの仕事をして、平気な人の不親切を嘆息せぬ訳にゆかないのである。
自分は三か所の水口を検して家に帰った。水は三か所へ落ちているにかかわらず、わが庭の水層は少し増しておった。河の水はどうですかと、家の者から口々に問わるるにつけても、ここで雨さえ小降りになるなら心配は無いのだがなアと、思わず又嘆息を繰返すのであった。
一時間に五|分(ぶ)ぐらいずつ増してるから、これで見ると床へつくにはまだ十時間ある訳だ。いつでも畳を上げられる用意さえして置けば、住居の方は差当り心配はないとしても、もう捨てて置けないのは牛舎だ。尿板(ばりいた)の後方へは水がついてるから、牛は一頭も残らず起(た)ってる。そうしてその後足(あとあし)には皆一寸ばかりずつ水がついてる。豪雨は牛舎の屋根に鳴音(めいおん)烈しく、ちょっとした会話が聞取れない。いよいよ平和の希望は絶えそうになった。
人が、自殺した人の苦痛を想像して見るにしても、たいていは自殺そのものの悲劇をのみ強く感ずるのであろう。しかし自殺者その人の身になったならば、われとわれを殺すその実劇よりは、自殺を覚悟するに至る以前の懊悩が、遥かに自殺そのものよりも苦しいのでなかろうか。自殺の凶器が、目前(もくぜん)に横たわった時は、もはや身を殺す恐怖のふるえも静まっているのでなかろうか。
一朝|禍(わざわい)を蹈むの場合にあたって、係累の多い者ほど、惨害はその惨の甚しいものがあるからであろう。
天災地変の禍害というも、これが単に財産居住を失うに止まるか、もしくはその身一身を処決して済むものであるならば、その悲惨は必ずしも惨の極(きょく)なるものではない。一身係累を顧みるの念が少ないならば、早く禍の免れ難きを覚悟したとき、自(みずか)ら振作(しんさ)するの勇気は、もって笑いつつ天災地変に臨むことができると思うものの、絶つに絶たれない係累が多くて見ると、どう考えても事に対する処決は単純を許さない。思慮分別の意識からそうなるのではなく、自然的な極めて力強い余儀ないような感情に壓せられて勇気の振いおこる余地が無いのである。
宵から降り出した大雨は、夜一夜を降り通した。豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、そうしてあらゆる方面に落ち激(たぎ)つ水の音、ひたすら事(こと)なかれと祈る人の心を、有る限りの音声(おんせい)をもって脅(おびやか)すかのごとく、豪雨は夜を徹して鳴り通した。
少しも眠れなかったごとく思われたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の音声におびえていたのだから、もとより夢か現(うつつ)かの差別は判らないのである。外は明るくなって夜は明けて来たけれど、雨は夜の明けたに何の関係も無いごとく降り続いている。夜を降り通した雨は、又昼を降り通すべき気勢である。
さんざん耳から脅(おびやか)された人は、夜が明けてからは更に目からも脅される。庭一面に漲(みなぎ)り込んだ水上に水煙を立てて、雨は篠(しの)を突いているのである。庭の飛石は一箇(ひとつ)も見えてるのが無いくらいの水だ。いま五、六寸で床に達する高さである。
もう畳を上げた方がよいでしょう、と妻や大きい子供らは騒ぐ。牛舎へも水が入りましたと若(わか)い衆(しゅ)も訴えて来た。
最も臆病に、最も内心に恐れておった自分も、側(はた)から騒がれると、妙に反撥心が起る。殊更に落ちついてる風(ふう)をして、何ほど増して来たところで溜り水だから高が知れてる。そんなにあわてて騒ぐに及ばないと一喝(いっかつ)した。そうしてその一喝した自分の声にさえ、実際は恐怖心が揺いだのであった。雨はますます降る。一時間に四分五分ぐらいずつ水は高まって来る。
強烈な平和の希望者は、それでも、今にも雨が静かになればと思う心から、雨声の高低に注意を払うことを、秒時もゆるがせにしてはいない。
不安――恐怖――その堪えがたい懊悩(おうのう)の苦しみを、この際幾分か紛(まぎ)らかそうには、体躯を運動する外はない。自分は横川天神川の増水|如何(いかん)を見て来ようとわれ知らず身を起した。出掛けしなに妻や子供たちにも、いざという時の準備を命じた。それも準備の必要を考えたよりは、彼らに手仕事を授けて、いたずらに懊悩することを軽めようと思った方が多かった。
干潮の刻限である為か、河の水はまだ意外に低かった。水口(みずぐち)からは水が随分盛んに落ちている。ここで雨さえやむなら、心配は無いがなアと、思わず嘆息せざるを得なかった。
水の溜(たま)ってる面積は五、六町内に跨(また)がってるほど広いのに、排水の落口というのは僅かに三か所、それが又、皆落口が小さくて、溝は七まがりと迂曲(うきょく)している。水の落ちるのは、干潮の間僅かの時間であるから、雨の強い時には、降った水の半分も落ちきらぬ内に、上げ潮の刻限になってしまう。上げ潮で河水が多少水口から突上るところへ更に雨が強ければ、立ちしか間にこの一区劃内に湛えてしまう。自分は水の心配をするたびに、ここの工事をやった人の、馬鹿馬鹿しきまで実務に不忠実な事を呆(あき)れるのである。
大洪水は別として、排水の装置が実際に適しておるならば、一日や二日の雨の為に、この町中(まちなか)へ水を湛うるような事は無いのである。人事(じんじ)僅かに至らぬところあるが為に、幾百千の人が、一通りならぬ苦しみをすることを思うと、かくのごとき実務的の仕事に、ただ形ばかりの仕事をして、平気な人の不親切を嘆息せぬ訳にゆかないのである。
自分は三か所の水口を検して家に帰った。水は三か所へ落ちているにかかわらず、わが庭の水層は少し増しておった。河の水はどうですかと、家の者から口々に問わるるにつけても、ここで雨さえ小降りになるなら心配は無いのだがなアと、思わず又嘆息を繰返すのであった。
一時間に五|分(ぶ)ぐらいずつ増してるから、これで見ると床へつくにはまだ十時間ある訳だ。いつでも畳を上げられる用意さえして置けば、住居の方は差当り心配はないとしても、もう捨てて置けないのは牛舎だ。尿板(ばりいた)の後方へは水がついてるから、牛は一頭も残らず起(た)ってる。そうしてその後足(あとあし)には皆一寸ばかりずつ水がついてる。豪雨は牛舎の屋根に鳴音(めいおん)烈しく、ちょっとした会話が聞取れない。いよいよ平和の希望は絶えそうになった。
人が、自殺した人の苦痛を想像して見るにしても、たいていは自殺そのものの悲劇をのみ強く感ずるのであろう。しかし自殺者その人の身になったならば、われとわれを殺すその実劇よりは、自殺を覚悟するに至る以前の懊悩が、遥かに自殺そのものよりも苦しいのでなかろうか。自殺の凶器が、目前(もくぜん)に横たわった時は、もはや身を殺す恐怖のふるえも静まっているのでなかろうか。
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37 75 65 75 75 60 7584 B 番地 左千夫 26 85 50 60 90 60 6800 C- 丸山 大介 23 95 60 60 60 -
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