海流 - 宮本 百合子 ( みやもと ゆりこ )
一
やっと客間のドアのあく音がして、瑛子がこっちの部屋へ出て来た。上気した頬の色で、テーブルのところへ突立ったままでいた順二郎と宏子のわきを無言で通り、黙ったまま上座のきまりの席に座った。
そういう母に宏子も順二郎も何も云えなかった。それぞれ坐り、ちぐはぐな夕飯がはじまった。瑛子は箸をとると、型どおりお椀のふたをとったり、野菜を口へ運んだりした。けれどもその様子はただそうやってたべているというだけで、全く心は娘や息子のところに来ていないことが感じられる。宏子は胸がいっぱいで味も分らなかった。
田沢は帰らないで、別な膳が一つだけ彼のために客間の方へ運ばれている。そんなにしてまで、一家の空気の中に彼の存在が主張される不自然な苦痛な緊張が、妙にごたごたした前後のいきさつの裡にあるのであった。
一言も口を利く者もなくてこっちの食事が、落付かない雰囲気の中でどうやら終った。すると、瑛子はすぐ立ちかかって、
「お客間へお茶がいるよ」
と女中に云ったなり、息子と娘に言葉をかけず着物の衿元をつくろいながら、化粧を直すために洗面所の方へ行ってしまった。
白堊の天井から頭の上に煌々と百燭光が輝いている。一輪插し、銀の楊枝箱、鋏、装飾用の寒暖計などがのっている飾盆を挾んで、再び順二郎と宏子とはテーブルのところにのこされた。隈ない光を浴びている順二郎のふっくりとした柔和な顔は幾分蒼ざめて、鼻の下に和毛の微かな陰翳はごみっぽいような疲れたような感じに見える。彼はさっきからひとことも云わず、ふだんより余計瞬きをするような表情で姉を見ているのであった。しばらくして、
「順ちゃん、これからどうする?」
と、宏子がやっとのことで出したようなあたりまえの声の調子できいた。
「僕?」
嵩の高い膝をすこし揺るようにして、順二郎はその独特なふくらみで顔に表情を与えている上瞼の下から素直に姉をみた。
「僕はドイツ語の文典をやる」
「――順ちゃん。一円ばかりもってる?」
「うん、あると思う」
「かしてね。あとで母様に云って返してもらって。――いい?」
「ああ。今すぐ?」
「うん」
弟から金をうけとると、宏子は玄関へ出て靴をはいた。
「すっかり帰っちゃうの?」
うしろに立って姉が靴をはくのを見ていた順二郎がきいた。
「ええ。――だって……。平気だろう?」
「僕はいいさ」
宏子は、お茶の水駅に向って本郷通りの夜店の出ていない側をよって歩いて行った。土曜日の晩らしく、むこう側の明るい書店に白線入りの制帽をかぶった数人の学生の姿が見えたり露店の花屋の前でむき出しの電燈に顔を近々と照らされながら並んで佇んで何か云っている夫婦づれの姿も見える。宏子は合外套のポケットへ手をさしこんで、自分にかかわりのない遠いところにある風景でも眺めるような眼付で、折々賑やかな方を見ながら歩いていた。苦しい気持は複雑な思い出で過去へまで拡がった。苦しい、口では説明しきれないような心持の絡み合いを、宏子は初めて母との間に経験するのではなかった。
宏子が女学校の二年ばかりの時であった。父親の泰造が、滅多にないことだのに家で何か特別な報告の製作をしなければならないことになった。その仕事のために富岡という三十前後の技術家が通って来ることになった。宏子が学校からかえって来る頃は丁度富岡も休む時間で、彼には紅茶とトウストが出された。そして、初めは宏子が白いブラウズの上からつった紺サージのスカアトをひろげて、とんび足に坐って自分の茶碗をかきまわしている前で、女中がそれらのものを盆にのせて、仕事場になっていた客間へ運んで行ったが、いつか、富岡も食堂へよばれて一緒に休むようになった。子供は絶対に入ってはいけないことになっていた仕事場へ、宏子もたまに行って見るようになり、数ヵ月して、その仕事が終った時は、土曜日の夜というと加賀山の家へ富岡が現れるしきたりになった。
泰造はいつも多忙で、かえりが十二時過ることはその頃も今も同じであった。順二郎は小さかったから、九時すぎの客間で喋っているのは富岡と瑛子と宵っぱりな宏子だけであった。濃茶色の布張りのソファにかけて、瑛子はその時も上気して、肌理(きめ)の濃やかさの一層匂うように美しい風で喋っていた。時々亢奮したように白足袋の爪先をせわしく小刻みに動かしたり、あなたのおっしゃることには絶対不賛成です、と云うような切り口上を挾んだりして。――
そのころの宏子はもとより母と富岡とが或る時はひどく抽象的な云いまわしで、礼儀をみださず交わしている話の内容には入って行けないのであったが、客間の中に徐々にかもし出されて、夜が更けるにつれて益々濃くなって行く、暖いような、燿くような、何かがかくされてでもいるような雰囲気に、宏子は早熟に敏感に全身でひきこまれた。何でもない。だが、何だかちがう。十五の宏子の心をひッぱって、わくわくさせるものがある。父親と話している時の母とは違う空気、父と母と富岡とが三人で喋っているときにもない何かが、父のいない土曜日の晩の富岡と母との話しの間には漂った。宏子の感覚はそれに刺戟されるのであった。
そういう晩、その頃生きていた一番末の四つの弟が泣き出す。泣く声が客間まで聴えて来ると、宏子はいつも絶望的にがっかりした。瑛子は、
「おや、敬ちゃんが泣いているよ、宏子、ちょっと」
と云った。きまって、そうであった。
そういう母に宏子も順二郎も何も云えなかった。それぞれ坐り、ちぐはぐな夕飯がはじまった。瑛子は箸をとると、型どおりお椀のふたをとったり、野菜を口へ運んだりした。けれどもその様子はただそうやってたべているというだけで、全く心は娘や息子のところに来ていないことが感じられる。宏子は胸がいっぱいで味も分らなかった。
田沢は帰らないで、別な膳が一つだけ彼のために客間の方へ運ばれている。そんなにしてまで、一家の空気の中に彼の存在が主張される不自然な苦痛な緊張が、妙にごたごたした前後のいきさつの裡にあるのであった。
一言も口を利く者もなくてこっちの食事が、落付かない雰囲気の中でどうやら終った。すると、瑛子はすぐ立ちかかって、
「お客間へお茶がいるよ」
と女中に云ったなり、息子と娘に言葉をかけず着物の衿元をつくろいながら、化粧を直すために洗面所の方へ行ってしまった。
白堊の天井から頭の上に煌々と百燭光が輝いている。一輪插し、銀の楊枝箱、鋏、装飾用の寒暖計などがのっている飾盆を挾んで、再び順二郎と宏子とはテーブルのところにのこされた。隈ない光を浴びている順二郎のふっくりとした柔和な顔は幾分蒼ざめて、鼻の下に和毛の微かな陰翳はごみっぽいような疲れたような感じに見える。彼はさっきからひとことも云わず、ふだんより余計瞬きをするような表情で姉を見ているのであった。しばらくして、
「順ちゃん、これからどうする?」
と、宏子がやっとのことで出したようなあたりまえの声の調子できいた。
「僕?」
嵩の高い膝をすこし揺るようにして、順二郎はその独特なふくらみで顔に表情を与えている上瞼の下から素直に姉をみた。
「僕はドイツ語の文典をやる」
「――順ちゃん。一円ばかりもってる?」
「うん、あると思う」
「かしてね。あとで母様に云って返してもらって。――いい?」
「ああ。今すぐ?」
「うん」
弟から金をうけとると、宏子は玄関へ出て靴をはいた。
「すっかり帰っちゃうの?」
うしろに立って姉が靴をはくのを見ていた順二郎がきいた。
「ええ。――だって……。平気だろう?」
「僕はいいさ」
宏子は、お茶の水駅に向って本郷通りの夜店の出ていない側をよって歩いて行った。土曜日の晩らしく、むこう側の明るい書店に白線入りの制帽をかぶった数人の学生の姿が見えたり露店の花屋の前でむき出しの電燈に顔を近々と照らされながら並んで佇んで何か云っている夫婦づれの姿も見える。宏子は合外套のポケットへ手をさしこんで、自分にかかわりのない遠いところにある風景でも眺めるような眼付で、折々賑やかな方を見ながら歩いていた。苦しい気持は複雑な思い出で過去へまで拡がった。苦しい、口では説明しきれないような心持の絡み合いを、宏子は初めて母との間に経験するのではなかった。
宏子が女学校の二年ばかりの時であった。父親の泰造が、滅多にないことだのに家で何か特別な報告の製作をしなければならないことになった。その仕事のために富岡という三十前後の技術家が通って来ることになった。宏子が学校からかえって来る頃は丁度富岡も休む時間で、彼には紅茶とトウストが出された。そして、初めは宏子が白いブラウズの上からつった紺サージのスカアトをひろげて、とんび足に坐って自分の茶碗をかきまわしている前で、女中がそれらのものを盆にのせて、仕事場になっていた客間へ運んで行ったが、いつか、富岡も食堂へよばれて一緒に休むようになった。子供は絶対に入ってはいけないことになっていた仕事場へ、宏子もたまに行って見るようになり、数ヵ月して、その仕事が終った時は、土曜日の夜というと加賀山の家へ富岡が現れるしきたりになった。
泰造はいつも多忙で、かえりが十二時過ることはその頃も今も同じであった。順二郎は小さかったから、九時すぎの客間で喋っているのは富岡と瑛子と宵っぱりな宏子だけであった。濃茶色の布張りのソファにかけて、瑛子はその時も上気して、肌理(きめ)の濃やかさの一層匂うように美しい風で喋っていた。時々亢奮したように白足袋の爪先をせわしく小刻みに動かしたり、あなたのおっしゃることには絶対不賛成です、と云うような切り口上を挾んだりして。――
そのころの宏子はもとより母と富岡とが或る時はひどく抽象的な云いまわしで、礼儀をみださず交わしている話の内容には入って行けないのであったが、客間の中に徐々にかもし出されて、夜が更けるにつれて益々濃くなって行く、暖いような、燿くような、何かがかくされてでもいるような雰囲気に、宏子は早熟に敏感に全身でひきこまれた。何でもない。だが、何だかちがう。十五の宏子の心をひッぱって、わくわくさせるものがある。父親と話している時の母とは違う空気、父と母と富岡とが三人で喋っているときにもない何かが、父のいない土曜日の晩の富岡と母との話しの間には漂った。宏子の感覚はそれに刺戟されるのであった。
そういう晩、その頃生きていた一番末の四つの弟が泣き出す。泣く声が客間まで聴えて来ると、宏子はいつも絶望的にがっかりした。瑛子は、
「おや、敬ちゃんが泣いているよ、宏子、ちょっと」
と云った。きまって、そうであった。
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