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漂泊 - 石川 啄木 ( いしかわ たくぼく )

  • A16『石川啄木』著者加藤悌三[古本・古書
  • (青春新書) 若き日の悩み 石川啄木 送料無料!!
  • ★雲は天才である/石川啄木★
  • ●朗読日本詩歌全集●カセットテープ全6本組石川啄木島崎藤村与
  • 一握の砂 著・石川啄木 函館版
  • ◇単行本 井上ひさし 5冊/腹鼓記/泣き虫なまいき石川啄木/他人の
  • 611石川啄木全集13『性急な思想』昭和26初版
  • 610石川啄木全集『雲は天才である』昭和24初版
  • 文芸臨時増刊 石川啄木読本 S30年 状態下
  • ◆本◆現代日本文学全集15 S29発行 与謝野晶子/寛/石川啄木/北原
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      一  曇つた日だ。  立待岬(たちまちさき)から汐首(しほくび)の岬まで、諸手(もろて)を擴げて海を抱いた七里の砂濱には、荒々しい磯の香りが、何|憚(はばか)らず北國の強い空氣に漲(ひた)つて居る。空一面に澁い顏を開いて、遙かに遙かに地球表面を壓して居る灰色の雲の下には、壓せれれてたまるものかと云はぬ許りに、劫初の儘の碧海が、底知れぬ胸の動搖の浪をあげて居る。右も左も見る限り、鹽を含んだ荒砂は、冷たい浪の洗ふに委せて、此處は拾ふべき貝殼のあるでもなければ、もとより貝拾ふ少女子が、素足に絡(から)む赤の裳の艷立つ姿は見る由もない。夜半の滿潮に打上げられた海藻の、重く濕つた死骸が處々に散らばつて、さも力無げに逶※(のたく)つて居る許り
 時は今五月の半ば。五月といへば、此處北海の浦々でさへ、日は暖かに、風も柔らいで、降る雨は春の雨、濡れて喜ぶ燕の歌は聞えずとも、梅桃櫻ひと時に、花を被(お)かぬ枝もなく、家に居る人も、晴衣して花の下行く子も、おしなべて老も若きも、花の香に醉ひ、醉心地おぼえぬは無いといふ、天(あま)が下の樂しい月と相場が定(きま)つて居るのに、さりとは恁(か)うした日もあるものかと、怪まれる許りな此荒磯寂寞を、寄せては寄する白浪の、魂の臺までも搖がしさうな響きのみが、絶間もなく破つて居る。函館に來て、林なす港の船の檣を見、店美しい街々の賑ひを見ただけの人は、いかに裏濱とはいひ乍ら、大森濱の人氣無さの恁許(かくばか)りであらうとは、よも想ふまい。ものの五町とも距(へだ)たらぬのだが、齷齪(あくせく)と糧(かて)を爭ふ十萬の市民の、我を忘れた血聲の喧囂さへ、浪の響に消されてか、敢て此處までは傳はつて來ぬ。――これ然し、怪むべきでないかも知れぬ、自然の大なる聲に呑まれてゆく人の聲の果敢なさを思へば。
 浪打際に三人の男が居る。男共の背後(うしろ)には、腐れた象の皮を被つた樣な、傾斜の緩い砂山が、恰も「俺が生きて居るか、死んで居るか、誰も知るまい、俺も知らぬ。」と云ふ樣に、唯無感覺に横(よこた)はつて居る。無感覺に投げ出した砂山の足を、浪は白齒をむいて撓(たゆ)まず噛んで居る。幾何(いくら)噛まれても、砂山は痛いとも云はぬ、動きもせぬ。痛いとも云はず、動きもせぬが、浪は矢張根氣よく撓まず噛んで懸る。太初から「生命」を知らぬ砂山と、無窮に醒めて眠らぬ潮騷の海との間に、三人の――生れたり死んだりする三人の男が居る。インバネスを着て、薄鼠色の中折を左の手に持つて、螽(いなご)の如く蹲(しゃが)んで居る男と、大分埃を吸つた古洋服の鈕を皆|脱(はづ)して、蟇の如く胡坐(あぐら)をかいた男とは、少し間を隔てて、共に海に向つて居る。揉(もみ)くちやになつた大島染の袷を着た、モ一人の男は、兩手を枕に、足は海の方へ投げ出して、不作法にも二人の中央(まんなか)に仰向になつて臥(ね)て居る。
 千里萬里の沖から吹いて來て、この、扮裝も違へば姿態も違ふ三人を、皆一樣に吹きつける海の風には、色もなければ、心もない。風は風で、勝手に吹く。人間人間で、勝手なことを考へる。同じ人間で、風に吹かれ乍ら、三人は又三人で、勝手な所を見て勝手なことを考へて居る。
 仰向の男は、空一面|彌漫(はびこ)つて動かぬ灰雲の眞中を、默つて瞶(みつ)めて居る。螽の如く蹲んだ男は、平たい顏を俯向けて、右手食指で砂の上に字を書いて居る。――「忠志」と書いて居る。書いては消し、消しては復同じ字を書いて居る。忠志といふのは此男の名である。何遍も消しては、何遍も書く。用の少い官吏とか會社員とかが、仕樣事なしの暇つぶしに、よく行(や)る奴で、恁※(こんな)事をする男は、大抵彈力のない思想を有つて居るものだ。頭腦に彈機の無い者は、足に力の這入らぬ歩行方(あるきかた)をする。そして、女といふ女には皆好かれたがる。女の前に出ると、處嫌はず氣取つた身振をする。心は忽ち蕩けるが、それで、煙草の煙の吹き方まで可成(かなり)眞面目腐つてやる。何よりも美味い物が好きで、色澤がよいものだ。此忠志君も、美味い物を食ふと見えて平たい顏の血色がよい。
 蟇の如く胡坐をかいた男は、紙莨(たばこ)の煙をゆるやかに吹いて、靜かに海を眺めて居る。凹んだ眼窩の底に陰翳のない眼が光つて、見るからに男らしい顏立の、年齡は二十六七でがなあらう。浮いたところの毫(すこし)もない、さればと云つて心鬱した不安の状もなく、悠然として海の廣みに眼を放(や)る體度は、雨に曝され雪に撃たれ、右から左から風に攻(せ)められて、磯馴の松の偏曲もせず、矗乎(ぬつ)と生ひ立つた杉の樹の樣に思はれる。海の彼方には津輕の山が浮んで、山の左から汐首の岬まで、灰色の空を被いだ太平洋が、唯一色の強い色を湛へて居る。――其水天髣髴の邊にポッチリと黒く浮いてるのは、汽船であらう。無論|駛(はし)つて居るには違ひないが、此處から見ては、唯ポッチリとした黒い星、動いてるのか動かぬのか、南へ駛るのか北へ向くのか、少しも解らぬ。此方へ來るなと思へば、此方へ來る樣に見える。先方(あつち)へ行くなと思へば、先方へ行く樣に見える。何處の港を何日(いつ)發(た)つて、何處の港へ何日着くのか。發(た)つて來る時には、必ず、アノ廣い胸の底の、大きい重い悲痛を、滯りなく出す樣な汽笛を誰憚らず鳴らした事であらう。其勇ましい唸き聲が、眞上の空を擘(つん)ざいて、落ちて四匝(あたり)の山を動かし、反つて數知れぬ人の頭を低れさせて、響の濤の澎湃と、東に溢れ西に漲り、甍を壓し、樹々を震わせ…………………………弱り弱つた名殘の音が、見えざる光となつて、今猶、或は、世界の奈邊(どこ)かにさまようて居るかも知れぬ。と考へて來た時、ポッチリとした沖の汽船が、怎(どう)やら少し動いた樣に思はれた。右へ動いたか左へ寄つたか、勿論それは解らぬが、海に浮んだ汽船だもの動かぬといふ筈はない。必ず動いて居る筈だと瞳を据ゑる。


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