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沼畔小話集 - 犬田 卯 ( いぬた しげる )

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  • モナ・リーザ・バッゲ男爵他 ホレーニア短篇集 初版 1975年
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     伊田見男爵  伊田見男爵と名乗る優男(やさおとこ)が、村の一小学教師をたずねて、この牛久沼畔へ出現ましました。  男爵令嗣は「男爵」と単純に呼ばれることをなぜか非常によろこばれたということであるから、私もこれから、単にそう呼ぶことにしよう。で、閣下、いや、男爵は霞ヶ浦の一孤島――浮島にしばらく滞在されて、そこの村役場書記某というものの紹介状をふところに、わが村の教師のところへやって来たのである。何の目的があって? それはおいおいと判明するであろうが、とにかく同僚の紹介――教師は以前その島に奉職していた――であるから、Mというその教師は、細々と書かれた紹介言葉読み終るや、
「さア、どうぞ……」と丁寧に、若き男爵閣下を客間に招じ、正座に据えたのであった。
 男爵粗末な袷(あわせ)・羽織着流し風呂敷包み一個を所持しているのみであった。(この話は初秋に起った)が、別にそうした風体を気にかけるでもなく、悠々迫らざる態度で、いかにも貴族らしい挨拶をするのであった。
「僕は全体、上流社会が嫌いでしてね。」
「いや、何といっても平民階級の中にいた方が、気がおけませんよ。」
 男爵は、だから「画家」として世に立つべく修業し、写生旅行に、この風光明媚の沼岸へやって来たというのであった。
 M教師酒肴を出しつつ、
「はア、そうですか、この村には小川芋銭先生がおられますが、ご存じですか
 すると男爵は視線をあちこちさせて、
小川……小川先生……そう、あの方は帝展でしたな。有名な方ですな。」
「いや、院展の方で……」と正直なM教師は答えたが、相手が、
「あ、院展でしたな、そう、そう院展の……」
 明らかに狼狽した返答に接すると、こいつは……と考えざるを得なかった。
 雑談数刻、風呂がわいたという知らせに、男爵は、M教師の妻君から手拭を借りて風呂場へ立った。
 その間に、M教師は弟のように可愛がっているという画家――美校出身の、そして芋銭先生弟子であるところの――を呼びに、近くまで自転車を走らせたのであった。
「おいS、俺の家へ、いま男爵閣下がお見えになったんだ。いっしょに飲もう。」
「へえ、珍客だな、しかし何という男爵様なんだい。」
「伊田見っていうんだ。」
「ニセじゃないかね。よくそんな奴が田舎荒し廻るからね。」
「うむ、じつはどうも怪しいから、お前を呼びに来たんだ。」
「じゃ、ひとつ正体を見届けてやるか。」
 二人が勢いこんで取ってかえした時、男爵風呂から上って来た。そして浮島から歩いて来て、足袋がこの通りになってしまったと笑いながら、その汚れたやつを廊下へ投げすてて、風呂敷包の中から、新しいやつを引っ張り出したのであった。新しいといっても洗濯したものである。閣下……いや、男爵は、そいつの皺を伸ばしながら右足に穿(は)き、もう一方を穿こうとすると、どうしたことか、それも右足の方である。
 男爵は、瞬間妙にてれたが、チョッ、と舌打ちして、それを風呂敷包みの中へ押し込み、左足のを探したが、無い!
「宿へ忘れて来たかな! 仕方がない。」
 ひとりつぶやいて、右足のも脱いで、そのまま座ってしまった。
 その夜は雑談に花が咲いて、無事に過ぎた。男爵はなかなか座談に長(た)けていたのである。いかに怪しいとにらんだからといって、まさか、真っ向からそう訊ねるわけにもいかない。いや、本ものであった場合は、大変な「失礼」にあたってしまう。
        *    *    *
 次の日、男爵は沼へ写生にでも行くかと思いのほか、村の有志訪問と出かけたのであった。最初に、農会長を訪ねた。
「僕、満州農場をはじめかけているんですよ。約三千町歩ばかりの荒蕪地を払下げてもらってね。大々的に、近代式の機械をつかって、アメリカ式にやろうと思ってね。」
 そしてそのアメリカ式の大経営が、いかに巨大なる利益のあるものであるか。また、そこの従業員農耕者の雇入れ……いずれ移民を募集するのだが、この辺からも一つ、農会の尽力で、五十名ばかり欲しいものだ。いや、この辺の百姓はなかなか勤勉であるし、次三男諸君も随分いるようである。
 ちょうどそこへは隣村の失業農業技術員Kという青年が来合せていた。男爵はすぐにこのKへ親しみの視線を送り、内地農業の見込みのないこと、将来の農業はどうしてもアメリカ式、ないしロシヤ式でなければならないこと等々を滔々として語り、いかに自分がそういう方面において、新しい計画、経綸を持っているかを誇示したのであった。
 やがて男爵はKといっしょに農会長の宅を辞去した。辞去するまでには、男爵農会長をして翌日、画家小川芋銭氏を紹介させ、そして満州における大農場建設の資金の一助として絵を幾枚か書かせようという手筈まできめてしまったのであった。
「じゃ、どうぞよろしく。」
「承知しました。」
 意気揚々としてそこを出た男爵は、Kの肩を叩いて、
「君、どうだね。ひとつ満州へ勇飛しないかね。」
「いや、大いに勇飛したいと考えていたんですがね。」
「じゃ、僕のところで高給を出そうよ。


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