涼味数題 - 寺田 寅彦 ( てらだ とらひこ )
涼しさは瞬間の感覚である。持続すれば寒さに変わってしまう。そのせいでもあろうか、暑さや寒さの記憶に比べて涼しさの記憶はどうもいったいに希薄なように思われる。それはとにかく、過去の記憶の中から涼しさの標本を拾い出そうとしても、なかなか容易に思い出せない。そのわずかな標本の中で、最も古いのには次のようなものがある。
幼い時のことである。横浜(よこはま)であったか、神戸(こうべ)であったか、それすらはっきりしないが、とにかくそういう港町の宿屋に、両親に伴なわれてたった一晩泊まったその夜のことであったらしい。宿屋の二階の縁側にその時代にはまだ珍しい白いペンキ塗りの欄干があって、その下は中庭で樹木がこんもり茂っていた。その木々の葉が夕立にでも洗われたあとであったか、一面に水を含み、そのしずくの一滴ごとに二階の燈火が映じていた。あたりはしんとして静かな闇(やみ)の中に、どこかでくつわ虫が鳴きしきっていた。そういう光景がかなりはっきり記憶に残っているが、その前後の事がらは全く消えてしまっている。ことによると夢であったかもしれないと思われるほどおぼつかない記憶である。この、それ自身にははなはだ平凡な光景を思い出すと、いつでも涼風が胸に満ちるような気がするのである。なぜだかわからない。こんな平凡な景色の記憶がこんなに鮮明に残っているには、何かわけがあったに相違ないが、そのわけはもう詮索(せんさく)する手づるがなくなってしまっている。
中学時代に友人二三人と小舟をこいで浦戸湾(うらとわん)内を遊び回ったある日のことである。昼食時に桂浜(かつらはま)へ上がって、豆腐を二三丁買って来て醤油(しょうゆ)をかけてむしゃむしゃ食った。その豆腐が、たぶん井戸にでもつけてあったのであろう、歯にしみるほど冷たかった。炎天に舟をこぎ回って咽喉(のど)がかわいていたためか、その豆腐が実に涼しさのかたまりのように思われた。
熱い食物で涼しいものもある。小学時代に、夏が来ると南磧(みなみがわら)に納涼場が開かれて、河原の砂原に葦簾張(よしずば)りの氷店や売店が並び、また蓆囲(むしろがこ)いの見世物小屋がその間に高くそびえていた。昼間見ると乞食王国(こじきおうこく)の首都かと思うほどきたないながめであったが、夜目にはそれがいかにも涼しげに見えた。父は長い年月|熊本(くまもと)に勤めていた留守で、母と祖母と自分と三人だけで暮らしていたころの事である。一夏に一度か二度かは母に連れられて、この南磧の涼みに出かけた。手品か軽業(かるわざ)か足芸のようなものを見て、帰りに葦簾張りの店へはいって氷水を飲むか、あるいは熱い「ぜんざい」を食った。この熱いぜんざいが妙に涼しいものであった。店とはいっても葦簾囲(よしずがこ)いの中に縁台が四つ五つぐらい河原の砂利(じゃり)の上に並べてあるだけで、天井は星の降る夜空である。それが雨のあとなどだと、店内の片すみへ川が侵入して来ていて、清冽(せいれつ)な鏡川(かがみがわ)の水がさざ波を立てて流れていた。電燈もアセチリンもない時代で、カンテラがせいぜいで石油ランプの照明しかなかったがガラスのナンキン玉をつらねた水色のすだれやあかい提燈(ちょうちん)などを掛けつらねた露店の店飾りはやはり涼しいものであった。近年東京会館の屋上庭園などで涼みながら銀座(ぎんざ)へんのネオンサインの照明を見おろしているときに、ふいとこの幼時の南磧の納涼場の記憶がよみがえって来て、そうしてあの熱い田舎(いなか)ぜんざいの水っぽい甘さを思い出すと同時になき母のまだ若かった昔の日を思い浮かべることもある。この磧の涼味にはやはり母の慈愛が加味されていたようである。
高知(こうち)も夕なぎの顕著なところで正常な天気の日には夜中にならなければ陸軟風が吹きださない。それに比べると東京の夏は涼風に恵まれている。ずっと昔のことであるが、日本各地の風の日変化の模様を統計的に調べてみたことがある。この結果によると、太平洋岸や瀬戸内海(せとないかい)沿岸の多くの場所では、いわゆる陸軟風と季節的な主風とが相殺するために、夕なぎの時間が延長されるのであるが、東京では、特殊な地形的関係のおかげでこの相殺作用が成立しない。そのために、正常な天候でさえあれば、夕方の涼風を存分に発達させているということがわかったのであった。それはとにかく、こういう意味で、夕風の涼しさは東京名物の一つであろう。夕食後|風呂(ふろ)を浴びて無帽の浴衣(ゆかた)がけで神田(かんだ)上野(うえの)あたりの大通りを吹き抜ける涼風に吹かれることを考えると、暑い汽車に乗って暑い夕なぎをわざわざ追いかけて海岸などへ出かける気になりかねるのである。
もっとも、東京でも蒸し暑い夜の続く年もある。二十余年の昔、小石川(こいしかわ)の仮り住まいの狭い庭へたらいを二つ出してその間に張り板の橋をかけ、その上に横臥(おうが)して風の出るのを待った夜もあった。あまり暑いので耳たぶへ水をつけたり、ぬれ手ぬぐいで臑(すね)や、ふくらはぎや、足のうらを冷却したりする安直な納涼法の研究をしたこともあった。しかし近年は裏の藤棚(ふじだな)の下の井戸水を頭へじゃぶじゃぶかけるだけで納涼の目的を達するという簡便法を採用するようになった。年寄りの冷や水も夏は涼しい。
われわれ日本人のいわゆる「涼しさ」はどうも日本の特産物ではないかという気がする。シナのような大陸にも「涼」の字はあるが日本の「すずしさ」と同じものかどうか疑わしい。ほんのわずかな経験ではあるが、シンガポールやコロンボでは涼しさらしいものには一度も出会わなかった。ダージリンは知らないがヒマラヤはただ寒いだけであろう。暑さのない所には涼しさはないから、ドイツやイギリスなどでも涼しさにはついぞお目にかからなかった。ナイアガラ見物の際に雨合羽(あまがっぱ)を着せられて滝壺(たきつぼ)におりたときは、暑い日であったがふるえ上がるほど「つめたかった」だけで涼しいとはいわれなかった。
少なくも日本の俳句や歌に現われた「涼しさ」はやはり日本の特産物で、そうして日本人だけの感じうる特殊な微妙な感覚ではないかという気がする。
幼い時のことである。横浜(よこはま)であったか、神戸(こうべ)であったか、それすらはっきりしないが、とにかくそういう港町の宿屋に、両親に伴なわれてたった一晩泊まったその夜のことであったらしい。宿屋の二階の縁側にその時代にはまだ珍しい白いペンキ塗りの欄干があって、その下は中庭で樹木がこんもり茂っていた。その木々の葉が夕立にでも洗われたあとであったか、一面に水を含み、そのしずくの一滴ごとに二階の燈火が映じていた。あたりはしんとして静かな闇(やみ)の中に、どこかでくつわ虫が鳴きしきっていた。そういう光景がかなりはっきり記憶に残っているが、その前後の事がらは全く消えてしまっている。ことによると夢であったかもしれないと思われるほどおぼつかない記憶である。この、それ自身にははなはだ平凡な光景を思い出すと、いつでも涼風が胸に満ちるような気がするのである。なぜだかわからない。こんな平凡な景色の記憶がこんなに鮮明に残っているには、何かわけがあったに相違ないが、そのわけはもう詮索(せんさく)する手づるがなくなってしまっている。
中学時代に友人二三人と小舟をこいで浦戸湾(うらとわん)内を遊び回ったある日のことである。昼食時に桂浜(かつらはま)へ上がって、豆腐を二三丁買って来て醤油(しょうゆ)をかけてむしゃむしゃ食った。その豆腐が、たぶん井戸にでもつけてあったのであろう、歯にしみるほど冷たかった。炎天に舟をこぎ回って咽喉(のど)がかわいていたためか、その豆腐が実に涼しさのかたまりのように思われた。
熱い食物で涼しいものもある。小学時代に、夏が来ると南磧(みなみがわら)に納涼場が開かれて、河原の砂原に葦簾張(よしずば)りの氷店や売店が並び、また蓆囲(むしろがこ)いの見世物小屋がその間に高くそびえていた。昼間見ると乞食王国(こじきおうこく)の首都かと思うほどきたないながめであったが、夜目にはそれがいかにも涼しげに見えた。父は長い年月|熊本(くまもと)に勤めていた留守で、母と祖母と自分と三人だけで暮らしていたころの事である。一夏に一度か二度かは母に連れられて、この南磧の涼みに出かけた。手品か軽業(かるわざ)か足芸のようなものを見て、帰りに葦簾張りの店へはいって氷水を飲むか、あるいは熱い「ぜんざい」を食った。この熱いぜんざいが妙に涼しいものであった。店とはいっても葦簾囲(よしずがこ)いの中に縁台が四つ五つぐらい河原の砂利(じゃり)の上に並べてあるだけで、天井は星の降る夜空である。それが雨のあとなどだと、店内の片すみへ川が侵入して来ていて、清冽(せいれつ)な鏡川(かがみがわ)の水がさざ波を立てて流れていた。電燈もアセチリンもない時代で、カンテラがせいぜいで石油ランプの照明しかなかったがガラスのナンキン玉をつらねた水色のすだれやあかい提燈(ちょうちん)などを掛けつらねた露店の店飾りはやはり涼しいものであった。近年東京会館の屋上庭園などで涼みながら銀座(ぎんざ)へんのネオンサインの照明を見おろしているときに、ふいとこの幼時の南磧の納涼場の記憶がよみがえって来て、そうしてあの熱い田舎(いなか)ぜんざいの水っぽい甘さを思い出すと同時になき母のまだ若かった昔の日を思い浮かべることもある。この磧の涼味にはやはり母の慈愛が加味されていたようである。
高知(こうち)も夕なぎの顕著なところで正常な天気の日には夜中にならなければ陸軟風が吹きださない。それに比べると東京の夏は涼風に恵まれている。ずっと昔のことであるが、日本各地の風の日変化の模様を統計的に調べてみたことがある。この結果によると、太平洋岸や瀬戸内海(せとないかい)沿岸の多くの場所では、いわゆる陸軟風と季節的な主風とが相殺するために、夕なぎの時間が延長されるのであるが、東京では、特殊な地形的関係のおかげでこの相殺作用が成立しない。そのために、正常な天候でさえあれば、夕方の涼風を存分に発達させているということがわかったのであった。それはとにかく、こういう意味で、夕風の涼しさは東京名物の一つであろう。夕食後|風呂(ふろ)を浴びて無帽の浴衣(ゆかた)がけで神田(かんだ)上野(うえの)あたりの大通りを吹き抜ける涼風に吹かれることを考えると、暑い汽車に乗って暑い夕なぎをわざわざ追いかけて海岸などへ出かける気になりかねるのである。
もっとも、東京でも蒸し暑い夜の続く年もある。二十余年の昔、小石川(こいしかわ)の仮り住まいの狭い庭へたらいを二つ出してその間に張り板の橋をかけ、その上に横臥(おうが)して風の出るのを待った夜もあった。あまり暑いので耳たぶへ水をつけたり、ぬれ手ぬぐいで臑(すね)や、ふくらはぎや、足のうらを冷却したりする安直な納涼法の研究をしたこともあった。しかし近年は裏の藤棚(ふじだな)の下の井戸水を頭へじゃぶじゃぶかけるだけで納涼の目的を達するという簡便法を採用するようになった。年寄りの冷や水も夏は涼しい。
われわれ日本人のいわゆる「涼しさ」はどうも日本の特産物ではないかという気がする。シナのような大陸にも「涼」の字はあるが日本の「すずしさ」と同じものかどうか疑わしい。ほんのわずかな経験ではあるが、シンガポールやコロンボでは涼しさらしいものには一度も出会わなかった。ダージリンは知らないがヒマラヤはただ寒いだけであろう。暑さのない所には涼しさはないから、ドイツやイギリスなどでも涼しさにはついぞお目にかからなかった。ナイアガラ見物の際に雨合羽(あまがっぱ)を着せられて滝壺(たきつぼ)におりたときは、暑い日であったがふるえ上がるほど「つめたかった」だけで涼しいとはいわれなかった。
少なくも日本の俳句や歌に現われた「涼しさ」はやはり日本の特産物で、そうして日本人だけの感じうる特殊な微妙な感覚ではないかという気がする。
寺田 寅彦 (てらだ とらひこ) 以外のオススメ作品
涼味数題 (りょうみすうだい) のリンク元
- http://atpedia.jp/word/%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%82%82%E3%81%A8
- [[biglobe]] 涼風×大和 小説
- http://docomo.ne.jp/cp/as-rslt.cgi?pno=1&key=%82%cd%82%c8%82%cd%82%be%82%b9%82%a2%82%ea%82%c2&sid=B01
- http://myhealthcare.com/search?q=polyethylene+glycol
- [[OCN]] 寺田寅彦 ”涼味”
- http://s.luna.tv/search.aspx?q=%e6%b6%bc%e9%a2%a8%e3%80%80%e5%a4%a7%e5%92%8c%e3%80%80%e5%b0%8f%e8%aa%ac&st=50&d=&s=0&gl=jp&hl=ja
- http://s.luna.tv/search.aspx?q=%e9%ab%98%e5%8e%9f%e3%80%80%e6%b6%bc%e3%81%97%e3%81%84%e3%80%80%e5%8e%9f%e7%90%86&st=30&d=&s=0&gl=jp&hl=ja
- http://search.auone.jp/?q=%8A%E7%82%C9%82%D3%82%E9%82%E9%94m%8F%D4&sr=0001&link_u=&lr=&ie=SJIS
- [[goo]] 涼味数題
- http://search.mobile.yahoo.co.jp/p/search/pcsite/list?p=%88%AF%97%FA%20%83E%83B%83L%83y%83f%83B%83A&b=3&trans=1
「涼味数題-寺田 寅彦」の関連ページ
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リンク - 本と猫 - 本と猫
県春日部市の伝統工芸、張子人形のお店。縁起物や節句人形、絵画など自由奔放な創作活動を展開されています。楽しい絵付け教室も開催されています。★高知県立文学館「寺田寅彦記念室」・「宮尾文学の世界」他、高知 -
問題ページ18 - pmmo@wiki - pmmo@wiki
を指していないものはどれ? →烏賊燃料として用いられる石炭は、何が変化して出来た物質? →植物天災は忘れたころにやってくる →寺田寅彦1891年に -
地図1/石川県/寺田川ダム - ザ・ダムサイト - ザ・ダムサイト
36/17/25.8,136/38/43.032 -
Only One - atwiki4 @ ウィキ - atwiki4 @ ウィキ
作詞:奥井雅美作曲:影山ヒロノブ編曲:栗山善親、寺田志保Key:寺田志保Bass:山本直哉Strings:小池弘之グループSynth:栗山善親収録Battle No Limit!JAM -
石川県/寺田川ダム - ザ・ダムサイト - ザ・ダムサイト
寺田川ダムをお気に入りに追加寺田川ダムのリンク2009年10月15日(木)水カメ緑クマDが行く~石川・富山編ウィキペディア寺田川ダム寺田川ダムの報道newsプラグインエラー「寺田川ダム」の検索結果を取得できませんでした寺田川ダムの構造分析寺田 -
自民/た行/寺田稔 - 永田町二丁目情報部 - 永田町二丁目情報部
寺田稔をお気に入りに追加くちこみリンクMon, 19 Oc前衆議院議員 寺田稔の政治実感日誌 10月19日(月)Mon, 12 Oc前衆議院議員 寺田稔の政治実感日誌 10月12日(祝・体育 -
寺田有希 - アイドルプロフィール - アイドルプロフィール
寺田有希生年月日:1989年04月21日(20歳)身長:154体重:40B:83W:58H:85カップ:備考:2004年、第29回ホリプロスカウトキャラバン大阪地区グランプリ決勝進出。2005年 -
自民/た行/寺田稔 - 永田町一丁目情報部 - 永田町一丁目情報部
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HERO - atwiki4 @ ウィキ - atwiki4 @ ウィキ
作詞:影山ヒロノブ作曲:影山ヒロノブ編曲:栗山善親、寺田志保Chorus:杉並児童合唱団Key:寺田志保Bass:山本直哉G AG:河野陽吾Strings:小池弘之グループSynth:栗山
