氷花 - 原 民喜 ( はら たみき )
三畳足らずの板敷の部屋で、どうかすると息も窒がりさうになるのであつた。雨が降ると、隙間の多い硝子窓からしぶきが吹込むので、却つて落着かず、よく街を出歩いた。「僕をいれてくれる屋根はどこにもない、雨は容赦なく僕の眼にしみるのだ」――以前読んだ書物の言葉が今はそのまま彼の身についてゐるのだつた。有楽町駅のコンクリートの上に寝そべつてゐる女を見かけたことがある。乳飲児を抱へて、筵も何もない処で臆びれもせず虚空な眸を見ひらいてゐた。それは少し前まで普通な暮しをしてゐたことの分る顔だつた。さういふ顔が何といつても一番いけなかつた。朝、目が覚めると、彼の部屋の固い寝床は、そのまま放心状態で寝そべつてゐるコンクリートになつてゐる。はつとして彼は自分にむかつて叫ぶのであつた。「此処で死んではならない、今はまだ死んではならないぞ」だが、彼を支へてゐる二階の薄い一枚の板張は今にも墜落しさうだつたし、突然、木端微塵に飛散るものの幻影があつた……。
家の焼跡に建ててゐるバラツクももう殆ど落成しさうだ――。
広島からそんな便りを受取ると、彼は一度郷里へ行つてみたくなつた。今年の二月、彼は八幡村から広島の焼跡へ掘出しに行つたのだが、あの時の情景が思ひ出された。眼のとどく処には粗末な小屋が二つ三つあるばかりで焼跡の貌ばかりがほしいままに見渡せたが、彼は青い水を湛へてゐる庭の池の底を覗きながら、まだ八月六日の朝の不思議な瞬間のことを思ひ耽つてゐた。だが、長兄はせつせと瓦礫を拾つては外に放りながら、大工たちを指図してゐるのだつた。大工たちは焼残つた庭樹を焚いて、そのまはりで弁当を食べた。すると、すぐ近くに見える山脈に嶮しい翳りが拡がつて、粉雪がチラつきだした。彼が庭に埋めておいた木箱からは、黒い水に汚れた茶碗や皿が出て来た。それは彼が妻と死別れて、広島に戻る時まで旅先の家で使つてゐた品だつた。が、そんなものは差当つて何にもならなかつたので、彼は姉のところへ預けに行つた。
川口町の焼残つた破屋で最近夫と死別れた姉は、彼の顔を見るたびに、「どうするつもりなの、うかうかしてゐる場合ではないよ」と云ふのであつた。この姉は、これから押寄せてくる恐ろしいものに脅えながら、突落された悲境のなかをどうにかかうにかくぐり抜けてゆく気組を見せてゐた。ところが、彼は罹災以来、八幡村で次兄の家に厄介になつてゐて、飢ゑに苛まれ衰弱してゆく体を視つめながら、漠然と何かを待つてゐたのである。
新シイ人間ガ生レツツアル ソレヲ見ルノハ※シイ 早クヤツテキタマヘ と、東京の友は云つて来た。汽車の制限がなくなるのを待つてゐると、間もなく六大都市転入禁止となつた。
新しい人間が見たいといふ熱望は彼にもあつた。彼があの原子爆弾で受けた感動は、人間に対する新しい憐憫と興味といつていい位だつた。急に貪婪の眼が開かれ、彼は廃墟のなかを歩く人間をよく視詰めた。廃墟の入口のべとべとの広場に出来た闇市には頭髪をてらてら光らし派手なマフラを纏つてゐる青年や、安つぽい衣裳の女を見かけるやうになつた。憩へる場所の一つもない死の街を人はぞろぞろ歩いて居り、ガタガタの電車は軋みながら走つた。彼はその電車のなかで、漁師らしい男が不逞な腕組みをしながら、こんなことを唸つてゐるのをきいた。
「ヘツ! 着物を持つて来て煮干とかへてくれといふやうになりやがつたかツ。もう奴等の底は見えて来たわい」
それは獲物の血を啜つてゐる蜘蛛の姿を連想さすのだつた。だが、さういふ蜘蛛の巣は今にいたるところに張りめぐらされてくるかもしれなかつた。
「もうこれからは百姓になるか、闇屋になるかしなくては、どつちみち生きては行けませんぞ」
以前は敏腕な社員だつたが、今は百姓になつてゐる後藤は、皆を前にして熱心に説くのであつた。それは廿日市の長兄のところで、製作所の解散式が行はれた日のことだつた。彼も半年ほどその製作所にゐたので、次兄と一緒にこの席へ加はつた。罹災以来、製作所の者が顔を合はすのは、それが最初の最後であつた。奇蹟的に皆無事に助かつてゐた。ひどい火傷で生死が気づかはれてゐた西田まで今はピンピンしてゐた。だが、これから皆は何を仕始めたらいいのか、かなり迷つてゐるのだつた。
「たとへまあ商店をやるにしたところで、その脇にちよつと汁粉屋などを兼ねて、二段にも三段にもこまめにせつせと立働くことですな」
後藤がこんなことを面白をかしく喋つてゐると、縁側に自転車の停まる音がして、誰かがのそつと入つて来た。
「バターぢや、雪印が四十五円、どうぢや、要るかなあ」
その男は勝誇つたやうに皆を見下ろしてゐたが、「まあ、まあ、一寸休んで行きなさい」と後藤に云はれると、漸くそこへ腰を下ろし、それから人を小馬鹿にしたやうな調子で喋りだした。
「ははん、これからいよいよ暮し難うなると仰しやるのか、あたりまへよ。大体、十あるものを十人に分けるといふのなら道理も立つが、三つしかないものを十人に分けろなんて、あんまり馬鹿馬鹿しいわい。何もこの際、弱い奴や乞食どもを養つてやるのが政府の方針でもあるまいて。……ははん、ところでまあ聞いてもくれたまへ。こなひだも荷物を送出すのに儂はいきなり駅長室へ掛合に行つた。あたりには人もゐたから、そろつと二十円ほど駅長の机の上に差出して筆談したわけさ。駅長もよく心得たもので早速それは許可してくれた。
家の焼跡に建ててゐるバラツクももう殆ど落成しさうだ――。
広島からそんな便りを受取ると、彼は一度郷里へ行つてみたくなつた。今年の二月、彼は八幡村から広島の焼跡へ掘出しに行つたのだが、あの時の情景が思ひ出された。眼のとどく処には粗末な小屋が二つ三つあるばかりで焼跡の貌ばかりがほしいままに見渡せたが、彼は青い水を湛へてゐる庭の池の底を覗きながら、まだ八月六日の朝の不思議な瞬間のことを思ひ耽つてゐた。だが、長兄はせつせと瓦礫を拾つては外に放りながら、大工たちを指図してゐるのだつた。大工たちは焼残つた庭樹を焚いて、そのまはりで弁当を食べた。すると、すぐ近くに見える山脈に嶮しい翳りが拡がつて、粉雪がチラつきだした。彼が庭に埋めておいた木箱からは、黒い水に汚れた茶碗や皿が出て来た。それは彼が妻と死別れて、広島に戻る時まで旅先の家で使つてゐた品だつた。が、そんなものは差当つて何にもならなかつたので、彼は姉のところへ預けに行つた。
川口町の焼残つた破屋で最近夫と死別れた姉は、彼の顔を見るたびに、「どうするつもりなの、うかうかしてゐる場合ではないよ」と云ふのであつた。この姉は、これから押寄せてくる恐ろしいものに脅えながら、突落された悲境のなかをどうにかかうにかくぐり抜けてゆく気組を見せてゐた。ところが、彼は罹災以来、八幡村で次兄の家に厄介になつてゐて、飢ゑに苛まれ衰弱してゆく体を視つめながら、漠然と何かを待つてゐたのである。
新シイ人間ガ生レツツアル ソレヲ見ルノハ※シイ 早クヤツテキタマヘ と、東京の友は云つて来た。汽車の制限がなくなるのを待つてゐると、間もなく六大都市転入禁止となつた。
新しい人間が見たいといふ熱望は彼にもあつた。彼があの原子爆弾で受けた感動は、人間に対する新しい憐憫と興味といつていい位だつた。急に貪婪の眼が開かれ、彼は廃墟のなかを歩く人間をよく視詰めた。廃墟の入口のべとべとの広場に出来た闇市には頭髪をてらてら光らし派手なマフラを纏つてゐる青年や、安つぽい衣裳の女を見かけるやうになつた。憩へる場所の一つもない死の街を人はぞろぞろ歩いて居り、ガタガタの電車は軋みながら走つた。彼はその電車のなかで、漁師らしい男が不逞な腕組みをしながら、こんなことを唸つてゐるのをきいた。
「ヘツ! 着物を持つて来て煮干とかへてくれといふやうになりやがつたかツ。もう奴等の底は見えて来たわい」
それは獲物の血を啜つてゐる蜘蛛の姿を連想さすのだつた。だが、さういふ蜘蛛の巣は今にいたるところに張りめぐらされてくるかもしれなかつた。
「もうこれからは百姓になるか、闇屋になるかしなくては、どつちみち生きては行けませんぞ」
以前は敏腕な社員だつたが、今は百姓になつてゐる後藤は、皆を前にして熱心に説くのであつた。それは廿日市の長兄のところで、製作所の解散式が行はれた日のことだつた。彼も半年ほどその製作所にゐたので、次兄と一緒にこの席へ加はつた。罹災以来、製作所の者が顔を合はすのは、それが最初の最後であつた。奇蹟的に皆無事に助かつてゐた。ひどい火傷で生死が気づかはれてゐた西田まで今はピンピンしてゐた。だが、これから皆は何を仕始めたらいいのか、かなり迷つてゐるのだつた。
「たとへまあ商店をやるにしたところで、その脇にちよつと汁粉屋などを兼ねて、二段にも三段にもこまめにせつせと立働くことですな」
後藤がこんなことを面白をかしく喋つてゐると、縁側に自転車の停まる音がして、誰かがのそつと入つて来た。
「バターぢや、雪印が四十五円、どうぢや、要るかなあ」
その男は勝誇つたやうに皆を見下ろしてゐたが、「まあ、まあ、一寸休んで行きなさい」と後藤に云はれると、漸くそこへ腰を下ろし、それから人を小馬鹿にしたやうな調子で喋りだした。
「ははん、これからいよいよ暮し難うなると仰しやるのか、あたりまへよ。大体、十あるものを十人に分けるといふのなら道理も立つが、三つしかないものを十人に分けろなんて、あんまり馬鹿馬鹿しいわい。何もこの際、弱い奴や乞食どもを養つてやるのが政府の方針でもあるまいて。……ははん、ところでまあ聞いてもくれたまへ。こなひだも荷物を送出すのに儂はいきなり駅長室へ掛合に行つた。あたりには人もゐたから、そろつと二十円ほど駅長の机の上に差出して筆談したわけさ。駅長もよく心得たもので早速それは許可してくれた。
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ECDとはこのサイトのこと。確定情報はないが、若木民喜氏本人が運営していたと思われる。http//www.ne.jp/asahi/pero/ecd/top.htm -
メンバー - bananasize @ ウィキ - bananasize @ ウィキ
123456原 尚吾<Hara Shogo>789若林 圭<Wakabayashi Kei>10相原 翔吾<Aihara Shogo> -
紹介 - bananasize @ ウィキ - bananasize @ ウィキ
バナナサイズ123456原 尚吾<Hara Shogo>789若林 圭<Wakabayashi Kei>10相原 翔吾<Aihara Shogo> -
原6丁目公民館/2010-01-19 - 緑のコーディネーター - 緑のコーディネーター
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3rd-meet - j-rurban @ ウィキ - j-rurban @ ウィキ
第3回勉強会2009年11月17日(火)930〜@τ館3階τ31参加者:厳先生、稲葉、原、真鍋、吉次、 -
自ら死を選んだ人々 - MONOSEPIA (世の中みぎひだりごちゃまぜぇ~) - MONOSEPIA (世の中みぎひだりごちゃまぜぇ~)
大輔 原口統三 高野悦子 金鶴泳 川端康成 円谷幸吉 奥浩平 火野葦平 岸上大作 久坂葉子 原民喜 田中英光 太宰治 金子みすゞ 芥川龍之介 松井須磨子 乃木希典 北村 -
四条貴音 - バンパイア - バンパイア
四条 貴音 (cv:原 由実) 年齢 身長 体重 誕生日 血液型 3サイズ 趣味 17歳 169cm 49kg 1月21日 B型 90-62-92 天体観測、舞台鑑賞 -
ニ岡「やれやれ。坂本がうまいなんて怪しいもんだ」 - 二岡@野球ch兼なんJ@ ウィキ - 二岡@野球ch兼なんJ@ ウィキ
ですか解説の名無しさん:2008/11/23(日) 145216.12 IDF4gSWxl/原「だからお前は未熟者なのだ」 3 :どうですか解説の名無しさん:2008/11/23(日) 145316.89 IDvCN+E3EV原 -
ゆきはな - VIPで天鳳 @ wiki - VIPで天鳳 @ wiki
R1800) 柳生あおい(三段R1754) 白雪花(6級R1514) ルイン(四段R1913) 星乃京 氷花 ゆきはな(三段R1698)中の人情報 + ...鉄板おにゃのこ(*´ω
