津軽 関連リンク

太宰 治 のオススメ作品

作家別索引

作品別索引

津軽 - 太宰 治 ( だざい おさむ )

  • 長部日出雄 <津軽世去れ節>  箱付ハードカバー 津軽書房
  • 「津軽世去れ節」長部日出雄・津軽書房
  • ◎ サクラ釣具 御誂 江戸川 1.5m 津軽塗 未使用品 ◎
  • 太宰治 人間失格 ヴィヨンの妻 お伽草子 惜別 津軽 5冊
  • ソニン 津軽海峡の女
  • 太宰治/津軽/晩年/2冊セット/装画 司修
  • 昭和38年 古硬切符・列車寝台券 ★津軽★
  • 即決■【鉄道ダイヤ情報】160(1997-8)特集:津軽海峡線 夏 景色
  • ●昭和20年代●アサヒグラフ昭和29年2月分4冊●津軽風物誌他
  • 8★津軽海峡の女 ソニン
次のページ
の雪  こな雪  つぶ雪  わた雪  みづ雪  かた雪  ざらめ雪  こほり雪   (東奥年鑑より) 序編  或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、それは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要事件の一つであつた。私はに生れ、さうして二十年間、に於いて育ちながら、金木五所川原青森弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、その他町村に就いては少しも知るところが無かつたのである。
 金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これといふ特徴もないが、どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば、水のやうに淡泊であり、悪く言へば、底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである。それから三里ほど南下し、岩木川に沿うて五所川原といふ町が在る。この地方の産物の集散地で人口一万以上あるやうだ。青森弘前の両市を除いて、人口一万以上の町は、この辺には他に無い。善く言へば、活気のある町であり、悪く言へば、さわがしい町である。農村の匂ひは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらゐの小さい町にも既に幽かに忍びいつてゐる模様である。大袈裟な譬喩でわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京に例をとるならば、金木小石川であり、五所川原浅草、といつたやうなところでもあらうか。ここには、私の叔母がゐる。幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕つてゐたので、実にしばしばこの五所川原叔母の家へ遊びに来た。私は、中学校にはひるまでは、この五所川原と金木と、二つの町の他は、津軽の町に就いて、ほとんど何も知らなかつたと言つてよい。やがて、青森中学校入学試験受けに行く時、それは、わづか三、四時間の旅であつた筈なのに、私にとつては非常な大旅行の感じで、その時の興奮を私は少し脚色して小説にも書いた事があつて、その描写は必ずしも事実そのままではなく、かなしいお道化虚構に満ちてはゐるが、けれども、感じは、だいたいあんなものだつたと思つてゐる。すなはち、
「誰にも知られぬ、このやうな佗びしいおしやれは、年一年工夫に富み、村の小学校卒業して馬車にゆられ汽車に乗り十里はなれた県庁所在地の小都会へ、中学校入学試験受けるために出掛けたときの、そのときの少年服装は、あはれに珍妙なものでありました。白いフランネルのシヤツは、よつぽど気に入つてゐたものとみえて、やはり、そのときも着てゐました。しかも、こんどのシヤツには蝶々の翅のやうな大きい襟がついてゐて、その襟を、夏の開襟シヤツの襟を背広上衣の襟の外側に出してかぶせてゐるのと、そつくり同じ様式で、着物の襟の外側にひつぱり出し、着物の襟に覆ひかぶせてゐるのです。なんだか、よだれ掛けのやうにも見えます。でも、少年は悲しく緊張して、その風俗が、そつくり貴公子のやうに見えるだらうと思つてゐたのです。久留米絣に、白つぽい縞の、短い袴をはいて、それから長い靴下、編上のピカピカ光る黒い靴。それからマント。父はすでに歿し、母は病身ゆゑ、少年の身のまはり一切は、やさしい嫂の心づくしでした。少年は、嫂に怜悧に甘えて、むりやりシヤツの襟を大きくしてもらつて、嫂が笑ふと本気に怒り少年美学が誰にも解せられぬことを涙が出るほど口惜しく思ふのでした。『瀟洒、典雅。』少年美学の一切は、それに尽きてゐました。いやいや、生きることのすべて、人生の目的全部がそれに尽きてゐました。マントは、わざとボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑り落ちるやうに、あやふく羽織つて、さうしてそれを小粋な業(わざ)だと信じてゐました。どこから、そんなことを覚えたのでせう。おしやれの本能といふものは、手本がなくても、おのづから発明するものかも知れません。ほとんど生れてはじめて都会らしい都会に足を踏みこむのでしたから、少年にとつては一世一代の凝つた身なりであつたわけです。興奮のあまり、その本州北端の一小都会に着いたとたんに少年言葉つきまで一変してしまつてゐたほどでした。かねて少年雑誌で習ひ覚えてあつた東京弁を使ひました。けれども宿に落ちつき、その宿の女中たちの言葉を聞くと、ここもやつぱり少年の生れ故郷と全く同じ、津軽弁でありましたので、少年はすこし拍子抜けがしました。生れ故郷と、その小都会とは、十里も離れてゐないのでした。」
 この海岸の小都会は、青森市である。津軽第一海港にしようとして、外ヶ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である。ざつと三百二十年ほど前である。当時、すでに人家が千軒くらゐあつたといふ。それから近江越前越後加賀能登若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え、外ヶ浜に於いて最も殷賑の要港となり、明治四年の廃藩置県に依つて青森県誕生すると共に、県庁所在地となつていまは本州の北門を守り、北海道函館との間の鉄道連絡船などの事に到つては知らぬ人もあるまい。現在戸数は二万以上、人口十万を越えてゐる様子であるが、旅人にとつては、あまり感じのいい町では無いやうである。たびたびの大火のために家屋が貧弱になつてしまつたのは致し方が無いとしても、旅人にとつて、市の中心部はどこか、さつぱり見当がつかない様子である。奇妙にすすけた無表情の家々が立ち並び、何事も旅人呼びかけようとはしないやうである。旅人は、落ちつかぬ気持で、そそくさとこの町を通り抜ける。けれども私は、この青森市に四年ゐた。さうして、その四箇年は、私の生涯に於いて、たいへん重大な時期でもあつたやうである。その頃の私の生活に就いては、「思ひ出」といふ私の初期の小説にかなり克明に書かれてある。
「いい成績ではなかつたが、私はその春、中学校受験して合格した。私は、新しい袴と黒い沓下とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよして羅紗のマントを洒落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織つて、その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅装を解いた。


次のページ

太宰 治 (だざい おさむ) 以外のオススメ作品

津軽 (つがる) のリンク元

「津軽-太宰 治」の関連ページ


関連ページ
Web Services by Yahoo! JAPAN