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江口渙氏の事 - 芥川 竜之介 ( あくたがわ りゅうのすけ )

  • ●続・わが文学半生記●江口渙●春陽堂書店●昭和33年●即決
芥川龍之介  江口は決して所謂快男児ではない。もっと複雑な、もっと陰影に富んだ性格所有者だ。愛憎の動き方なぞも、一本気な所はあるが、その上にまだ殆病的な執拗さが潜んでいる。それは江口自身不快でなければ、近代的と云う語で形容しても好い。兎に角憎む時も愛する時も、何か酷薄に近い物が必江口感情を火照らせている。鉄が焼けるのに黒熱と云う状態がある。見た所は黒いが、手を触れれば、忽その手を爛(ただ)らせてしまう。江口一本気の性格は、この黒熱した鉄だと云う気がする。繰返して云うが、決して唯の鉄のような所謂快男児などの類ではない。
 それから江口の頭は批評家よりも、やはり創作家に出来上っている。議論をしても、論理よりは直観押して行く方だ。だから江口批評は、時によると脱線する事がないでもない。が、それは大抵受取った感銘へ論理の裏打ちをする時に、脱線するのだ。感銘そのものの誤は滅多にはない。「技巧などは修辞学者にも分る。作の力、生命掴むものが本当の批評家である。」と云う説があるが、それはほんとうらしい嘘だ。作の力、生命などと云うものは素人にもわかる。だからトルストイドストエフスキイ翻訳が売れるのだ。ほんとうの批評家にしか分らなければ、どこの新劇団でもストリンドベルクやイブセンをやりはしない。作の力、生命掴むばかりでなく、技巧と内容との微妙関係に一隻眼を有するものが、始めてほんとうの批評家になれるのだ。江口批評家としての強味は、この微妙関係を直覚出来る点に存していると思う。これは何でもない事のようだが、存外今の批評家に欠乏している強味なのだ。
 最後創作家としての江口は、大体として人間的興味を中心とした、心理よりも寧ろ事件を描く傾向があるようだ。「馬丁」や「赤い矢帆」には、この傾向が最も著しく現れていると思う。が、江口人間的興味の後には、屡如何にしても健全とは呼び得ない異常性(アブノオマリティ)が富んでいる。これは菊池が先月の文章世界で指摘しているから、今更繰返す必要もないが、唯、自分にはこの異常性が、あの黒熱した鉄のような江口性格から必然に湧いて来たような心もちがする。同じ病的な酷薄さに色づけられているような心もちがする。描写は殆(ほとんど)谷崎潤一郎氏の大幅な所を思わせる程達者だ。何でも平押しにぐいぐい押しつけて行く所がある。尤もその押して行く力が、まだ十分江口支配され切っていない憾もない事はない。あの力が盲目力(ブラインドフォオス)でなくなる時が来れば、それこそ江口がほんとうの江口になり切った時だ。
 江口過去に於て屡弁難攻撃の筆を弄した。その為に善くも悪くも、いろいろな誤解受けているらしい。江口快男児にするも善い誤解の一つだ。悪い誤解の一つは江口を粗笨漢(そほんかん)扱いにしている。それらの誤解はいずれも江口の為に、払い去られなければならない。江口快男児だとすれば、憂欝な快男児だ。粗笨漢だとすれば、余り教養のある粗笨漢だ。僕は「新潮」の「人の印象」をこんなに長く書いた事はない。それが書く気になったのは、江口江口作品が僕等の仲間に比べると、一番歪んで見られているような気がしたからだ。こんな慌しい書き方をした文章でも、江口を正当に価値づける一助になれば、望外の仕合せだと思っている。



底本:「大川の水・追憶本所両国 現代日本エッセイ講談社文芸文庫講談社
   1995(平成7)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「芥川龍之介全集 第一〜九、一二巻」岩波書店
   1977(昭和52)年7、9〜12月、1978(昭和53)年1〜4、7月発行
入力向井樹里
校正砂場清隆
2007年2月12日作成
青空文庫作成ファイル
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