海郷風物記 - 木下 杢太郎 ( きのした もくたろう )
夕暮れがた汽船が小さな港に着く。
點燈後程經た頃であるからして、船も人も周圍の自然も極めて蕭(しめや)かである。その間に通ふ靜かな物音を聞いてゐると、かの少年時の薄玻璃(うすはり)の如くあえかなる情操の再び歸り來るのではないかと疑ふ。
艀舟(はしけ)から本船に荷物を積み入るる人々の掛聲は殊に興が深い。
「やつとこ、さいやの、どつこいさあ。」
「やれこら、さよな――。」
と、その「さよな」といふ所から、揃つた聲の調子が急に下つて行くのを聞くのは、眞に悲哀の極みである。諸ろの日本俗謠の暗潮をなす所の一種の哀調が、亦此裡に聞き出されるからである。
強ひて形容すれば、銅青石(アヅリツト)の溶けてなせるが如き冷き冬の夜の空氣の内に――その空氣は漁村の點々たる燈火をもにじませ、將た船の鐘の徒らに風に驚く響にさへ朗かなる金屬の音を含ませる程にも濃いのであるが――そのうちに、かの「やれこらさよな、やこらさのおさあ。」を聞かされるのであるから。
それからまた船が出て行くのである。人と自然との靜かなる生活の間を、黒い大きな船が悠然として悲しき汽笛を後に殘して航行を始める。
そのあとに、まだ耳鳴りのやうに殘つて居る謠(うた)の聲や人のさけびは、正に古酒「LEGENDE」の香ひにも、較ぶれは較ぶべきものであらう。(明治四十三年十二月二十九日伊豆伊東に於て)
海濱に於ける人間の生活とそこの自然との交渉ほど、予等の興味を引く自然觀相の對象は蓋し鮮い。鹿兒島は久しく他郷と交通を謝絶して居たから其風物は甚だ珍らしいさうであるが、予は未だ漫遊の機を得ない。其他|天草(あまくさ)、島原等の九州の諸港でも、紀州沿岸の江浦でも、近く房州、伊豆等に於ても、天候や地勢や生業等の諸條件を稍等しくして居るものの間には、亦必ず共通な人間生活及び其表現を見出し得るのである。ゲエテが古い伊太利亞紀行を讀んでも、殊に其エネチア、ナポリ、シシリヤ等の諸篇は同樣の興味からして予等の膝を打たしめるのである。
温和なる氣侯が彼等を怠惰にする。荒海の力と音とに對する爭が彼等の筋肉を強大にし、其音聲を太く、語調を暴くする。それにも拘らず、常に遠く人里から離れて居る彼等の生活が夫婦間の愛情を濃かにする。誰かあの岩疊の體格、獰猛な顏容の裡に此種の sentimentalisme を豫期しよう。が、同時に、海濱に於ける作業に必然要求せらるる共同生活が、仕事の責任者を無くすと同時に仲間同志の思遣りを深くすると云ふ事は確かである。年寄つた漁夫は小さい子供等を始終叱責して居るけれども、其粗暴な言葉の裏にはきつと快活な諧謔を潜ませて置くのである。この共同生活が實際また、かの渡り鳥や旅行者の心安さのやうに、生活と云ふものを如何にも愉快さうなものにして居る。そして又青い――青い彼方から雲のやうに湧いて來る他郷の船舶、新しい貨物、知らない人々や、その方言乃至珍らしい物語や時花歌(はやりうた)を迎へるのに慣れて居ると云ふ事が、彼等の心を非常に romantique にし、且容易に妄誕を信ぜしむるに至る。そこで「海坊主」「船幽靈」の話が生れる。また荒れた日に水平線に立つ水柱を「龍」といふ奇怪な生物の力に歸せねば止まぬのである。將又この羅曼底(ロマンチツク)が實生活にも働くのである。で彼等は祭典を華美にする。其儀式を莊嚴にする。例へば、偶然海岸に漂着した櫛をも――それが橘姫の遺愛の櫛だなどとして――神社に祀る。神主はしかつめらしくそれに和田津海の神社と云ふ名を命ずる。案内記を書く人は古老の傳説を事可笑しく誇張して、櫛漂着一件の考證をする。けれども無學の漁夫や其息子たちはそんな事は知らないから、此神社を龍宮さんと呼び※はせる。それも音を訛つて「りゆうごんさん」にしてしまふのである。然しまたそれからして、反つてこの神社の正體が橘姫の櫛でも、浦島の玉手箱でもなく、「海」だ――限も知らぬ海だ――彼等素朴なる漁夫に(人間の心の約束上、自然)さう解釋せられて、形象を賦せられたる所の海の精靈だと云ふ事を暴露するに至るのである。そんな事は奈何でも可い。もうかの捕捉し難き海の精靈も、ソロモンの壺のやうなこの小さい祠の中に藏められれば、既に彼等の實際生活の役に立たねばならぬ。新しい船の新造下(しんぞおろ)しの時には、港頭を漕いで見せびらかす爲めの口實に、拜み祭られるといふ半間な役をするのである。實は、そのあとで酒を飮む爲めに、日頃素振の氣に食わぬ若い娘を海に入れる爲めに――其前の因縁(いはれ)ありげな儀式として彼等はこれらの海神の祠を拜するに過ぎないのだ。この新造下しの儀式は今は廢つた。海に入れられて水でびしよびしよに濡れた若い娘たちの痛ましい笑顔は、儀式といふ崇高な藝術的活動の裏にかくれた 〔e'rotique〕 であつたに相違ない。而して又一方には此種の羅曼底と結合して、變り易き天候に支配せらるる其日其日の生活が著しく彼等を現世的にし、而して冬も尚鮮かなる雜木山の代赭、海の緑、橘の實の黄色――是等の自然の色彩が彼等の心、服裝、實用的工藝品にけばけばしい原始的の grotesque を賦與する。――誰でも海郷に來てあの「萬祝(まいはひ)」と云ふ着物、船の裝飾などを見たならば直ぐに同じ感想を懷くに相違ない。
今日の午過ぎ、またぶらぶらと海岸を漫歩したのである。すると正月の事であるからして、船は何れも陸に揚げてあつて、胴の間には竹、松、橙を飾り、艫には幟を立ててある。小さい船のは、白か赤かの布である。少し高い所から見ると、殊に赤い旗は、土耳古玉のやうに眞青な海面の前に、強くにゆつと浮び出て、いかにも鮮かである。自然といふ印象派畫工(アンプレツシヨニス卜)の目もさむるやうな此筆觸の手際には實際感心せしめられるのである。またやや大きな船になると、幟の意匠も亦複雜になる。
艀舟(はしけ)から本船に荷物を積み入るる人々の掛聲は殊に興が深い。
「やつとこ、さいやの、どつこいさあ。」
「やれこら、さよな――。」
と、その「さよな」といふ所から、揃つた聲の調子が急に下つて行くのを聞くのは、眞に悲哀の極みである。諸ろの日本俗謠の暗潮をなす所の一種の哀調が、亦此裡に聞き出されるからである。
強ひて形容すれば、銅青石(アヅリツト)の溶けてなせるが如き冷き冬の夜の空氣の内に――その空氣は漁村の點々たる燈火をもにじませ、將た船の鐘の徒らに風に驚く響にさへ朗かなる金屬の音を含ませる程にも濃いのであるが――そのうちに、かの「やれこらさよな、やこらさのおさあ。」を聞かされるのであるから。
それからまた船が出て行くのである。人と自然との靜かなる生活の間を、黒い大きな船が悠然として悲しき汽笛を後に殘して航行を始める。
そのあとに、まだ耳鳴りのやうに殘つて居る謠(うた)の聲や人のさけびは、正に古酒「LEGENDE」の香ひにも、較ぶれは較ぶべきものであらう。(明治四十三年十二月二十九日伊豆伊東に於て)
海濱に於ける人間の生活とそこの自然との交渉ほど、予等の興味を引く自然觀相の對象は蓋し鮮い。鹿兒島は久しく他郷と交通を謝絶して居たから其風物は甚だ珍らしいさうであるが、予は未だ漫遊の機を得ない。其他|天草(あまくさ)、島原等の九州の諸港でも、紀州沿岸の江浦でも、近く房州、伊豆等に於ても、天候や地勢や生業等の諸條件を稍等しくして居るものの間には、亦必ず共通な人間生活及び其表現を見出し得るのである。ゲエテが古い伊太利亞紀行を讀んでも、殊に其エネチア、ナポリ、シシリヤ等の諸篇は同樣の興味からして予等の膝を打たしめるのである。
温和なる氣侯が彼等を怠惰にする。荒海の力と音とに對する爭が彼等の筋肉を強大にし、其音聲を太く、語調を暴くする。それにも拘らず、常に遠く人里から離れて居る彼等の生活が夫婦間の愛情を濃かにする。誰かあの岩疊の體格、獰猛な顏容の裡に此種の sentimentalisme を豫期しよう。が、同時に、海濱に於ける作業に必然要求せらるる共同生活が、仕事の責任者を無くすと同時に仲間同志の思遣りを深くすると云ふ事は確かである。年寄つた漁夫は小さい子供等を始終叱責して居るけれども、其粗暴な言葉の裏にはきつと快活な諧謔を潜ませて置くのである。この共同生活が實際また、かの渡り鳥や旅行者の心安さのやうに、生活と云ふものを如何にも愉快さうなものにして居る。そして又青い――青い彼方から雲のやうに湧いて來る他郷の船舶、新しい貨物、知らない人々や、その方言乃至珍らしい物語や時花歌(はやりうた)を迎へるのに慣れて居ると云ふ事が、彼等の心を非常に romantique にし、且容易に妄誕を信ぜしむるに至る。そこで「海坊主」「船幽靈」の話が生れる。また荒れた日に水平線に立つ水柱を「龍」といふ奇怪な生物の力に歸せねば止まぬのである。將又この羅曼底(ロマンチツク)が實生活にも働くのである。で彼等は祭典を華美にする。其儀式を莊嚴にする。例へば、偶然海岸に漂着した櫛をも――それが橘姫の遺愛の櫛だなどとして――神社に祀る。神主はしかつめらしくそれに和田津海の神社と云ふ名を命ずる。案内記を書く人は古老の傳説を事可笑しく誇張して、櫛漂着一件の考證をする。けれども無學の漁夫や其息子たちはそんな事は知らないから、此神社を龍宮さんと呼び※はせる。それも音を訛つて「りゆうごんさん」にしてしまふのである。然しまたそれからして、反つてこの神社の正體が橘姫の櫛でも、浦島の玉手箱でもなく、「海」だ――限も知らぬ海だ――彼等素朴なる漁夫に(人間の心の約束上、自然)さう解釋せられて、形象を賦せられたる所の海の精靈だと云ふ事を暴露するに至るのである。そんな事は奈何でも可い。もうかの捕捉し難き海の精靈も、ソロモンの壺のやうなこの小さい祠の中に藏められれば、既に彼等の實際生活の役に立たねばならぬ。新しい船の新造下(しんぞおろ)しの時には、港頭を漕いで見せびらかす爲めの口實に、拜み祭られるといふ半間な役をするのである。實は、そのあとで酒を飮む爲めに、日頃素振の氣に食わぬ若い娘を海に入れる爲めに――其前の因縁(いはれ)ありげな儀式として彼等はこれらの海神の祠を拜するに過ぎないのだ。この新造下しの儀式は今は廢つた。海に入れられて水でびしよびしよに濡れた若い娘たちの痛ましい笑顔は、儀式といふ崇高な藝術的活動の裏にかくれた 〔e'rotique〕 であつたに相違ない。而して又一方には此種の羅曼底と結合して、變り易き天候に支配せらるる其日其日の生活が著しく彼等を現世的にし、而して冬も尚鮮かなる雜木山の代赭、海の緑、橘の實の黄色――是等の自然の色彩が彼等の心、服裝、實用的工藝品にけばけばしい原始的の grotesque を賦與する。――誰でも海郷に來てあの「萬祝(まいはひ)」と云ふ着物、船の裝飾などを見たならば直ぐに同じ感想を懷くに相違ない。
今日の午過ぎ、またぶらぶらと海岸を漫歩したのである。すると正月の事であるからして、船は何れも陸に揚げてあつて、胴の間には竹、松、橙を飾り、艫には幟を立ててある。小さい船のは、白か赤かの布である。少し高い所から見ると、殊に赤い旗は、土耳古玉のやうに眞青な海面の前に、強くにゆつと浮び出て、いかにも鮮かである。自然といふ印象派畫工(アンプレツシヨニス卜)の目もさむるやうな此筆觸の手際には實際感心せしめられるのである。またやや大きな船になると、幟の意匠も亦複雜になる。
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南斉 - ひみつ基地のひみつ - ひみつ基地のひみつ
本名は南斉博隆(なんざいひろたか)。帝都計画建設公社勤務。まちづくり担当。1976年生まれ。血液型はA型。早稲田大学卒。よく木下をいじって遊ぶ。2007年5月に結婚した。嫁の美路ともども、木下と山に登ったりして遊んでいる。
