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海異記 - 泉 鏡花 ( いずみ きょうか )

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  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 1』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 ★ 豪華版 日本現代文学全集 泉鏡花集 ★ 講談社
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 6』 (ちくま文庫)
  • 泉鏡花 『泉鏡花集』 限定版 恩地孝四郎装幀 著者落款入 函
  • 泉鏡花 『泉鏡花集成 5』 (ちくま文庫)
  • 古書「名著複刻全集 日本橋 泉鏡花」
  • 日本幻想文学集成 1 泉鏡花 須永朝彦編 梅木英治
  • 図録★番町の家・慶応義塾図書館所蔵泉鏡花遺品展★09年
  • 泉鏡花賞受賞 柳美里「フルハウス」初版
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       一  砂山を細く開いた、両方の裾(すそ)が向いあって、あたかも二頭の恐しき獣の踞(うずくま)ったような、もうちっとで荒海へ出ようとする、路(みち)の傍(かたえ)に、崖(がけ)に添うて、一軒漁師の小家(こいえ)がある。  崖はそもそも波というものの世を打ちはじめた昔から、がッきと鉄(くろがね)の楯(たて)を支(つ)いて、幾億|尋(ひろ)とも限り知られぬ、潮(うしお)の陣を防ぎ止めて、崩れかかる雪のごとく鎬(しのぎ)を削る頼母(たのも)しさ。砂山に生え交(まじ)る、茅(かや)、芒(すすき)はやがて散り、はた年ごとに枯れ果てても、千代(ちよ)万代(よろずよ)の末かけて、巌(いわお)は松の緑にして、霜にも色は変えないのである。
 さればこそ、松五郎。我が勇(いさま)しき船頭は、波打際の崖をたよりに、お浪という、その美しき恋女房と、愛らしき乳児(ちのみ)を残して、日ごとに、件(くだん)の門(かど)の前なる細路へ、衝(つ)とその後姿、相対(あいむか)える猛獣の間に突立(つった)つよと見れば、直ちに海原(うなばら)に潜(くぐ)るよう、砂山を下りて浜に出て、たちまち荒海を漕(こ)ぎ分けて、飛ぶ鴎(かもめ)よりなお高く、見果てぬ雲に隠るるので。
 留守はただ磯(いそ)吹く風に藻屑(もくず)の匂(にお)いの、襷(たすき)かけたる腕(かいな)に染むが、浜百合の薫(かおり)より、空燻(そらだき)より、女房には一際(ひときわ)床(ゆか)しく、小児(こども)を抱いたり、頬摺(ほおずり)したり、子守唄うとうたり、つづれさしたり、はりものしたり、松葉で乾物(ひもの)をあぶりもして、寂しく今日を送る習い。
 浪の音には馴(な)れた身も、鶏(とり)の音(ね)に驚きて、児(こ)と添臥(そいぶし)の夢を破り、門(かど)引(ひ)きあけて隈(くま)なき月に虫の音の集(すだ)くにつけ、夫恋しき夜半(よわ)の頃、寝衣(ねまき)に露を置く事あり。もみじのような手を胸に、弥生(やよい)の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪(ろ)の声にのみ耳を澄ませば、生憎(あやにく)待たぬ時鳥(ほととぎす)。鯨の冬の凄(すさま)じさは、逆巻き寄する海の牙(きば)に、涙に氷る枕(まくら)を砕いて、泣く児を揺(ゆす)るは暴風雨(あらし)ならずや。
 母は腕(かいな)のなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く活計(なりわい)。
 津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖(あたたか)に、北は寒く、一条路(ひとすじみち)にも蔭日向(かげひなた)で、房州も西向(にしむき)の、館山(たてやま)北条とは事かわり、その裏側なる前原鴨川(かもがわ)、古川白子(しらこ)、忽戸(ごっと)など、就中(なかんずく)、船幽霊(ふなゆうれい)の千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には一重(ひとえ)の遮るものもない、太平洋の吹通し、人も知ったる荒磯海(ありそうみ)。
 この一軒屋は、その江見の浜の波打際に、城の壁とも、石垣とも、岸を頼んだ若木の家造(やづく)り、近ごろ別家をしたばかりで、葺(ふ)いた茅(かや)さえ浅みどり、新藁(しんわら)かけた島田が似合おう、女房は子持ちながら、年紀(とし)はまだ二十二三。
 去年ちょうど今時分、秋のはじめが初産(ういざん)で、お浜といえば砂(いさご)さえ、敷妙(しきたえ)の一粒種(ひとつぶだね)。日あたりの納戸に据えた枕蚊帳(まくらがや)の蒼(あお)き中に、昼の蛍の光なく、すやすやと寐入(ねい)っているが、可愛らしさは四辺(あたり)にこぼれた、畳も、縁も、手遊(おもちゃ)、玩弄物(おもちゃ)。
 犬張子(いぬはりこ)が横に寝て、起上り法師(こぼし)のころりと坐(すわ)った、縁台に、はりもの板を斜めにして、添乳(そえぢ)の衣紋(えもん)も繕わず、姉(あね)さんかぶりを軽(かろ)くして、襷(たすき)がけの二の腕あたり、日ざしに惜気(おしげ)なけれども、都育ちの白やかに、紅絹(もみ)の切(きれ)をぴたぴたと、指を反らした手の捌(さば)き、波の音のしらべに連れて、琴の糸を辿(たど)るよう、世帯染みたがなお優しい。
 秋日和の三時ごろ、人の影より、黍(きび)の影、一つ赤蜻蛉(あかとんぼ)の飛ぶ向うの畝(あぜ)を、威勢の可(い)い声。
号外号外。」

       二

「三ちゃん、何の号外だね、」
 と女房は、毎日のように顔を見る同じ漁場(りょうば)の馴染(なじみ)の奴(やっこ)、張(はり)ものにうつむいたまま、徒然(つれづれ)らしい声を懸ける。
 片手を懐中(ふところ)へ突込(つっこ)んで、どう、してこました買喰(かいぐい)やら、一番蛇を呑(の)んだ袋を懐中(ふところ)。微塵棒(みじんぼう)を縦にして、前歯でへし折って噛(かじ)りながら、縁台の前へにょっきりと、吹矢が当って出たような福助頭に向う顱巻(はちまき)。少兀(すこはげ)の紺の筒袖(つつそで)、どこの媽々衆(かかあしゅう)に貰(もら)ったやら、浅黄(あさぎ)の扱帯(しごき)の裂けたのを、縄に捩(よ)った一重(ひとえ)まわし、小生意気に尻下(しりさが)り。
 これが親仁(おやじ)は念仏爺(ねんぶつじじい)で、網の破れを繕ううちも、数珠(じゅず)を放さず手にかけながら、葎(むぐら)の中の小窓の穴から、隣の柿の木、裏の屋根、烏をじろりと横目に覗(のぞ)くと、いつも前はだけの胡坐(あぐら)の膝(ひざ)へ、台尻重く引つけ置く、三代相伝火縄銃、のッそりと取上げて、フッと吹くと、ぱッと立つ、障子のほこりが目に入って、涙は出ても、狙(ねらい)は違えず、真黒(まっくろ)な羽をばさりと落して、奴(やっこ)、おさえろ、と見向(みむき)もせず、また南無阿弥陀(なむあみだ)で手内職
 晩のお菜(かず)に、煮たわ、喰ったわ、その数三万三千三百さるほどに爺(じい)の因果が孫に報(むく)って、渾名(あだな)を小烏(こがらす)の三之助数え年十三の大柄な童(わっぱ)でござる。
 掻垂(かきた)れ眉を上と下、大きな口で莞爾(にっこり)した。
「姉様(あねさん)、己(おら)の号外だよ。今朝、号外に腹が痛んだで、稲葉丸さ号外になまけただが、直きまた号外に治っただよ。」
「それは困ったねえ、それでもすっかり治ったの。」と紅絹切(もみぎれ)の小耳を細かく、ちょいちょいちょいと伸(のば)していう。
「ああ号外だ。もう何ともありやしねえや。」
「だって、お前さん、そんなことをしちゃまたお腹が悪くなるよ。」
「何をよ、そんな事ッて。なあ、姉様(あねさん)、」
甘いものを食べてさ、がりがり噛(かじ)って、乱暴じゃないかねえ。」
「うむ、これかい。」
 と目を上(うわ)ざまに細うして、下唇をぺろりと嘗(な)めた。肩も脛(すね)も懐も、がさがさと袋を揺(ゆす)って、
「こりゃ、何よ、何だぜ、あのう、己(おら)が嫁さんに遣(や)ろうと思って、姥(おんば)が店で買って来たんで、旨(うま)そうだから、しょこなめたい。たった一ツだな。みんな嫁さんに遣るんだぜ。」
 とくるりと、はり板に並んで向(むき)をかえ、縁側に手を支(つ)いて、納戸の方を覗(のぞ)きながら、
「やあ、寝てやがら、姉様(あねさん)、己(おら)が嫁さんは寝(ねん)ねかな。」
「ああ、今しがた昼寝をしたの。」
人情がないぜ、なあ、己(おら)が旨いものを持って来るのに。
 ええ、おい、起きねえか、お浜ッ児(こ)。へ、」
 とのめずるように頸(うなじ)を窘(すく)め、腰を引いて、
「何にもいわねえや、蠅(はえ)ばかり、ぶんぶんいってまわってら。」
「ほんとに酷(ひど)い蠅ねえ、蚊が居なくッても昼間だって、ああして蚊帳へ入れて置かないとね、可哀(かわい)そうなように集(たか)るんだよ。それにこうやって糊(のり)があるもんだからね、うるさいッちゃないんだもの。三ちゃん、お前さんの許(とこ)なんぞも、やっぱりこうかねえ、浜へはちっとでも放れているから、それでも幾干(いくら)か少なかろうねえ。」
「やっぱり居ら、居るどころか、もっと居ら、どしこと居るぜ。一つかみ打捕(ふんづかめ)えて、岡田螺(おかだにし)とか何とかいって、お汁(つけ)の実にしたいようだ。」
 とけろりとして真顔にいう。

       三

 こんな年していうことの、世帯じみたも暮向(くらしむ)き、塩焼く煙も一列(ひとつら)に、おなじ霞(かすみ)の藁屋(わらや)同士と、女房は打微笑(うちほほえ)み、
「どうも、三ちゃん、感心に所帯じみたことをおいいだねえ。


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