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江戸か東京か - 淡島 寒月 ( あわしま かんげつ )

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  • 江戸川乱歩と13人の新青年◆江戸川乱歩と13の宝石 初版 セット
  • 林美一2冊セット帯付 江戸艶本を読む、江戸艶本スキャンダル
  • 【江戸川区】(江戸川区)8階・南東角部屋・新規リフォーム
  • 【江戸川区】(江戸川区)南道路、37坪超の土地
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  • 『いな吉江戸暦』改題 大江戸仙女暦 / 石川 英輔
  • 江戸川乱歩☆江戸川乱歩傑作選・文庫本
  • 江戸浮世絵 彩色木版画 地図『江戸城下絵図』高井蘭山 和本 
  • 嘉永・慶応 江戸切絵図 江戸東京今昔切絵図散歩 尾張屋清七板
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 私が子供の時に見たり聞いたりしたことを雑然とお話しようが、秩序も何もありませんよ。その上子供の時の事ですから、年代などは忘れてしまってる。元治慶応明治初年から十五、六年までの間です。私が住っていた近くの、浅草から両国馬喰町(ばくろちょう)辺の事ですか――さようさね、何から話して好いか――見世物ですな、こういう時代があった。何でもかんでも大きいものが流行(はや)って、蔵前(くらまえ)の八幡境内に、大人形といって、海女(あま)の立姿の興行物があった。凡(およ)そ十丈もあろうかと思うほどの、裸体の人形で、腰には赤の唐縮緬(からちりめん)の腰巻をさして下からだんだん海女胎内に入るのです。入って見ると彼地此地(あちこち)に、十ケ月の胎児見世物がありましたよ。私は幾度も登ってよくその海女の眼や耳から、東京市中を眺(なが)めましたっけ。当時「蔵前大人形さぞや裸で寒かろう」などいうのが流行った位でした。この大人形が当ったので、回向院(えこういん)で江の島弁天何か開帳があった時に、回向院の地内に、朝比奈三郎の大人形が出来た。五丈ほどありまして、これは中へ入るのではなく、島台(しまだい)が割れると、小人島の人形が出て踊るというような趣向でした。それから浅草の今パノラマのある辺(あたり)に、模型富士山出来たり、芝浦にも富士が作られるという風に、大きいもの/\と目がけてた。可笑(おかし)かったのは、花時(はなどき)に向島(むこうじま)に高櫓(たかやぐら)を組んで、墨田の花を一目に見せようという計画でしたが、これは余り人が這入(はい)りませんでした。今の浅草十二階などは、この大きいものの流行最後出来遺物です。これは明治前でしたが、当時の両国橋の繁華といったら、大したもので、弁天開帳の時などは、万燈(まんとう)が夥(おびただ)しく出て、朝詣(あさまいり)の有様ったらありませんでしたよ。松本喜三郎の西国三十三観音御利益(ごりやく)を人形にして、浅草見世物にしたのなど流行った。何時(いつ)だったか忘れたが、両国の川の中で、水神祭というのがあった。これには、の組仕事師中の泳ぎの名人の思付(おもいつ)きで、六間ばかりの油紙で張った蛇体の中に火を燈(とも)し、蛇身の所々に棒が付いてあるのを持って立泳ぎをやる。見物がいくばくとも数知れず出たのでしたから、ちょっと見られぬ有様でして、終(しま)いには柳橋芸者が、乙姫(おとひめ)になってこの水神祭に出るという騒ぎでした。確か言問団子(ことといだんご)が隅田川燈籠流(とうろうなが)しをした後で、その趣向の変形したもののようでした。当時の両国は、江戸錦絵(にしきえ)などに残っているように大したもので、当時今の両国公園になっている辺は西両国といって、ここに村右衛門という役者芝居をしていた。私の思うのには、村右衛門が河原物(かわらもの)といわれた役者階級打破に先鞭(せんべん)を附けたものです。というのは、この村右衛門は初め歌舞伎役者でしたのが、一方からいえば堕落して、小屋ものとなって西両国小屋掛(こやがけ)で芝居をしていた。一方では真実役者がそれぞれ立派三座に拠(よ)っていたが、西両国という眼抜きの地に村右衛門が立籠(たてこも)ったので素破(すば)らしい大入(おおいり)です。これがその後一座を率いて、人形町の横にあった中島座となりまた東両国の阪東三八の小屋、今の明治座の前身の千歳座のなお前身である喜昇座の根底を為(な)したので、まず第一歌舞伎役者小屋ものとの彼らの仲間内の階級を打ち破ったのが、この阪東(後改め)大村村右衛門でした。その外の見世物では、東両国の橋袂(はしだもと)には「蛇使」か「ヤレ突けそれ突け」があった。「蛇使」というのは蛇を首へ巻いたり、腕へ巻いたりするのです。「ヤレ突けそれ突け」というのは、――この時代の事ですから、今から考えると随分思い切った乱暴な猥雑(わいざつ)なものですが――小屋の表には後姿の女が裲襠(しかけ)を着て、背を見せている。木戸番(きどばん)は声を限りに木戸札を叩いて「ヤレ突けそれ突け八文じゃあ安いものじゃ」と怒鳴っている。八文払って入って見ると、看板裲襠(しかけ)を着けている女が腰をかけている、その傍(かたわら)には三尺ばかりの竹の棒の先(さ)きが桃色の絹で包んであるのがある。「ヤレ突けそれ突け」というのは、その棒で突けというのです。乱暴なものだ。また最も流行ったのは油壺胡麻油何かを入れて、中に大判小判を沈ましてあって、いくばくか金を出して塗箸(ぬりばし)で大判小判を取上げるので、取上げる事が出来れば、大判小判が貰(もら)えるという興行物がありました。また戊辰(ぼしん)戦争の後には、世の中が惨忍な事を好んだから、仕掛物(しかけもの)と称した怪談見世物が大流行で、小屋の内へ入ると薄暗くしてあって、人が俯向(うつむ)いてる。見物が前を通ると仕掛けで首を上げる、怨(うら)めしそうな顔をして、片手には短刀を以(も)って咽喉(のど)を突いてる、血がポタポタ滴(た)れそうな仕掛になっている。この種のものは色々の際物(きわもの)――当時の出来事などが仕組まれてありました。が、私の記憶しているのでは、何でも心中ものが多かった。こんなのを薄暗い処を通って段々見て行くと、最後人形が引抜(ひきぬ)きになって、人間人形の胴の内に入って目出たく踊って終(はね)になるというのが多かったようです。この怪談掛物の劇(はげ)しいのになると真の闇(やみ)の内からヌーと手が出て、見物の袖を掴(つか)んだり、蛇が下りて来て首筋へ触ったりします。こんなのを通り抜けて出ることが出来れば、反物(たんもの)を景物(けいぶつ)に出すなどが大いに流行ったもので、怪談師の眼吉などいうのが最も名高かった。戦争の後ですから惨忍な殺伐なものが流行り、人に喜ばれたので、芳年(よしとし)の絵に漆(うるし)や膠(にかわ)で血の色を出して、見るからネバネバしているような血だらけのがある。この芳年の絵などが、当時の社会状態の表徴でした。
 見世物はそれ位にして、今から考えると馬鹿々々しいようなのは、郵便ということが初めて出来た時は、官憲仕事ではあり、官吏権威の重々(おもおも)しかった時の事ですから、配達夫が一葉の端書(はがき)を持って「何の某(なにがし)とはその方どもの事か――」といったような体裁でしたよ。まだ江戸の町々には、木戸が残ってあった頃で、この時分までは木戸を閉(さ)さなかったのが、戦争前後は世の中が物騒なので、町々の木戸を閉したのでしたが、木戸番は番太郎といって木戸傍の小屋で、荒物や糊(のり)など売っていたのが、御維新後番兵というものが出来て、番太郎出世して番兵となって、木の棒を持って町々を巡廻し出して、やたらに威張り散し、大いに迷惑がられたものでしたが、これは暫時で廃されてしまった。その番兵の前からポリスというものがあって、これが邏卒(らそつ)となり、巡邏となり、巡査となったので、初めはポリスって原語で呼んでいた訳ですな。こういうように巡査出来る前は世の中は乱妨(らんぼう)で新徴組(しんちょうぐみ)だとか、龍虎隊(りゅうこたい)だとかいうのが乱妨をして、市中を荒らしたので、難儀の趣を訴えて、昼夜の見廻り出来、その大取締が庄内酒井左右衛門尉で、今の警視総監という処なのです。このポリスが出来るまでは、江戸中は無警察のようでした。今商家などに大戸の前の軒下に、格子の嵌(は)めてある家の残っているのは、この時に格子を用心のために作ったので、それまでは軒下の格子などはなかったものだ。
 世の中がこんなに動乱極めている明治元年の頃は、寄席などに行くものがない。ぺいぺい役者や、落語家やこの種の芸人が食うに困り、また士族などが商売を初める者が多く、皆々まず大道商人となって、馬喰町四丁内にギッシリと露店道具屋が出ました。


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