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流浪の追憶 - 坂口 安吾 ( さかぐち あんご )

  • 孤拳伝 流浪篇 沖縄篇 完結編他10冊 今野敏
  • 流浪の果て ヘルマン・ヘッセ 角川文庫
  • ◆新品DVD★『マカロニウエスタン BOX 流浪篇』ルチオフルチ1円
  • 井上光晴著 『流浪』 1989年1刷 (株)福武書店発行
  • 深沢七郎/流浪の手記~風流夢譚の事後話など
  • ◆新品DVD★『マカロニウエスタン BOX 流浪篇』ルチオフルチ1円
  • ●古い楽譜 シューマン 流浪の民 三部合唱 石倉小三郎 昭和28年
  • 流浪のドレイク 4枚
  • ★水の流浪」立松和平 著:有学書林:単行本229P1992年11月初版
  • 三浦哲郎「流浪の人々」
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       (一)  私は友達から放浪児と言はれる。なるほどこのところ数年は定まる家もなく旅やら食客やら転々としたが、関東をめぐる狭小な地域で、放浪なぞと言ふほどのものではない。地上放浪に比べたなら私の精神放浪の方が余程ひどくもあり苦痛でもあつた。然しそれはこゝに書くべき事柄ではない。
 放浪といふほどでなくとも、思ひだすと、なるほど八方に隠見出没した自分の姿に呆れないこともない。然しながらどこの風景がどうであつたといふことになると皆目手掛かりのない市や町がある。それはみんな酒のためだ。
 小田原牧野信一さんの所に暫くころがつてゐたことがある。初夏であつた。たまに海へは散歩に行つた。大概ぼんやり一室に閉ぢこもつてゐるだけだが(私は旅にでてもいつもさうだ)すると牧野さんが時々庭球選手のやうな颯爽たる服装でやつてきて、おい昆虫採集に行かうと言ふ。牧野さんの昆虫採集も古いものだが未だに根気よく凝つてるらしい。あの頃は病膏肓の時だつた。私は一匹の揚羽蝶をつかまへただけで、昆虫の素ばしこさには手を焼いてゐるから、彼の活躍の後姿を眺めながら煙草をふかしてゐるのであつた。小田原の山は蜜柑等の灌木だけで高い樹木が全くないから陰がない。そして空が澄んでゐる。牧野さんの精神抒情には靄といふものが殆どないのは彼を育てたこの風景のせゐだらうと私は考へてゐる。
 小田原記憶といふとそれだけで、私は小田原の町を知らない。そのくせ毎晩小田原の町を彷徨してゐたのだ。酔ひ痴れてゐたのである。
 山の頂上に豪華なキャッフェがある。そこから見ると街の灯が谷底の中で輝いてゐてひどく綺麗だ。精神の高まるやうな気がする。その酒場で私は小田原医者と知り合つて共に酒を飲んだ筈だ。この医者三十を過ぎたばかりの婦人科医で、血を見ると酒を飲まずにゐられないと言ふのである。その人の顔は忘れたが音声だけは記憶してゐた。
 それから一年半後のことだが、銀座裏のおでん屋でこの医者に再会した。私は曾(かつ)て眼下に見下した小田原のあの澄みきつた街の灯を思ひだしながら生き生きと彼に言つた。
「あの山上の酒場は今も盛大でせうね! 谷底のやうな下界街の灯をみつめて、あの呑んだくれた時でさへ魂が高まるやうな感動受けたのですが……」
「山上の酒場? そんな詩的な場所小田原にありませんよ」
「そんな筈はない。それぢやあ小田原近郊でせう。とにかく山上のその酒場貴方と酒を呑んだではありませんか」
「あれは普通の安カフェーの二階ですよ」
 私の放浪はそんなものだ。魂の放浪がひどいのである。かくまでも印象深い街の灯風景が無残にくづれたとなると、私はもはや小田原の街に就て一語の印象を語る勇気も持ち合せない。
 去年は一夏信州奈良原鉱泉といふところにゐた。寂寥に堪へきれなくなつて酔ひ痴れ、山を降つて上田市や丸子、大屋田中村なぞの宿場旅籠(はたご)に泊つたりしたが、覚えてゐるのは目の覚めた部屋にあつた掛物ばかりで「常に悔ゆる者はよし」なぞといふ有名クリスチャンの書いたものがそんな場所にあつたりして奇異の感を懐いたことを忘れない。酔余素敵な女に会つた。忘れかね山を降りて会ひに行つたら印象とまるで違つた女の様子に這々(ほうほう)の態で逃げ出したことがあつた。

       (二)

 八ヶ岳の中腹に本沢といふ温泉がある。海抜二一〇〇|米(メートル)ぐらゐの地点にあるらしい。大正十二年に出版された某登山家の著書によると、この温泉は春ひらいて秋とざす。一冬八十円の報酬留守番を置き残し一同下山するが、春に訪れてみると大概番人は死んでゐる。首をくゝるもあり半身焼けただれてゐるもあり明らかに殺されてゐる者もあると言ふのであつた。然し八十円の報酬に目がくらんで、番人を希む者は絶えた例がないと言ふ。いまだにさうか私は知らない。
 例の日本一といふ高原鉄道小海線が去年十一月開通した。八ヶ岳の麓千米ほどの高原を通るのである。私はこれに乗り、もし閉ぢられてゐないなら季節の終りの本沢温泉を訪ねてみやうと思つた。八十円に目のくらんだ番人がゐたら茶飲み話をしながら素朴な心境を探りたいとも考へてゐた。去年の十一月の終りのことだ。
 出掛ける途中寄り道をした。


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