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浜菊 - 伊藤 左千夫 ( いとう さちお )

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 汽車がとまる。瓦斯(ガス)燈に「かしはざき」と書いた仮名文字が読める。予は下車の用意を急ぐ。三四人の駅夫が駅の名を呼ぶでもなく、只歩いて通る。靴の音トツトツと只歩いて通る。乗客は各自に車扉を開いて降りる。
 日和下駄カラカラと予の先きに三人の女客が歩き出した。男らしい客が四五人又後から出た。一寸(ちょっと)時計を見ると九時二十分になる。改札口を出るまでは躊躇(ちゅうちょ)せず急いで出たが、夜は意外に暗い。パッタリと闇夜に突当って予は直ぐには行くべき道に践(ふ)み出しかねた。
 今一緒に改札口を出た男女の客は、見る間に影の如く闇に消えて終(しま)った。軒燈の光り鈍く薄暗い停車場一人残った予は、暫(しばら)く茫然たらざるを得なかった。どこから出たかと思う様に、一人の車屋がいつの間にか予の前にきている。
旦那さんどちらで御座います。お安く参りましょう、どうかお乗りなして」という。力のない細い声で、如何(いか)にも淋しい風をした車屋である。予はいやな気持がしたので、耳も貸さずに待合室へ廻った。明日帰る時の用意に発車時間を見て置くのと、直江津なる友人へ急用の端書(はがき)を出すためである。
 キロキロと笛が鳴る。ピューと汽笛が応じて、車は闇中に動き出した。音ばかり長い響きを曳(ひ)いて、汽車長岡方面へ夜のそくえに馳(は)せ走った。
 予は此(こ)の停車場へ降りたは、今夜で三回であるが、こう真暗では殆んど東西の見当も判らない。僅(わず)かな所だが、仕方がないから車に乗ろうと決心して、帰りかけた車屋を急に呼留める。風が強く吹き出し雨を含んだ空模様は、今にも降りそうである。提灯(ちょうちん)を車の上に差出して、予を載せようとする車屋を見ると、如何にも元気のない顔をして居る。下ふくれの青白い顔、年は二十五六か、健康なものとはどうしても見えない。予は深く憐(あわ)れを催した。家には妻も子もあって生活に苦しんで居るものであることが、ありありと顔に見える。予も又胸に一種の淋しみを包みつつある此際、転(うた)た旅情の心細さを彼が為(ため)に増すを覚えた。
 予も無言、車屋も無言。田か畑か判らぬところ五六丁を過ぎ、薄暗い町を三十分程走って、車屋は車を緩めた。
「此の辺が四ッ谷町でござりますが」
「そうか、おれも実は二度ばかり来た家だがな、こう夜深に暗くては、一寸も判らん。なんでも板塀の高い家で、岡村という瓦斯燈が門先きに出てる筈だ」
 暫くして漸(ようや)く判った。降りて見ればさすがに見覚えのある門構(もんがまえ)、あたり一軒も表をあけてる家もない。車屋には彼が云う通りの外に、少し許(ばか)り心づけをやる。車屋は有難うござりますと、詞(ことば)に力を入れて繰返した。
 もう寝たのかしらんと危ぶみながら、潜戸(くぐりど)に手を掛けると無造作に明く。戸は無造作にあいたが、這入(はい)る足は重い。当り前ならば、尋ねる友人の家に著(つ)いたのであるから、やれ嬉しやと安心すべき筈だに、おかしく胸に不安の波が騒いで、此家に来たことを今更悔いる心持がするは、自分ながら訳が解らなかった。しかし此の際|咄嗟(とっさ)に起った此の不安感情解釈する余裕は固(もと)よりない。予の手足と予の体躯(たいく)は、訳の解らぬ意志支配されて、格子戸の内に這入った。
 一間の燈りが動く。上(あが)り端(はな)の障子が赤くなる。同時に其(その)障子が開いて、洋燈(ランプ)を片手にして岡村の顔があらわれた。
「やア馬鹿に遅かったな、僕は七時の汽車に来る事と思っていた」
「そうでしょう、僕もこんなに遅くなるつもりではなかったがな、いやどうも深更に驚かして済まないなア……」
「まアあがり給え」
 そういって岡村は洋燈を手に持ったなり、あがりはなの座敷から、直ぐ隣の茶の間と云ったような狭い座敷へ予を案内した。予は意外な所へ引張り込まれて、落つきかねた心の不安が一層強く募る。尻の据(すわ)りが頗(すこぶ)る悪い。見れば食器を入れた棚など手近にある。長火鉢に鉄瓶が掛かってある。


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