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海の誘惑 - 岸田 国士 ( きしだ くにお )

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  • EP 南 陽子/誘惑 見本盤
  • 天使の誘惑 60本迄対応可能
  • 山藍紫姫子/名香智子■誘惑のエメラルド■ワニブックス
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岸田國士  人影のない夕暮砂浜を、たゞ一人、歩いてゐることが好きでした。  それは私の感傷癖と別に関係はないやうです。水と空とを包む神秘な光に心を躍らせる外、一向追憶めいた追憶にふけるわけでもなかつたのですから。まして、月が波の上に出るのを待つて、ロマンスの一節を口吟むほど甘美なリヽシズムをも持ち合せてゐない私なのですから。
 が、然し、それは、私の空想癖とは密接な交渉があるらしく思はれます。なぜなら、あの岩角に当つて砕ける濤(なみ)の姿から、常に一つの連想を呼び起し、渺茫たる水平線の彼方に、やゝもすれば奇怪な幻影を浮び出させるのがおきまりだつたからです。

 憂愁を歌つた世界最初の詩人、シヤトオブリヤンの墓から汀(みぎは)つゞきに、「エメラルドの浜」と呼ばれるブルタアニユの北海岸、そこは河原撫子の乱れ咲くラ・ギモレエの岬なのです
 ホテルとは名ばかりの宿に、私一人が客でした。
「何しにこんな処へ来なすつた」主人は私の顔を見るたんびに、かう訊ねかけたものです。
 それでも、麦の穂が黄ばむ頃になると、松林を背にした宏壮な別荘――「プリムロオズ」と名のついたその別荘前庭で、ナポレオンの血を享けてゐるといふ男装美女が、葉巻をくゆらせながら、多くの紳士淑女に交つて、ゴルフなどをしてゐるのが見えました。

 或る月曜日午後、一台の辻馬車が、私の泊つてゐるホテルの前に駐まりました。車を降りたのは、一目でパリからの客とわかりはしましたが、どつちかと云へば地味なつくりをした、二十二三の女でした。
 女は一人でした。

 さあ、話が面白くなりさうです。と云つて、あなた方の予想どほり、月並な小説事件が起るわけではありません。
 彼女は三度三度食堂へ出て来ました。私は蒸肉の一と切れを自分の皿に盛りながら、いくらかの好奇心も手伝つて、彼女住居などを尋ねました。
 三日たち、四日たち、風が一度吹き、雨が二度降りました。

 五日目の日が暮れかゝらうとする頃です。私は、例によつて、一人で、雨上り砂浜を歩いてゐました。波が少し立つてゐました。何時になく疲れが早く出て、私は、とある岩角に腰を下ろしました。
 私の眼は、もう幻想を追つて、砂と水と空との間をさ迷つてゐました。そこには、見知らぬ男女の、さまざまな姿が浮び、それが代る代る珍らしい踊りを踊つてゐました。
 ふと、私は、後ろから聞えて来る微かな跫音に耳を聳てたのです。
 それは彼女でした。彼女はそつと私に忍び寄らうとしてゐるのです。
 あゝ、かういふと、もうそんな眼附をなさる!
 私は、わざと驚いた振りをして見せました。彼女は、大声に笑ひながら駈け出しました。

 さうさう、彼女は、この土地へ着く早々、しきりに退屈を訴へました。そして、土曜日の晩を待ち遠しがつてゐました。土曜の晩には、パリから、一晩泊りで彼女の夫が来る筈になつてゐるのです。
 余談ですが、パリなどでは、夏になると、細君や子供避暑地にやつて置いて、夫は、土曜日の晩から日曜へかけてそこへ出掛けて行く風習があります。土曜午後、パリの各停車場には、さういふ夫たちを運ぶ汽車が準備されてある。これを俗に「亭主列車(トランドマリ)」と呼んでゐます。
 彼女は、その「亭主列車(トランドマリ)」を待つてゐる細君の一人なのです。尤も、それを待ち暮さないやうな女なら、こんな淋しい土地一人で来るわけがないぢやありませんか。

 そこで彼女は、大声で笑ひながら駈け出しました。と、思ふと、五六間離れた砂山の蔭から、水着一つになつて飛び出しました。私の方は見ずに、そのまゝ、海へ――その姿を私は微笑みながら見送りました。
 彼女のからだは、もう腰から下、水に漬かつてゐました。両手を水平に左右へ、それを肩から押し出すやうに振つて、深く深くと進んで行くのです。一度波を浴びたその乳色の肩先が、薄暮の光を受けて鱗のやうに輝いてゐました。
 間もなく、彼女の首だけが、波の上に浮んで見えました。
 此処に来て、それまでは一度も海にはいらうと思はなかつた私は、この時、何となく、着物が脱ぎたくなつた。何を躊躇してゐるのだ! 起ち上つて、私はまた別の岩角に腰を下ろしてしまひました。

 彼女は、めつたに人と口をきゝませんでした。どうかすると、人に話をさせて、自分何かほかのことを考へてゐる、さういふ風なことさへよくありました。
「本をお読みになれば、何かお貸しゝませうか」
小説? あたし小説は嫌ひですの」
 おゝ、ミュウズよ、彼女冒涜を赦せ。彼女は、その代り彼女の夫を何ものよりも愛してゐるに違ひない。


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