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源氏物語 39 夕霧一 - 紫式部 ( むらさき しきぶ )

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源氏物語 夕霧與謝野晶子訳 つま戸より清き男の出(い)づるころ後夜(ごや)の 律師のまう上るころ    (晶子)  一人夫人の忠実な良人(りょうじん)という評判があって、品行方正を標榜(ひょうぼう)していた源左大将であったが、今は女二(にょに)の宮(みや)に心を惹(ひ)かれる人になって、世間体は故人への友情を忘れないふうに作りながら、引き続いて一条|第(てい)をお訪(たず)ねすることをしていた。しかもこの状態から一歩を進めないではおかない覚悟が月日とともに堅くなっていった。一条御息所(みやすどころ)も珍しい至誠の人であると、近ごろになってますます来訪者が少なく、寂(さび)れてゆく邸(やしき)へしばしば足を運ぶ大将によって慰められていることが多いのであった。初めから求婚者として現われなかった自分が、急に変わった態度に出るのはきまりが悪い、ただ真心で尽くしているところをお認めになったなら、自然に宮のお心は自分へ向いてくるに違いないから時を待とうと、こう大将は思って一日も早く宮と御接近する機会を得たいとうかがい歩いているのである。宮が御自身でお話をあそばすようなことはまだ絶対にない。いつか好機会をとらえて自分の持つ熱情を直接にお告げすることもし、御様子もよく見たいと大将は心に願っていた。
 御息所は物怪(もののけ)で重く煩(わずら)って小野という叡山(えいざん)の麓(ふもと)へ近い村にある別荘病床を移すようになった。以前から祈祷(きとう)を頼みつけていて、物怪を追い払うのに得意な律師叡山の寺にこもっていて、京へは当分出ない誓いを御仏(みほとけ)にしたというのを招くのに都合がよかったからである。その日の幾つかの車とか前駆の人たちとかは皆大将からよこされた。かえって柏木(かしわぎ)の弟たちなどは自身のせわしさに紛れてか、そうした気はつかないふうであった。左大将は兄の未亡人の宮を得たい心でそれとなく申し込んだ時に、もってのほかであるというような強い拒絶的な態度をとられて以来、羞恥(しゅうち)心から出入りもしなくなっているのである。それに比べて大将非常上手(じょうず)な方法をとったものといわねばならない。
 修法をさせていると聞いて大将は僧たちへ出す布施や浄衣の類までも細かに気をつけて山荘へ贈ったのであった。その際病人御息所は返事を書くべくもない容体であったし、女房から挨拶(あいさつ)書きなどを出しておいては、先方の好意が徹底しなかったもののようにお思いになるであろうし、宮様がお高ぶりになりすぎるようにもお思われになるであろうからと女房らがお願いしたために、宮が引き受けて礼状をお書きになった。美しい字のおおような短いお手紙ではあるが、なつかしい味のあるものであったから、いよいよ大将の心は傾いて、それ以後たびたびお手紙差し上げるようになった。結局自分の疑いは疑いでなくなってゆきそうであると、雲井(くもい)の雁(かり)夫人が早くも観察していることにはばかられて、大将小野山荘を訪ねたく思いながらも実行をしかねていた。
 八月二十日ごろで、野のながめも面白いころなのであるから、山荘住まいをしておいでになる恋人大将はお訪ねしたい心がしきりに動いて、
珍しく山から下っていられる某律師にぜひ逢(あ)って相談をしなければならぬことがあったし、御病気御息所別荘お見舞いもしがてらに小野へ行こうと思う」
 と何げなく言って大将は邸(やしき)を出た。前駆もたいそうにはせず親しい者五、六人を狩衣(かりぎぬ)姿にさせて大将は伴ったのである。たいして山深くはいる所ではないが、松が崎(さき)の峰の色なども奥山ではないが、紅葉(もみじ)をしていて、技巧を尽くした都の貴族庭園などよりも美しい秋を見せていた。そこは簡単な小柴垣(こしばがき)なども雅致のあるふうにめぐらせて、仮居ではあるが品よく住みなされた山荘であった。寝殿ともいうべき中央建物の東の座敷のほうに祈祷の壇はできていて、北側の座敷御息所病室となっているために、西向きの座敷に宮はおいでになった。物怪を恐れて御息所は宮を京の邸へおとどめしておこうとしたのであるが、どうしてもいっしょにいたいとついておいでになった宮を、物怪のほかへ散るのを恐れて少しの隔てではあるが病室へはお近づけ申し上げないのである。客を通す座敷がないために、宮のおいでになる室とは御簾(みす)で隔てになった西の縁側についた座敷大将を入れて、上級の女房らしい人たちが御息所との話の取り次ぎに出て来た。
「まことにもったいなく存じます。御親切にたびたびお尋ねくださいました上に、御自身でまたお見舞いくださいますあなた様に対して、もう亡(な)くなってしまいますれば自分お礼を申し上げることができないと考えますことで、もう少し生きようといたします努力をしますことになりました」
 これが御息所からの挨拶(あいさつ)である。
「こちらへお移りになります日に、私もお送りをさせていただきたかったのですが、あやにく六条院の御用の残ったものがありましたものですから失礼をいたしました。その以後も何かと忙しいことがあったものですから、お案じいたしております心だけのことができておらないのを、不本意に心苦しく存じております」
 などと大将は取り次がせている。奥のほうに静かにして宮はおいでになるのであるが、簡単山荘のことであるから、奥といっても深いことはないのであって、若い内親王様がそこにおいでになる気配(けはい)はよく大将にわかるのである。柔らかに身じろぎなどをあそばす衣擦(きぬず)れの音によって、宮のおすわりになったあたりが想像された。魂はそこへ行ってしまったようなうつろな気になりながら、御息所病室とここを通う取り次ぎの女房の往復の暇どる間を、これまでから話し相手にする少将とかそのほかの宮の女房とかを相手にして大将は語っているのであった。
「宮様のほうへ伺うようになりましてから、もう何年と年で数えなければならないほどになりますが、まだきわめてよそよそしいお取り扱いを受けておりますことで、恨めしい気がしますよ。こうした御簾(みす)の前で、人づてのお言葉をほのかに承りうるだけではありませんか。私はまだこんな冷たい御待遇というものを知りませんよ。どんなに古風な気のきかない男に皆さんは私を思っておられるだろうと恥ずかしく思います。青年で気楽な位置におりましたころから、続いて恋愛生活一部にして来ていますれば、こんなに不器用な恋の悩みをしないでも済んだろうと思います。私のように長く心の病気をおさえている人はないでしょう」
 大将はこの言葉のとおりにもう軽々しい多情多感な青年ではない重々しい風采(ふうさい)を備えているのであるから、その人の切り出して言ったことがこれであるのを、女房たちはこんなことになるかともかねてあやぶんでいたと、途方に暮れた気がするのであった。
「私が拙(まず)い御|挨拶(あいさつ)などをしてはかえっていけませんから、あなたが」
 こんなことを皆ひそかに言い合っていて、
「あんなにもお言いになります方に、あまり無関心らしくあそばさないほうがよろしゅうございましょう。何とかおっしゃってくださいませ」
 と宮へ申し上げると、
病人が自身でお話を申し上げることのできませんような失礼な際に、私でも代わりをいたしましてお逢い申し上げたいのでございますが、病人が一時非常に悪うございましたために、私までも健康を害しまして、それでよんどころなく」
 こうお取り次がせになった。
「それは宮様のお言葉ですか」
 と大将は居ずまいを正した。
御息所の御容体を、私自身の病などと比較にもなりませんほどお案じいたしておりますのも何の理由からでございましょう。もったいない話ではございますが、御|憂鬱(ゆううつ)な御気分が朗らかになられますまで、あの方様が御健康でおいでくださいますことは願わしいことだと存じ上げるからでございます。あの方様へお尽くしいたすだけのものとして、私のあなた様へ持ちます真心をお認めくださいませんことはお恨めしいことでございます」
 と大将は言う。
「ごもっともでございます」
 と女房らが言う。
 日は落ちて行く刻で、空も身にしむ色に霧が包んでいて、山の蔭(かげ)はもう小暗(おぐら)い気のする庭にはしきりに蜩(ひぐらし)が鳴き、垣根(かきね)の撫子(なでしこ)が風に動く色も趣多く見えた。植え込みの灌木(かんぼく)や草の花が乱れほうだいになった中を行く水の音がかすかに涼しい。一方では凄(すご)いほどに山おろしが松の梢(こずえ)を鳴らしていたりなどして、不断経の僧の交替時間が来て鐘を打つと、終わって立つ僧の唱える声と、新しい手代わりの僧の声とがいっしょになって、一時に高く経声の起こるのも尊い感じのすることであった。所が所だけにすべてのことが人に心細さを思わせるのであったから、恋する大将の物思わしさはつのるばかりであった。帰る気などには少しもなれない。律師が加持をする音がして、陀羅尼(だらに)経を錆(さ)びた声で読み出した。御息所の病苦が加わったふうであると言って、女房たちはおおかたそのほうへ行っていて、もとから療養の場所で全部をつれて来ておいでになるのでない女房が、宮のおそばに侍しているのは少なくて、宮は寂しく物思いをあそばされるふうであった。


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